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私の人生の中で日本の企業人で誰が素晴らしい人かと言えば、やはり中村功会長ではないかと思っている。とにかく愛国心の塊のような人。日本国の為に私財を投じ、あらゆる事をやった。多分私の知っている限り、ここまでやる人はいなかったであろう。私も15年前、中村会長の飯田橋のビルで行われた石川佐智子先生の主催する第三ステージの勉強会で、長い期間お世話になり、つくづく思ったのは中村会長のような日本の将来を案じ行動する企業人がいただろうか。口では良い事言う企業人はたくさんいるが、中村会長のように行動する人はほとんどいない。
今日ここで、改めて中村会長のプロセスを紹介すれば偉大さが理解できると思います。


中村功会長のプロフィール

和風注文住宅会社、東日本ハウス(株)を昭和44年(1969年)に創業。
創立25周年の年、平成6年(1994年)売上1000億円、利益60億円を超え、念願であった第三の人生を歩むため社長を勇退。
身内の者には後継させないとの信念のもと、自分が育てた藤澤誠一専務を社長にして会長となる。

第一の人生は、13年間勤めた出光興産でのサラリーマン時代。
第二の人生は、25年間会社を築き上げてきた東日本ハウスの社長時代。
第三の人生は、日本を世界から尊敬される国にしたいという運動をする時代。


その運動とは
1.社会運動を通して日本を良くしたいという「漁火会」の運動。
2.中小企業経営者が、社員とその家族を守るために、団結して国と経営を良くしようという「経営者漁火会」の運動。


中村功は大阪で7人兄弟の三男坊として生まれる。
子供がいなかった親戚の家に、2歳の時養子として出される。
しかし、6歳の時その家に男の子が生まれ、香川に疎開していた実の両親のもとに返される。
まだ子供であった功は、なぜ返されたのかその理由がわからず、きっと悪い子供だったので親から捨てられたと思った。

そこで二度と捨てられないため、いい子になろうと心に決める。
その結果、村一番の親孝行息子と評判されるくらいになった。
しかしまだ子供、当然のこととしてその反発もあり、学校では先生を大いに困らせた。
小学校三年生のとき日本が戦争に負け、子供ながらに悔しい思いをする。



家が貧乏であったため、中学校を卒業したらすぐ就職しようといくつかの会社の面接試験を受ける。
その時、警察官をしていた兄から、金のことは心配いらない、高校に行けと言われ、初めて肉親の情に触れ涙を流す。



高校時代、人間が死ぬということを知る。
その恐怖で一週間苦しむが、自分なりの結論を出す。
死ぬのは自分だけではない。
親も兄弟も先生も皆な死ぬ。
それなら自分はどう生きるか。


親から、功がいて良かったと言われるような生き方をしよう。
それができたら、この村から、中村功がいて良かった言われるような生き方をしよう。
さらに大きくなって、日本に中村功がいて良かったと言われるような生き方をしよう。

と心に決める。


高校時代、もうひとつの転機がある。
パール博士の日本無罪論を読み、インドにこんな立派な人がいるのかと感激する。
その影響があって、いつか日本とインドを結ぶような仕事をしたいと思うようになった。



そんな理由もあって、就職先は外国に行ける会社ということで、いくつか試験を受けて、出光興産に就職。
大学に行く夢も捨てず、仕事をやりながら勉強もした。
しかし親から妹が大学に行くから経済の援助をしてほしいと言われ、大学進学を諦めざるをえなかった。
これで更に仕事に打ち込む。
人生の大事と小事を考えて生きる。
自分の大事は、
一つ目仕事を頑張る
二つ目人間の人格識見を高める読書をする
三つ目何かを為すときのためにお金を貯める

それ以外は全て小事とする。
小事は負けてもいい、大事には負けないとして生きる。


その頑張りがあって出光興産で五本の指に入るトップセールスマンとなる。
その間、出光佐三の経営方法、日本人としての誇りある仕事、人生観などを見て学ぶ。

また頑張ってやれば学歴は仕事に関係ないということも知る。
もう出光興産では自分の生きたいように生きられないことを知り出光興産を辞め、会社を作ることに決める。
新しい仕事を見つける条件は、今まで自分がどんな職種の仕事をしてきたかとは関係なく
・資本のかからない仕事
・将来性のある仕事

