さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

河川敷公園の緑が美しい

2021-07-30 | 日記

爽やかな早朝の散歩を愉しみました。

 

パークゴルフの人たちも明るく楽しそうにゲームしてました

 


2020年オリンピック
金・金・金・・柔道に、水泳に、体操に・・・メダルにラッシュに快哉を叫びたくなります。アスリート達の活躍に感動です。

でも怖いニュースも聞こえてきます。東京都の新感染者38.60人、全国の新感染者は10,612人・・・

考えてみればオリンピックのメダルラッシュも、新感染者の爆発的な増加の予想も私のような惚けた老体の耳にさえ入っていたような気がします。

「安全安心のオリンピック」といわれ、町や県などの行政の庁も国の行政の中心の官邸も医療関係者も必死の対応と努力がなされたろうに新感染者の爆発的な増加のニュースに国民は恐れおののいている現状です。

今度のばくはつ的増加の中心は20歳代と30歳代と聞いています。私などにはよくは分かりませんが新感染者がこのまま増加すれば感染発病しても入院治療してくれる病院はなくなるんじゃんかろうか?と思ってしまうんです。何かが大きく違ったんでしょうね。オリパラがおわったあとが心配なボケ老の私です。


たれ一人姿の見えぬ野辺が静かです。

2021-07-28 | 日記

 

賑々しいアスリート達の輝く金・金・金の声も、

都の感染者2848人そして無症状の感染者多数、医療状況逼迫なぞの恐ろしい声なども聞こえてきません。

 

ボケ爺いの老いの目に写るのは整枝されてなくて茂るこんな灌木です。

懐かしいです。桑の木です。昭和初年頃の農村の畑や山の斜面には綺麗に整枝された桑の木が整然と植えられ栽培されていました。絹糸がとれる繭を作る蚕の餌にするためです。

 

当時は農村のどの家でも蚕を飼っていました。蚕の繭はどの家でも大事な現金収入でした。養蚕(ようさん)と言いました。私の家などでは養蚕は母が中心の仕事でした。

春になると蚕紙という蚕の卵が産み付けられた紙を家々を廻ってくる業者から 買うんです。卵から孵った蚕の幼虫はやっと見えるほどの小さな黒ぽい虫です。それを桑の葉を小さく刻んで物の上に鳥の羽でそっと掃いて落とすのです。最初はお膳くらいの広さの蚕の棚ですけど蚕はどんどん脱皮して白い幼虫になります。「お蚕様」といっていました。

最初掃き立てられた「お蚕様」の棚の広さはお膳くらいですけども「お蚕様」が大きくなると「お蚕様」の棚は家のなかいっぱいになるのです。

その頃になると母の指示で父も子供も養蚕の仕事に忙しく取り組むのです。「蚕様」といっていました。「蚕様」の餌になる桑の葉を畑から採ってくる仕事、「蚕様」の糞でいっぱいになった棚を綺麗に取り替える仕事、繭をつくるようになった「お蚕様」をまぶしという繭をつくるものへ移し替える仕事、家族全員が目が回るほどのいそがしさです。

「お蚕様」は蛾の幼虫です。ですから殺虫剤は禁物です。ですから家の中は蠅でいっぱいです。いやー養蚕は大変な仕事でした。

そうして出来た繭は綺麗にして鑑繭所(かんけんじょ)にもっていって等級が決められ換金されるおです。母は毎年繭がいい等級になるのを誇らしく思っていたようです。

繭からつくられた絹糸は輸出され高級の衣類になったんですね。昭和20年の後半ナイロンが開発されるまで続いた農家にとっての大事な副業でした。

そしてまた熟した桑の実はおいしくて幼い子供たちの大事なご馳走でした。口を紫に染めてたべていました。爺いなった今でも採って食べれば美味しいんですよ。


今はもう忘れてしまった養蚕の懐かしい思い出です。


台風8号が東北地歩に上陸か

2021-07-27 | 日記

今夜あたり台風8号が東北地方に上陸?かと言うことで今日の会津は冷たい雨が降っています。強風豪雨にならないように祈るばかりです。


 
会津を直接襲った台風はすくないんですけど

会津地方を襲った強い台風といううと昭和20年台ノ後半に襲った強い台風の思い出があります。70年も昔、私がまだ20歳代の頃で記憶も薄れていますけど、台風の名前は女性の名前だったような気がします。すごく中心気圧が低い台風襲来の予報でした。

台風が近づいてくると気圧が下がっていくのが重々しく体に感じて不安いっぱいになった記憶が残っています。その頃私は奥会津只見で暮らしていました。

奥会津の山あいの川は急流で平地より深い所を流れており洪水で水があふれることはほとんどありませんでした。川岸の崖が洪水で崩れなないようにする岸護岸工事はなされていましたけど、洪水があふれ流れれ出すのを防ぐ堤防はほとんどありませんでした。

でもあのときの台風の豪雨では川幅いっぱいに濁流が流れ、あふれた濁流は道路を洗いました。集落の男どもは蓑笠を身につけて恐怖の思いで轟音を立ててながれる濁流を眺めていました。でも田畑や家屋敷には被害はなっかったような記憶です。

その頃の只見川にはダムが少なくて清流が音をたてて流れていました。でも只見川のダムはどんどん増えてやがては田子倉のダムから三島町宮下のダムまでは流れは消えて水をまんまんとたたえるダム湖の連続になりました。

そのせいかどうかは分かりませんけど2011年(平成23年)の福島新潟豪雨の時には大きな被害がでて多くの橋梁が流されJR只見線は一部不通になりバスによる代行運転が長い間なされていました。数年前から復旧工事がなされていますがまだ完成はしていないようです。場所によっては家屋の被害もあって電力会社からの補償もあったやに聞いております。

今は地球温暖化による気象状況の変動や、ダムなどの流路の変動で過去には起きなかったような事故が起きたりするんですよね。もちろんその対策は充分にとらていると思うンですけど、自然災害は思わぬ事態で起きたりします。ひたすら台風8号が穏やかにすぎるのをいのるばかりです。