2010年夏、倒れる前後。
私は仕事が大好きだった。
折しもちょうど多言語を始めて1年ほど経った頃。
名前・家族・居住地・好きなこと・嫌いなことを言う自己紹介。
数々の言語で「仕事が好きです!」と言えるほど。
当時と今とで、やっている仕事内容はカラーリスト・コーチとして基本的には変わりない。
長い闘病生活とその間の経験を経て、提供するものの幅や深さは増したけれど。
「指1本自分の意志で動かせなくなった」
そう話すと驚かれるし、時に「そんな風には見えない」とも言われる。
そりゃそうだ。
回復したからこそ、今あなたたちに出会えているのだから。
あんな死にかけの状態で必要以上に人と関わるなんてまっぴら。
あれは自分の心と体、家族、そして自分の過去と向き合う時間だった。
今でも宝のような時間だったと思っている。
そして回復し、社会復帰していく。
まわりから見たらそこで一区切り。
ハッピーエンドなのかもしれない。
(いや、知らないけれど)
でも苦しくて訳が分からなくなったのは、実はここからだった。
もちろん体の苦しさは闘病中の方が断然上。
痛いし苦しいし、呼吸はまともにできないし。
ものを食べれば激痛が走るし、だるすぎて眠れない。
もちろん歩けないから車椅子だ。
でも一度も不幸だと思ったことはなかったし、状況を嘆いたこともなかった。
だからそれはいいのだ。
問題はその先。
社会復帰、仕事復帰してからだった。
最初はよかった。
まだまだ体が不安定で、爆弾を抱えながらの手探り状態だったから、
何よりも体優先!
疲れたら休む!
無理しない!
いろいろはできないけれど、それでも私に会いたいと思ってくださる方だけどうぞ!
というスタンス。
倒れる前のように、常に仕事や集客のことを考えている…なんていうことはなかった。
ただただ、
そんな状態の自分を待っていてくださった方々に感謝して
来てくださった方々に感謝して
楽しい時間を共有できたことに感謝して
幸せに浸っていた。
ものすごくシンプル。
体がクリアなのを感じていた。
ところが。
回復するにつれて、余計な思考が働き始めることになる。
それは結果、体の痛みのぶり返しと、仕事や日常生活の停滞へとつながっていった。
最悪…
そして更なる不安感が押し寄せた。
私がやっていることは時代遅れじゃないだろうか?
貯金を使って食いつないでいるような感覚。
もっといろいろ学んでいる人がいる。
私がすることに意味があるのだろうか?
知らない知識や経験を突きつけられてダメ出しされる恐怖。
私、一体何がしたかったんだっけ?
ぐるぐる思考は、シンプルな自分を混濁した世界へと引きずり込んだ。
何もかもが不安で、何をどうしたらいいのかわからない。
誰に話しても、セッションを受けても安心できない。
はじめた趣味の楽しささえも、罪悪感と混乱を拡大・増長させる要因となっていった。
結局私は、何がしたいんだろう?
この仕事を続けていていいのか、
他に向いているものがあるんじゃないのか。
あれもこれもしたい。
アレとかコレにも興味はある。
でもひとつを選ぼうとした瞬間に苦しくなる。
選べない。
楽しんだらいい。
どれもこれも、やりたいならやったらいい。
頭ではわかっていた。「そうなのだろう」と思っていた。
でも、心が追いつかない。
自分に許可が下りないのだ。
仕事は好きだ。
お客様とお会いすれば嬉しいし、受講生と話す時間は至福のとき。
英会話スクールで講師陣と語れば細胞が沸き立つ。
笑いの絶えない数十分。
点字という新たな世界で言葉への興味はより多角的になった。
踊れるほどに回復した。
音楽に浸りながら「健康って素晴らしい~!!」と跳ねまくる。
なのに、苦しかった。
一筋の光が見えたのはつい先日。
「船乗りのおじさんでね。
甲板でいろんな仕事を同時にするの。
かなり好きな仕事で、プライドを持ってやってたみたい。
おじさんが言ってるよ。
何でひとつに絞らなきゃいけないの?
全部同時にできるのにって」
自分の過去世。
唖然とした。
え…?
やっていいの?
散々「思い込みをはずす」「枠の外へ」と言っていたのに、縛られていたのは自分だった。
ひとつのことを一生懸命すべき。
あれもこれもは欲張りすぎ。
好きなことだけして生きるなんて、贅沢。
努力しなきゃ、刷り込まれたものは外せない。
そんなことないと思っていたはずなのに、どこかで「でもな…」と思っていたのかもしれない。
そういうことを親やまわりに言われないように。
だって言われたらめんどくさい。
私は職人タイプじゃないらしい。
気が多くていいらしい。その方が、いいらしい。
なんてこった!
少し、呼吸が楽になった。
>> 『迷走の先 ②』へつづく
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