自分には、この男を、殺せない…。
ジョシュアは、心の中で呟いて、床に跪く男を見やった。
一時はあれほどまでに激しく憎み、男を殺すこと、それのみが生きる理由でさえあったのだが、ジョシュアはその機会が訪れた今、それを放棄した。不思議なほどの安息感に包まれ、これまでになく穏やかな気分だった。
「ローシェル警部…」
彼がそう言いかけた時だった。パン、という音がして、エドワード・マクマーナンの頭が突然弾けた。その音の正体を確かめようともせず、ジョシュアはエドワードの死体を盾にしながら、鋼材の陰に身を躍らせた。
「マーク!?」
極度の緊張の余り誤って銃の引き金を引いてしまったのか、そう思って振り返ったオーレリーだったが、ハプスコットの両眼に冷徹な意思の光が宿っているのを見て、そうでないことを知った。
「警部、逃げて!」
ジョシュアが叫ぶのと、ハプスコットが隠し持っていたもう一丁の銃を取り出してオーレリーに向けるのはほとんど同時だった。
オーレリーは身をよじって横に跳んだ。かつて旋盤加工の機械であったガラクタに、したたか左の肩を打ちつけたオーレリーだったが、激痛はもう一方の肩から走った。
撃たれた!?
警察官になって二十年以上たつが、銃で撃たれたのは、彼女にはこれが最初だった。傷口は焼けた鉄鏝を押し当てられたように熱く、体は芯から凍えるように震えた。
なぜ?どうして?疑問符ばかりが彼女の頭に浮かんだが、それに答えるように、ファシカの言葉が思い出された。
ウチのファミリーの中でも飛びっ切り腕の立つ奴を用意させてもらった…。
捜査の最中それらしい影が全く見えないことに不審を抱いてはいたが、こんな狡猾なやり方で来るとは!凶悪な牙を持つ毒蛇は、誰にもその存在を悟られることなく、身を潜めていたというわけだ。
エドワードを撃った銃で自分を撃とうとしなかったのは何か理由があるのか。刑事と犯人を同じ銃で撃っては後で辻褄が合わなくなるということか。芸が細かいな…、ブルブルと小刻みに身を震わせながら、オーレリーは何とか笑おうと唇をその形に曲げた。
すぐにでも襲いかかってくるものと思ったオーレリーだったが、ハプスコットは、今となっては中産階級出身のようなその名前も怪しいものだったが、容易に姿を見せようとはしなかった。
オーレリーの手に残されている銃を恐れているのか。銃があるといっても利き腕は使い物にならず、無論利き腕でない方でも射撃訓練はしているが、こうも体が震えてはまともに撃てるとは彼女には思えなかった。それとも放っておいてもくたばると高を括っているのか。どちらにしてもこの状況が長引けば、一番先に参るのは自分だとオーレリーは思った。
遠くから、虫の音が聞こえてくる。
静寂が廃工場を包み、時の流れさえも止めてしまったかのようだった。それを乱すのは、オーレリーの荒い呼吸音だけだった。ジョシュアとハプスコットは完全にその気配を消している。まるで今ここには自分の他に誰もいないようだと彼女は感想を抱いた。
二人はおそらく互いに息を殺したまま牽制し合っているのだろう。それがハプスコットが自分を襲ってこないもう一つの理由なのだとオーレリーは推測した。
体の震えがいよいよ激しくなり、それに合わせるように呼吸も間断が無くなる。
死にたくない…。嫌だ、こんなところで死にたくない…。
その思いだけがオーレリーの体を支配し、次の瞬間彼女は力の限り叫んだ。
「ハプスコット!話があるの」
無論返事などなかった。オーレリーは構わず続けた。
「その子を、ジョシュアを一人で殺るのは、かなり面倒よ。それよりどうかしら、二人で手を組めば、簡単に片付けられるんじゃない?」
オーレリーはよろよろと立ち上がった。体が震えるのを精一杯こらえて。
「撃たないで、ハプスコット、お願いよ!」
