さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

喜びも悲しみも刻み残して50年

2015-05-27 | 日記
 いつものように独り山の道を登っていると、深い杉の林の中の枯れ沢に転がっている倒木に木漏れ日がさして年輪が輝いていました。



 ゆっくりと腰を下ろして数えてみると50数年の年輪でした。50数年前と言えば昭和30年代後半に植林された杉林の倒木なんですよね。

 年輪を数えていると年輪の幅がひとつひとつ違うんです。数年続いて年輪の幅が狭い部分があったり、ゆったりと幅の広い部分があったりするんです。深い杉の森の中で独り年輪の数を数えながら、ふと50数年の過ぎた日々の思いが浮かびました。

 昭和30年代の頃でしようか、私が坂下に住み着いて間もない頃の冬だったと思います。坂下の町並みが豪雪に埋まってしまって何日も自衛隊が除雪作業をやってくれた時がありました。国道を除雪する除雪車など充分でない時代でした。私など朝夕職場に通うために深い雪の上に人の足でつけられた馬の背のような滑り安い4km近い道を歩まなければなりませんでした。一本道です誰かと出会えばどちらかが除けて道を譲らなければなりません。想い出すと坂下の人たちは決し道を争うことはしませんでした。早くを除けて道を譲った方が勝ちなんですよ。さあてどこで道を譲ろうかそこが微妙なんですけどごくごく自然にみな譲り合って通っていましたから不思議です。

 20年数年くらい前だったんでしょうか、すごい干ばつの年がありました。畑作はもちろん水田に引く水がないんですよ。農道の野草はすっかり枯れてしまいました。当時は今ほど水田の水利は完備していませんでした。小さなエンジン着きの自家用ポンプで川から水をくみ上げたり、すくない用水堀の水を公平に水田に引くために集落の人たちが総出で夜通し作業をしたり、公園の芝を助けるために消防車が出て散水したりして大変な年でした。

 私がまだ現役で働いていた時代でした。地球温暖化が問題になっている今から考えると嘘みたいなことですけど冷たい夏の年がありました。東北地方は厳しい冷害でした。近くでは標高の高い猪苗代近辺の被害は大変だったようです。国産の米が少ないのでタイ国あたりの産米、細長い米が大量に輸入されました。私なども少し食べましたけど日本人の口には合わず美味しいものではありませんでした。

 ところがあとで聞くと会津地方では冷害ではなかったんだそうです。盆地ですから冷たい風のやませは来ないので冷害にはならなかったのです。むしろ冷害で米価が高騰して会津地方の農家は潤ったんだと密かな話に聞いたことがありました。嘘かまことかわ私には分かりませんでしたけど。

 いろんなこがありますけど、思いは自分のことにも及びました。長い年月の間には喜びも悲しみ苦しみあります。でも不思議なことに苦しかったこと悲しかったことなど今はそれが懐かしく想い起こすことができるんです。90年近く生きて元気に山など歩っている山太郎の今が幸せだからなんでしょうね。杉林の中で独り年輪を数えながら思たことどもです。