の二つであった。



そこで決定したのが住宅産業。
東日本ハウス(株)のスタートである。
最初は「大和ハウス」の代理店であった。
しかし頑張っても頑張っても会社の利益が上がらない。
そんな時どうしても中村功に和風の住宅を建ててほしいという人がいて、注文住宅の第一棟目を手掛ける。
終わってみて、お客さんに喜ばれ、しかも利益が出る。
これだ、と思ったが一棟だけでは分からない。

第二棟目を手掛ける。
やはり同じ結果であった。
ここから東日本ハウスは本格的に注文住宅の道を歩み始める。



「人間生まれながらのプロはいない」

出光興産で知ったことを実践したのである。
できたばかりの小さな会社ではあるが、その望みは大きい。
そこで中村功は社員を育てることが社長の仕事の中で最も大切であるとして、徹底した社員教育をやる。

住宅はほとんどの人にとって一生に一度の大事業。
誠心誠意を込めてお客さんにあたれ。
仕事のノウハウではなく、人間としてどう生きるか。
人生哲学を教える。
礼儀、挨拶、親孝行。




自分を今まで育ててきてくれた親に感謝できなくて、なんでお客さんに心から感謝できるか。

真心こめてお辞儀する。
読書をすすめ感想文を書かせる。
目標を持つと人生を頑張れる。
勝つ人生を教える。
仕事は人間を成長させる。
新入社員に緊張感が走る。

中途採用者も仕事をすることの素晴らしさを教わる。
こうやって会社を大きくしていったが、
しかし待てよ、事を為すには――
中村功が、社会的にある程度認められるような人間にならなければならない

そして経済的にも、ある程度持続できる。



力を持たなければならない。
そのために、自分の今為すべきことは何か。
それは東日本ハウスを力のある会社にすることだとして、仕事に励んできた。
そしてホテル経営、アメリカでの農場経営など、事業の拡大をはかり、最近ではビールを全国に製造販売する銀河高原ビール(株)の経営も行っている。



第三の人生の始まりは、東日本ハウスを作って5年目にあったが、その体制ができてきたとして昭和63年(1988年)、新しい運動の火種をつけた。
それが社会運動を通して日本を良くしたいという「漁火会」の運動である
しかし国を良くたいという視点に立つと、どうしても政治にタッチせざるを得ない。

国益を考えない政治家の発言、謝罪外交、独立国家としての役割を果たさない領土問題の対応。
一方で日本の国を良く教えない教科書、学校教育、マスコミ報道。
こんなことでこの先日本はどうなるか。
国民としてとても黙って見ている訳にはいかない。
歴史というものは当然光と影がある。
なのに現状は日本の影の部分だけを強調して教えている。
それではとても日本人が自分の国日本に誇りなど持てる訳がない。
この状態が続いたら国そのものの存在が危うくなる。
このような志を持った中小企業経営者の集まりである「経営者漁火会」も積極的に拡大をはかっている。
これらの運動のリーダーが中村功である。

プロフィール
昭和11年5月27日大阪生まれ。七人兄弟の三男。
昭和30年3月香川県立高松商業高等学校卒業
昭和30年4月出光興産(株)入社
昭和43年12月同社退職
昭和44年2月東日本ハウス(株)設立
昭和55年4月(株)ホテル東日本設立
昭和61年9月I.N.A.FARMCORPORATION設立
昭和63年11月(株)新東設立
平成5年11月アイ・エヌ・エー東日本(株)設立
平成6年1月東日本ハウス(株)取締役会長就任
平成6年5月(株)ホテル東日本取締役会長就任
平成6年11月東日本沢内総合開発(株)設立代表取締役就任
平成8年2月東京映像制作(株)設立取締役就任
平成8年1月東日本ハウス(株)取締役会長退任
平成8年7月銀河高原ビール(株)代表取締役就任
平成14年大江戸温泉物語代表取締役就任
平成16年(株)NTCドリームマックス会長就任

肩書
東日本ハウス(株)創業者
(株)ホテル東日本 創業者
東日本沢内総合開発(株)創業者
銀河高原ビール(株)創業者
東京映像制作(株)取締役
(株)NTCドリームマックス 取締役会長
経営者漁火会会長



君が代

http://youtu.be/8iuYxdXFPbc



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