物陰から身を表したオーレリーを、ほんの五、六メートル先で、爬虫類じみた笑みを浮かべながらハプスコットが出迎えた。銃口を彼女の額に向けて。
「どういう心変わりです、あなたらしくない」
オーレリーは両手を真上にかざしたまま銃を足もとに投げ捨てた。
「私だって死にたくないってことよ。それに事をなした暁には、ファシカから、それなりのものをもらうつもり」
「残念だな。あなただけはそんな腐敗とは無縁だと思っていたのに」
「買いかぶらないで。私はそんな立派な警官じゃないわ。それより一つ教えて、ハプスコット。いつから警察を裏切って、マフィアの悪事の片棒を担ぐようになったの?」
ハプスコットは肩をすくめた。
「勘違いしないでほしいな。僕は本来の仕事をやりやすくするために警官になったに過ぎないんだ。 裏切りだなんて、人聞きが悪い」
そうね、と相づちを打ちながら、オーレリーはあらかじめ拾っておいて、カードマジックの要領で人差し指と中指の間に挟んでいた鉄の切片を、ニンジャの手裏剣のように手首のスナップだけでハプ スコットに投げつけた。
それで彼を倒せるとはオーレリーももちろん思っていなかった。一瞬でいい、隙が出来れば。
ハプスコットはオーレリーがそうすることを予測していたようにヒョイと鉄片を避けると薄く笑いながらオーレリーに向けてためらいもなく銃を撃った。
オーレリーは鉄片を投げつけると同時にハプスコットに対して照射角を少しでも狭めようと真後ろに倒れ込んだ。だがそんなことで銃弾を避け切れるわけもなく、彼女の腹部が爆発したように派手に血花を散らした。
ハプスコットの背後で何かが動く気配がした。隙を作ったつもりなど毛頭無かった。ジョシュアを誘き寄せるためにあえてオーレリーの挑発に乗ったハプスコットだったが、振り返った彼が目にしたのは、既にナイフを投げ放った少年の姿だった。
速すぎる!
ハプスコットは、自身の作ったシナリオ、ジョシュアがオーレリーを撃ち、自分が彼と仲間のエドワードをやむを得ず射殺するというもの、本来少年が男を殺すことを土壇場になってためらわなければ、もう少し筋の通ったものになるはずだったが、それのどこにミスがあったのだろうかと自問しながら、自分に向かって一直線に飛んでくるナイフを空中で撃ち落とすべく両手に持つ銃を無闇に撃ちまくった。
ストッ、と何かが彼の額に突き刺さるような音がした。それが何であるのか確かめようとハプスコットは上目を向いたが、そのままバタリと後ろに倒れた。
「ローシェル警部…」
ジョシュアがオーレリーに駆け寄った。
オーレリーは銃弾を右肩部に一発、腹部に二発食らっていた。呼吸は荒く、出血もひどい。
「ジョシュア…」
オーレリーが微かに聞こえる声で少年の名を呼んだ。ジョシュアは顔を近づけた。いきなりオーレリーの左腕がぐいと彼の胸倉を掴んだ。次に彼女の口から出た言葉はジョシュアにとって意外なものだった。
「逃げなさい、ジョシュア…」
ハプスコットがマフィアの手先であった以上、警察に自首しても安全だとは限らない、そのことをオーリーは言っているのだとジョシュアは気づいた。
「早く、行きなさい!」
必死に急き立てるオーレリーだったが、その声は自分でも情けない程弱々しかった。幼子が母親の側にいたがるように、ジョシュアも彼女から離れようとしない。
早く、早く、早く…、オーレリーは何度もそう繰り返し、ようやくジョシュアはのろのろと立ち上がった。それでも少年は幾度となく振り返り、オーレリーは歯がゆい思いだった。ジョシュアの姿が視界から消え、オーレリーはようやくホッと安堵の息をついた。
どこまでも逃げて、ジョシュア…。
その言葉が口に出して言えたものなのか、それとも心の中で呟いただけだったのか、その時のオーレリーにはもうわからなかった。
やがて深い闇が彼女を覆った。
*『空のない街』/第十八話 に続く
ジョシュアは、心の中で呟いて、床に跪く男を見やった。
