他のブロガーのことは知らない。
が、ブログを続けるには、苦しい時の神頼みならぬ、シリーズ物頼みも要るようで、「シリーズ・散歩道」もそのひとつ。
怠け者の自己弁護ではないが、決して手を抜こうということではない。
鬼子ということもない訳じゃなく、この新シリーズ「言葉」、以外にも孝子?になったりして・・・。
前置きが長くなったが、その新シリーズ、初回の今日(復活節第2主日/4・11)の言葉は、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20・25‐29)。
キリストがふたりの泥棒とともに磔刑され、三日後に復活、弟子の前に現れたその場にトマスはいなかった。
他の弟子達が「主を見た」と言っても、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。
それから八日後、イエスがトマスを前に言う。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」、そして、その後に続くのが今日の言葉。
キリストの十二使徒のひとり、この聖トマスが好きだという人、結構多いようだ。
斯く言うカタリナ、「私も、見て触れて、その上でもまだ信じないかも。もし男だったら霊名をトマスにした」と言って憚らぬ様。
余談だが、これをもってしてペトロの苦労が窺い知れようというもの。
多くの画家がこの場面を作品に残したが、中でも有名なのがカラヴァッジョの「トマスの不信」(写真上)だ。
トマスのフアン?のカタリナ、この絵見たさに、シーズンオフも知らずに雨の中、のこのことベルリンからポツダム・サンスーシ宮殿(写真中・上)まで行ったことは、<えっ、入らないの?>に書いた。
話は変るが、ペトロが教会で先唱の奉仕をしていた頃の主任司祭がベズロン神父様。
フランス人らしく頗る頑固な方だったが、長いミサを嫌って努めて短くしようとされていたのは好感が持てた。
ただ、彼の説教は長かったけれど。
ベズロン神父様に比べると、優に倍は超える長いミサが終わっての帰途、カタリナは茶会で不在。
昼時に少し早いが、外食文化?を変えた回転寿司のカウンターで、独りぽつねんとしていたら、見知らぬ上品な婦人に「よかったらこれ使って下さい」と声をかけられた。
訝しがるペトロに「皆さん使っておられますよ」と言葉を重ねられ、手許を見ると新聞の切り抜き、この店の割引券だった。
静かな語りかけに有り難く頂戴したが、女性の気を惹くほどの雰囲気を持ち合わせた初老でもないことは自覚、よほど黄昏て侘びしく見えたのだと思い、少し恥かしくなった。
雨の今朝、狭いベランダの片隅で、山芍薬が白い小さな蕾をつけたとカタリナが嬉しそう。
スト顛末記の続きがまだのうえに、新シリーズを始める?それに、随分と長くなった、ご容赦。