さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

私の町の私の好きな家あちこち(9)

2018-02-28 | 日記
「ようこそ、会津坂下町へ」と掲示されてる事務所の建物がありました



この事務所の建物は、今は会津坂下町役場東分庁舎「観光総合案内所」とありますけども、50年ほど昔、自分の家に固定電話を設置して欲しくって足繁くお願いにかよった電電公社の建物だったような気がして懐かしいんです。

当時電話は、60数戸の大きな集落の中では裕福なお宅か、お店のように仕事で電話が必要な家かの数軒しか設置されていませんでした。でも戦後のひもじくて貧しい生活が安定して余裕が出てくると私のような者でさえも電話が欲しくなって電電公社に電話設置のお願いに訪れるようになりました。ところがどっこい電話を設置して欲しい人はわんさといてたくさんの人が電電公社に押しかけていたのです。

当時電電公社は専売公社・国鉄と並んで国の3公社といわれる国営のお役所でした。ですから何度足を運んで電話設置をお願いしても気位のお高い国営のお役所さんです、けんもほろろに希望者がいっぱいで無理ですよと冷たくあしらわれて帰された記憶があるんです。当時電話は庶民の手の届かない貴重なものだったんです。

70年ほど昔、20歳の私は奥会津の60数戸ほどの大きな集落で暮らしていました。この写真は集落の中で只1軒昔名主さんだった方の家に設置されていた電話と同じ形の電話の写真です。ネットで検索してやっと見つけました。


上の箱が電話です。下の箱には電話につなっがている電池が入っています。ガラスの筒の容器に希硫酸の溶液が入っていてプラスの電極になる銅板とマイナスの電極になる亜鉛板がその溶液の中にひたさって入っていました。当時の電話にはみなこの電池がついていたのです。

電話をかけるときは上の電話機の左側の受話器を取って、右側にあるハンドルを回します、すると電話器の中にある小さな発電機が回っておきた電流が局の電話交換所に流れて女の交換手さんを呼びだします。そして交換手さんに「もしもし何番につないでください」とお願いして相手の電話につないでもらって会話するのでした。

その後はいろんな形の電話器が出来、電池は局の備え付けの電池を使うようになりましたけどハンドルを回して局の交換台を呼び出して相手の電話器につないでもらう方式はしばらく変わりませんでした。

でもやがてダイアルを回して相手の電話を呼び出すことの出来る黒電話ができ、電電公社も民営になり、私のようなものも電話を設置することができるようになりました。

そしてついに携帯電話ができた時は驚きました。でもいろんな問題がありました。人前で大きな声で携帯で通話している人を見て「なんてモラルの欠けた恥知らずの人なんだろう」とさげすんだことをいう人もありましたし。また秘密な場所で秘密なことをしている人もいて「もしもしあなた今どこでなにしているの」といわれて困ってしまうという人などもいたように聞いています。新しいものが出来るといろんな問題が起きるんですね。

それがいまではいろんな機能いっぱいのスマホです。息子たちや孫たちが自由につかいこなして楽しんでいます。小学生や中学生も皆もっていていろんな問題もあるやに聞いてもおります。

でも老体の私や88歳のばばちゃんは電話だけの単純な携帯で便利しています。スマホを自由に使いこなして楽しんでいる息子や孫たちをみるとうらやましくなるんですけどとても手を出す気力はもうありません。

昔の電電公社の建物からいろんな思いが浮かびました。老体のぼやきです。でも懐かしいのはやっぱりあの柱にそなえつけられた電池と手回しの発電機のついた大型の固定電話です。あの大きな固定電話できれいな声の交換手さんをよびだし相手の電話につないでもらって話あってみたいです。 

私の町の私の好きな家あちこち(8)

2018-02-26 | 日記
私の大好きだったこのお店の前を通るたび私の心が潤みます

 
 
右側のお店は美味しい手打ち蕎麦と割烹のお店の「民そば屋さん」です。
左側の店の今は冷たくシャッターがおりてお店のネームも消えていますけど、かつてはこんな綺麗な時計と眼鏡のお店だったんです。



30年ほど昔私が現役の職場を定年退職で去るとき仲間の人たちがこのお店から買って贈ってくれた立派な記念の置き時計です。

下に振り子みたいな物が動いています。でもこれは飾りなんですよ。実はこの時計はもうクオーツになっていて振り子もゼンマイも入らないんです。下の振り子みたいな物はメインの時計とは別の電池で飾りに動いているだけなんです。時計には関係ないんです。

40年ほど昔は柱時計も置き時計も腕時計もクオーツになってはおらず、時計を動かす動力は電池ではなくすべてゼンマイでした。時を正確に刻むためには柱時計や大型の置き時計は振り子を使い、小型の置き時計や腕時計は振り子と同じ働きをするテンプを使っていました。腕時計は小さな時計の中にゼンマイやテンプやたくさんの歯車が見事に納められて動く精密機械でした。その性能は機械の軸受けに使われている小さいルビーの宝石の数で決まりました。私の安物の腕時計は4石くらい、高級腕時計は10数石というふうにです。