一時はあれほどまでに激しく憎み、男を殺すこと、それのみが生きる理由でさえあったのだが、ジョシュアはその機会が訪れた今、それを放棄した。不思議なほどの安息感に包まれ、これまでになく穏やかな気分だった。
「ローシェル警部…」
彼がそう言いかけた時だった。パン、という音がして、エドワード・マクマーナンの頭が突然弾けた。その音の正体を確かめようともせず、ジョシュアはエドワードの死体を盾にしながら、鋼材の陰に身を躍らせた。
「マーク!?」
極度の緊張の余り誤って銃の引き金を引いてしまったのか、そう思って振り返ったオーレリーだったが、ハプスコットの両眼に冷徹な意思の光が宿っているのを見て、そうでないことを知った。
「警部、逃げて!」
ジョシュアが叫ぶのと、ハプスコットが隠し持っていたもう一丁の銃を取り出してオーレリーに向けるのはほとんど同時だった。
オーレリーは身をよじって横に跳んだ。かつて旋盤加工の機械であったガラクタに、したたか左の肩を打ちつけたオーレリーだったが、激痛はもう一方の肩から走った。
撃たれた!?
警察官になって二十年以上たつが、銃で撃たれたのは、彼女にはこれが最初だった。傷口は焼けた鉄鏝を押し当てられたように熱く、体は芯から凍えるように震えた。
なぜ?どうして?疑問符ばかりが彼女の頭に浮かんだが、それに答えるように、ファシカの言葉が思い出された。
ウチのファミリーの中でも飛びっ切り腕の立つ奴を用意させてもらった…。
捜査の最中それらしい影が全く見えないことに不審を抱いてはいたが、こんな狡猾なやり方で来るとは!凶悪な牙を持つ毒蛇は、誰にもその存在を悟られることなく、身を潜めていたというわけだ。
エドワードを撃った銃で自分を撃とうとしなかったのは何か理由があるのか。刑事と犯人を同じ銃で撃っては後で辻褄が合わなくなるということか。芸が細かいな…、ブルブルと小刻みに身を震わせながら、オーレリーは何とか笑おうと唇をその形に曲げた。
すぐにでも襲いかかってくるものと思ったオーレリーだったが、ハプスコットは、今となっては中産階級出身のようなその名前も怪しいものだったが、容易に姿を見せようとはしなかった。
オーレリーの手に残されている銃を恐れているのか。銃があるといっても利き腕は使い物にならず、無論利き腕でない方でも射撃訓練はしているが、こうも体が震えてはまともに撃てるとは彼女には思えなかった。それとも放っておいてもくたばると高を括っているのか。どちらにしてもこの状況が長引けば、一番先に参るのは自分だとオーレリーは思った。
遠くから、虫の音が聞こえてくる。
静寂が廃工場を包み、時の流れさえも止めてしまったかのようだった。それを乱すのは、オーレリーの荒い呼吸音だけだった。ジョシュアとハプスコットは完全にその気配を消している。まるで今ここには自分の他に誰もいないようだと彼女は感想を抱いた。
二人はおそらく互いに息を殺したまま牽制し合っているのだろう。それがハプスコットが自分を襲ってこないもう一つの理由なのだとオーレリーは推測した。
体の震えがいよいよ激しくなり、それに合わせるように呼吸も間断が無くなる。
死にたくない…。嫌だ、こんなところで死にたくない…。
その思いだけがオーレリーの体を支配し、次の瞬間彼女は力の限り叫んだ。
「ハプスコット!話があるの」
無論返事などなかった。オーレリーは構わず続けた。
「その子を、ジョシュアを一人で殺るのは、かなり面倒よ。それよりどうかしら、二人で手を組めば、簡単に片付けられるんじゃない?」
オーレリーはよろよろと立ち上がった。体が震えるのを精一杯こらえて。
「撃たないで、ハプスコット、お願いよ!」
物陰から身を表したオーレリーを、ほんの五、六メートル先で、爬虫類じみた笑みを浮かべながらハプスコットが出迎えた。銃口を彼女の額に向けて。
