ボクは雑草です

シフトクリエイティブ社長のブログです。

コロニア・オキナワ~ボリビアの沖縄村~

2019-03-19 06:39:14 | 報道/ニュース
南米にボリビアという国があります。ウユニ湖で有名ですがそれ以外はあまり知られていません。日本の3.3倍もの土地に人口およそ1000万人。つまり国土のほとんどが未開発のジャングルです。主な産業は鉱業と農業。資源は豊富なのですが開発が進まず南米では貧しい国と言われています。
そんなボリビア内陸の都市サンタ・クロスから北へ100キロほど行くとコロニア・オキナワつまりオキナワという村があります。人口は1万人ほどですが日系人が800人ほど住んでいます。なんでこんなジャングルの地に日本人が移り住んだのでしょう。その歴史をたどると普天間基地や辺野古移設で大反対している沖縄の人たちの気持ちが少し分かるかもしれませんね。
第二次世界大戦後、日本はアメリカの統治下に置かれ、1951年サンフランシスコ講和条約で主権が認められましたが、沖縄はアメリカの占領地のままでした。そしてアメリカは沖縄に広大な基地を作りました。嘉手納や普天間といった飛行場やキャンプシュワブなどの居住区です。そこに住んでいた人たちは家や農地を奪われ別の土地に移住させられました。その移住先が「緑ゆたかな楽園」といわれた南米ボリビアでした。
1953年、現地に出来たうるま農協からの移住申請でボリビアへ渡った沖縄の人たちは、ブラジルから1週間も列車に揺られ着いたところがジャングルの真ん中。確かに緑は豊かでしたが、ガスはもちろん電気も水も道もないところでした。移住者は途方にくれました。泥水を飲み病気で亡くなる人も。しかし帰る手段はありません。ブラジルへ戻った人もいましたが、残った人たちで森を焼き、あるだけのノコギリや農具で開墾を始めました。そしてわずかな農地と作物で生活を始めました。しかしそれは想像を絶するギリギリの生活でした。
なぜアメリカはこんなジャングルの真ん中へ移住させたのでしょうか。実はここは日本人が移住した実績のある土地だったからです。第一次世界大戦で多額の戦費を使い日本は大変な貧困と食糧難に陥っていました。ブラジルやペルーへの大移住を始めたのもこの頃からでした。一部の人はボリビアにも移住しましたが、ジャングルの真ん中でとても農業は出来ません。そのため開拓をあきらめ去って行きました。ここはその放棄地だったのです。かすかに痕跡はあったものの放棄された土地は荒れ放題でした。
そんなジャングルに移住してきた沖縄の人たちは何年も何年も努力の結果、やっと農地らしい土地を作り、家も住めるようにしました。そしてオキナワ村というコミュニティをつくりました。
普天間を追われた沖縄の人たちの汗と涙の結晶とも言えるオキナワ村はやがてコロニア・オキナワと呼ばれボリビアで一番きれいな村になりました。
先日NHKBSの「世界ふれあい旅歩き」という番組でボリビアのサンタ・クロスを取り上げていました。再放送でしたので最初の放送がいつかは分かりませんが、その番組の中でコロニア・オキナワの資料館が紹介されました。カメラが入ると18才ぐらいのかわいい女の子が床を掃除していました。ニッコリ笑って「三世です」ときれいな日本語で話しました。見た目にも日本人とまったく変わりません。館内には入植当時の写真が飾ってあり、当時使っていたナベや農機具がさびた状態で展示されていました。「おじいさんおばあさんたちは大変な苦労をしたと聞いています」「また来てください」と明るく話していました。一世の人が5~6軒先にいると聞き訪ねると70才ぐらいの女性がみやげ物を売っていました。しかし女性は多くを語ろうとしません。カメラにも無表情。一世の人たちと三世の女の子はあきらかに対応が違いました。沖縄の土地を奪われ移住させられた一世の人の気持ちの一端がそのワンカットから感じられました。
いま、沖縄では辺野古移設反対で大規模な抗議集会が行われています。普天間を返すから代わりの基地を作れ、では沖縄に基地があり続けることになってしまいます。沖縄の人たちの願いは基地をなくすか、または減らして欲しいというものです。
ボリビアに移住したオキナワ村の人たちに帰る土地はありません。いまでも日本語しかしゃべらない一世の人たち。二世三世とともにコロニア・オキナワで暮らしています。
日米安保はこうした人たちの犠牲のうえに成り立っている。そんな気持ちになりました。
2019/03/18

オキナワ村入り口です

資料館です

入植当時の写真

当時の用具

まさに沖縄です