噛みつき評論 ブログ版

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6人殺害で無期懲役

2019-12-08 21:28:10 | マスメディア
 報道によると、埼玉県熊谷市で2015年、小学生2人を含む6人を殺害したとして強盗殺人などの罪に問われたペルー国籍、ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン被告(34)の控訴審で、東京高裁は12月5日、さいたま地裁の死刑判決を破棄、無期懲役を言い渡した。一審では妄想の影響は限定的とし、被告の責任能力を認めて死刑としたが、控訴審では事件当時は統合失調症の影響で妄想があったとし、無期懲役にした。

 刑法39条では
1.心神喪失者の行為は、罰しない。
2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
とあるが、一審の判決は責任能力があるとして心神耗弱者とは認めなかったのに対し、控訴審は心神耗弱者と認めて死刑から減刑したものである。そして弁護側は心神喪失状態だったとして無罪を主張した。

 つまりこの場合、被告の精神状態の評価によって死刑から無罪までの可能性がある。法は単純に、正常、心神耗弱者、心神喪失者の3分類としているが、現実はこんな簡単なものではない。境界領域の決定でさえ現在の科学では無理であろう。そして精神状態は変化することが多い。後から犯行時点に於ける精神状態を客観的に評価することは難しい。神のみぞ知るという世界である。したがって鑑定人によって評価がばらつくことが少なくない。つまりどれほど精緻な論理を積み重ねても、またどれほど議論を重ねても結局のところ主観的で、いい加減な判断にならざるを得ないのである。これは大多数が納得するような客観的な判断が極めて難しいことを示している。

 さて、以上のことを念頭に置いた上で無期懲役という判決の是非を考えたい。彼の犯行によって6人が命を奪われたが、ご遺族の中には妻(当時41)長女(10)次女(7)を失った方もおられる。理不尽にも命を奪われた方々の無念さはむろんのこと、家族を一度に失われた方の無念さはいかばかりだろうか。

 一方、被告の家族にも見逃せない事情がある。被告の兄パブロがペルーで25人を殺害し35年の刑を受けていたという事実である。パブロは動機を「神が俺に命じた」と語っている。このことはナカダ被告にも精神障害があった可能性を示唆する。ただ兄弟で31人を殺害するような異常な精神の持ち主の一方を単に心神耗弱者と分類して減刑してよいものか、とても疑問である。社会にとって極めて危険な人間だからである。遺族の感情からしても無期懲役は到底納得がいかないだろう。

 死刑という、国が命を絶つ死刑という刑罰には抵抗感をもつ向きがあるかも知れない。日弁連は死刑廃止の理由を3つ挙げている。死刑は重大な人権侵害、誤判・冤罪の可能性、社会復帰の道を閉ざすという3つである。しかし他人の命を奪っている被告に人権を認めてよいのか。誤判・冤罪の可能性はないし、社会復帰も絶望と考えられる。36人もの犠牲者を出した京アニ事件における容疑者の行動は理解できない。理解できない行動は心神耗弱、心神喪失の故であるという認定がなされるかもしれない。とすれば無期懲役や無罪の可能性も出てくる。

 もし私が一時的な妄想のために何人もの人を殺した場合、死刑にされて当然と思うだろう。まして税金によって何十年も刑務所で生きたいとは思わない。取り返しのつかない罪の意識をもったまま牢屋で生きるくらいなら、死んだ方がマシである。

 この一審の死刑判決を破棄した上の無期懲役という判決が、裁判官が心神耗弱者の規定を単に適用した結果なのか、あるいは死刑を回避するためにこれを利用した結果なのかはわからない。しかし理由はともかく、この犯罪の重さ・大きさと無期懲役という量刑のアンバランスが気になる。39条のように規定が曖昧で、どうにでも解釈可能なものは、その解釈の論理よりも遺族の処罰感情や社会常識などに配慮すべきであろう。単に法を適用するだけの判決ならAIでもできる。