「どういう心変わりです、あなたらしくない」
オーレリーは両手を真上にかざしたまま銃を足もとに投げ捨てた。
「私だって死にたくないってことよ。それに事をなした暁には、ファシカから、それなりのものをもらうつもり」
「残念だな。あなただけはそんな腐敗とは無縁だと思っていたのに」
「買いかぶらないで。私はそんな立派な警官じゃないわ。それより一つ教えて、ハプスコット。いつから警察を裏切って、マフィアの悪事の片棒を担ぐようになったの?」
ハプスコットは肩をすくめた。
「勘違いしないでほしいな。僕は本来の仕事をやりやすくするために警官になったに過ぎないんだ。 裏切りだなんて、人聞きが悪い」
そうね、と相づちを打ちながら、オーレリーはあらかじめ拾っておいて、カードマジックの要領で人差し指と中指の間に挟んでいた鉄の切片を、ニンジャの手裏剣のように手首のスナップだけでハプ スコットに投げつけた。
それで彼を倒せるとはオーレリーももちろん思っていなかった。一瞬でいい、隙が出来れば。
ハプスコットはオーレリーがそうすることを予測していたようにヒョイと鉄片を避けると薄く笑いながらオーレリーに向けてためらいもなく銃を撃った。
オーレリーは鉄片を投げつけると同時にハプスコットに対して照射角を少しでも狭めようと真後ろに倒れ込んだ。だがそんなことで銃弾を避け切れるわけもなく、彼女の腹部が爆発したように派手に血花を散らした。
ハプスコットの背後で何かが動く気配がした。隙を作ったつもりなど毛頭無かった。ジョシュアを誘き寄せるためにあえてオーレリーの挑発に乗ったハプスコットだったが、振り返った彼が目にしたのは、既にナイフを投げ放った少年の姿だった。
速すぎる!
ハプスコットは、自身の作ったシナリオ、ジョシュアがオーレリーを撃ち、自分が彼と仲間のエドワードをやむを得ず射殺するというもの、本来少年が男を殺すことを土壇場になってためらわなければ、もう少し筋の通ったものになるはずだったが、それのどこにミスがあったのだろうかと自問しながら、自分に向かって一直線に飛んでくるナイフを空中で撃ち落とすべく両手に持つ銃を無闇に撃ちまくった。
ストッ、と何かが彼の額に突き刺さるような音がした。それが何であるのか確かめようとハプスコットは上目を向いたが、そのままバタリと後ろに倒れた。
「ローシェル警部…」
ジョシュアがオーレリーに駆け寄った。
オーレリーは銃弾を右肩部に一発、腹部に二発食らっていた。呼吸は荒く、出血もひどい。
「ジョシュア…」
オーレリーが微かに聞こえる声で少年の名を呼んだ。ジョシュアは顔を近づけた。いきなりオーレリーの左腕がぐいと彼の胸倉を掴んだ。次に彼女の口から出た言葉はジョシュアにとって意外なものだった。
「逃げなさい、ジョシュア…」
ハプスコットがマフィアの手先であった以上、警察に自首しても安全だとは限らない、そのことをオーリーは言っているのだとジョシュアは気づいた。
「早く、行きなさい!」
必死に急き立てるオーレリーだったが、その声は自分でも情けない程弱々しかった。幼子が母親の側にいたがるように、ジョシュアも彼女から離れようとしない。
早く、早く、早く…、オーレリーは何度もそう繰り返し、ようやくジョシュアはのろのろと立ち上がった。それでも少年は幾度となく振り返り、オーレリーは歯がゆい思いだった。ジョシュアの姿が視界から消え、オーレリーはようやくホッと安堵の息をついた。
どこまでも逃げて、ジョシュア…。
その言葉が口に出して言えたものなのか、それとも心の中で呟いただけだったのか、その時のオーレリーにはもうわからなかった。
やがて深い闇が彼女を覆った。
*『空のない街』/第十八話 に続く
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