ゼンマイと振り子を使った昔の時計は定期に機械部分の分解掃除や修理をしなければなりません。ですから昔の時計屋さんの善し悪しはお店の時計師さんのの技量と親切心で決まります。

この時計屋さんは兄弟お二人のりっぱな技能と温かい親切心をもった時計師さんのお店でした。ですから私のわずか3石の安物腕時計もこの時計やさんに持っていって分解掃除や修理をして貰うことでなんの支障もなく使うことが出来たのです。お店の前を通るたびにお二人さんの仕事ぶりをガラスの窓越しに眺めて楽しんだりもしました。ですからとても懐かしいお店だったんです。

でも今は時計はすべて電池で動くクオーツになり3000円程度の腕時計も数十万円の高級腕時計も時間の正確度は実用的にはほとんど差がなくなりました。電池も数年は交換の必要もなく特別なことがなければほとんど故障もありません。ですから高い技能をお持ちの時計師さんの必要もなくなり、実用の時計は量販店から手軽に購入するようになりました。そして街の個人経営の時計屋さんはシャッターを下ろして開かないお店になりました。

この時計屋さんの時計師さんは今どうなさっているんでしょうね。シャッターの閉まったお店の前を通るたびに私は懐かしくそして侘びしくなるんですよ。

10日ぶり リハビリ散歩しました 304歩

2018-02-25 | 日記
10日前吹雪いて除雪車が通っていた家の近くの通りです


今日の通りの空はすっかり春めいてきれいでした。



まだ完治はしてないんですけど少しずつリハビリの距離を伸ばして元の体にするためがんばるつもりです。骨折はしませんけど足首のねんざの痛みはなかなか完治しませんね。毎日湿布薬を張り替えています。薄紙をはがすように少しずつ少しずつ良くなってはいるんですけど・・・ほんとアホなことやってしまいました。反省しきりなんです。

ブログをしばらく休みます。

2018-02-15 | 日記
歳も考えず急ぎのことがあって階段を駆け下り、歳相応に階段を滑落転倒両足をくじいてしまい散歩が出来なくなってしまいました。ですから下手な写真も撮れなくなってしまいました。というこどで楽しい散歩が出来るようになるまでブログの投稿を休みます。

幸い脚の骨は折れていなくて打撲だけですみました。整形外科の先生に「お歳の割りに立派な骨です」と褒められました。痛いやら嬉しいやら困った爺いです。

私の町の私の好きな家あちこち(7)

2018-02-14 | 日記
遠い日のバス停の賑わい懐かしむ
市中一番甲の猪俣商店さんです



このお店は格子戸の美しい私の好きな家のひとつですけど、50数年昔、まだ今のようにすべてが車中心の社会になっていなかった頃、町の大事なバス停だったんですよ。

当時自家用車はお金持ちか事業で必要な方だけのものでした。一般の人の交通手段はJRかバスでした。50数年前40歳代の私は40分近くかけてバスで会津若松に通勤していました。当時のバスは今の大型のバスと違って小型で車の前にエンジンのついたボンネットバスでした。そのバスには運転手さんと若くて美人の車掌さんが乗って運行されておりました。車掌さんは大きな皮の財布みたいな形のかばんを腰の前に下げて乗車券を発売したりお客さんの乗車券を確認したり、道々のバス停の案内をしたり手際よく仕事をしていました。朝の通勤バスなど身動きできないようなすし詰め状態のなかみごとにそれらの仕事をさばいていました。私などはいつもつり革につかまって揺られながら一度でいいから椅子に座ってバス通勤をしてみたいと思っていました。いまと違ってとてもきつい通勤だったのです。

このバス停のお店は会津若松方面行きの道路と広瀬方面の集落を通り喜多方市にいたる道路が分かれる三叉路にありました。朝夕のラッシュ時には20分か30分おきにバスはそれぞれの方面に発車しておりました。ですからこのバス停はいつもバスを待つ人、バスを下りる人で賑わっていました。

このお店では乗車券の発売をしていましたし、寒い時期にはホカホカの金つばを、暑いときには美味しいかき氷なども売っていました。あまりはっきりとは記憶にありませんけど軽食を食べることも出来たような気もします。とにかく賑わって楽しいバス停でした。その頃の名残りでしょうかこんなベンチが残されていて懐かしいです。



今はバス停が別な場所に変わってしまって静かになりました。でも私はこの家の前を通るたび、昔のバス停の賑わいを、美味しいきんつばやかき氷のことなどを懐かしく思いだすのです。私の好きな町の中の数少ないきれいな格子戸のお家でもありますし。