噛みつき評論 ブログ版

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人身売買に近い犯罪に寛容な京都地裁

2019-06-02 22:12:43 | マスメディア
 5月29日、京都地裁で判決があった。京都でバーに誘い込んだ女性に多額のつけを背負わせ、性風俗店に紹介して紹介料などを得ていた同志社大生ら6人に対する判決である。入子光臣裁判長は6人に執行猶予付きの有罪判決(求刑懲役3年~1年6カ月)を言い渡した。好意を抱かせた後、半ば強引に風俗店で働かせたとして「人格を踏みにじる卑劣な犯行」とした。被害女性は262人、グループが得た紹介料は1億円以上(7300万円とも)とされる。女性たちが働かされた性風俗店はデリバリーヘルス21店、ソープ9店、ファッションヘルス6店、性感マッサージ、ピンサロやちょんの間が各1店の計39店。店からは女性がやめない限り15%のバックがあったという。まさに「ひも」である。

 弁護側は「全ての女性が意に反して風俗店に紹介されたのではない」として執行猶予付き判決を求めていたそうだが、その通りのまことに寛大な判決となった。すべての女性でなくても一部の女性が意に反して働かされていただけで十分ではないか。この弁護士の元締めである日弁連はいつも人権人権というが、この女性たちの人権をどう考えているのだろうか。グループ全員がすぐに普段の生活に戻れるわけだが、たまらないのは被害を受けた女性たちであろう。問われたのは職業安定法違反であるが、この第63条には以下のいずれかに該当する者は、1年以上10年以下の懲役又は20万円以上300万円以下の罰金とある。

(イ) 暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段で職業紹介を行った者又はこれらに従事した者(第1号)

(ロ )公衆衛生又は公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で職業紹介を行った者又はこれらに従事した者(第2号)
 (ロ)に該当すると思われ、最大10年の懲役まで科せられる。しかし今回は最高で3年、そして執行猶予まで付けている。判決理由に「人格を踏みにじる卑劣な犯行」とあるが、その通りである。ところがその割に刑が軽いのである。犯人たちは恋愛経験のない地方出身の女子大生などを対象に、好意を持たせた上で半ば強制的に風俗店で働かせたわけで、形としては成人だが世間を知らない弱者を食いものにしたわけである。実に卑怯な男たちであり、実に腹立たしい。

 興味深いのはメディア各社の扱いである。私の見た限りであるが、もっとも熱心に取り上げたのは関西テレビで、被害女性のひとりを登場させて、被害の実態を直接伝えたし、犯人らの実名、所属する大学なども報道した(犯行当時未成年の1人を除いて)。番組の姿勢としても判決の軽さを強く批判するものであった。

 朝日新聞も事実だけを比較的詳細に報じたが、他のメディアは主犯格の岸井被告以外は実名報道をしなかったようである。もっとも理解できないのは地元メディアである京都新聞である。男6人としただけで全員が匿名の掲載である。見出しは『「巧妙な手口で職業的犯行」性風俗スカウト判決、代表に懲役3年』として、執行猶予の文字を外し、判決の甘さを隠している印象がある。ネット版なので扱いの大きさはわからないが、記事の内容の貧弱さから見て恐らく小さい扱いだろう。

 親の借金のために娘が売春宿に売られるという話は昔のことだと思っていたが、ちょっと形を変えただけでこんなにひどいことが現代の日本にあるとは驚いた。262人の女性たちの多くは、こんな男たちに引っ掛かりさえしなければソープなどで働くなどまず考えられなかったただろう。大きく人生を狂わされたわけである。またこんなひどい目に遭えば他人を信頼すること自体が困難となるだろうし、それは今後、彼女らの人生に少なからぬ悪影響をもたらすだろう。影響はこの後も続くのである。

 この事件は被害の大きさに加え、その悪質さ、最大級の卑怯さにも注目したい。騙しやすい若い女性を集団で食いものにする手口であり、また好意を持たせておいて、それにつけ込んでソープなどに売り飛ばすという卑怯さはとうてい許せない。卑怯と言えば先日、川崎市で起きた事件、19名を殺傷した51歳の男は多くの子供をしかも背後から刺したという。まさに卑怯の神様である。

 昔なら人身売買やこのような犯罪は珍しいことではなかった。それは現代と倫理や文化が異なっていたからだと思っていた。しかし現在、有名私立大生までが手を染めていた事実はまことに重大であると思う。しかし裁判官や京都新聞などのメディアはそうは思わないらしい。卑怯を強く否定するモラルが希薄になっているのではないだろうか。人が死んだ場合や政治家の不祥事のときの大騒ぎと違いすぎるように思う。メディアが大騒ぎすることで改めてモラルが人々に再確認されるという意味もあるのだ。

 私の受けた教育に道徳教育はなかった。しかし卑怯だとか裏切りなど、してはならないことは親や本、漫画から知らずしらずに教えられた。最近は卑怯という言葉を聞くことすらなくなった。裁判官も多くのメディアも卑怯という概念をあまり強く感じない人たちなのだろうか。日産自動車であったように、仲間を当局に売る行為は司法取引のおかげで罪が減免されることになった。カルテルでも仲間を裏切って当局に知らせたものは罪を減免される。こうした動きにも卑怯という感覚の衰退が感じられる。いっそ武士道を道徳教育に取り入れたらどうだろう。