幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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【徹底研究】唯物論

2009-09-23 | 


これから7回に分けて『唯物論』について語りたいと思います。

問題が問題だけに、ちょっと長いです☆

さて、そもそも、唯物論の定義が難しいのです。

この定義があいまいなままで話しをすすめていては、

王将のない将棋のようになるでしょう。


まず、唯物論について、ウィキペディアでみるとこのような説明に
なっています。


事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念。
非物質的な存在や現象については、物質や物理現象に従属し規定される副次的なものと考える。
物理主義(ぶつりしゅぎ、英: Physicalism)とも言う。
対語は唯心論。


分かりやすい文章とは言いがたいですね☆
物事の本質は、物質であり、心は、その物理現象の一つだって、ことですね。
簡単にいうと。

だから、心より、物質が優位をしめるってことなんです。


たとえば「脳が心を生み出す」

としばしば論じられますね。
これが脳(物質)が心より優位にあるということです。
いわば、脳(物質)が親で、心は子供といった関係です。

ですから唯物論も、脳が生み出したにせよ、心の存在は一応認めているわけです。
そういう意味では「唯、物だけ」という考えはおかしいじゃないか、
心というものがあるんだから、という主張が出てきます。

逆に唯心論で「心がある」と主張する人も

心が「在る」からにはまったく無ではないわけで、

無でないもの、もし、心を広い意味での「もの」と定義してしまえば

唯心論も、定義一つで一瞬にして唯物論になってしまうわけです。


このように定義をしっかりしないと、

唯物論派からの批判も、唯心論からの批判も、どっちももっともらしいものに

なってしまうわけです。



そこで、その定義を確認してみましょう。

まず「心」より「物」を上と見るのを唯物(脳)論派と考えてみましょう。

たとえば、脳(モノ)が心を生みだし、脳(モノ)が心(意識だけに限らない)のすべてを

コントロールできるならば、唯物論者の勝ちということです。


さて、一応のルールを決めたところで、唯物論とはどういうものか

考えていきたいと思いますが、

たびたび耳にするのは

「心なんてしょせんは電気信号でしかない」

「人間は結局機械でしかない」

という言葉。そして唯物論者の多くは

自信を持っている。

(すくなくとも私が接してきた唯物論者、読んだ本の著者は

 そうでした)

そんな人にもの申す!

もし人間が機械でしかなく、心(感情も含め)は電気信号でしか

ないなら

愛情も電気信号で何らかのプログラミングの一つでしか

ないわけですね。

その笑顔も、感謝の言葉もつくられたもの。

涙流しておわびしているのも全部誰かのシナリオ

こころから 悪いなんてさらさらおもっちゃいない

もしすべての人が機械なら

心からのおわびを期待するのが間違いですね。

愛情をもとめるのもおかしい。

そんな心はないのだから。

あったとしても所詮はつくりものだから。


自分の機械なら(たとえばパソコン)を分解しても

文句をいわれる筋あいはないし、

違和感も感じません。

ではあなたが購入したペット(犬とか猫とか)

も同じように分解してもいいことになりますね。

人間を殺しても

機械を壊したレベルの話しですよね。

本当にそれでいいんですか?

そういうと、こう反論する唯物論者があります。

「いや、モノだって大事にしないといけないですよね。

 たとえば、すぐれた芸術品を傷つけるのはよくない
 
 でしょう」
 
それはまさに、モノを見る「心ある人がいる」というのが

前提です。

すべての存在が「モノ」なら「感情は電気信号」でしかない

のですから、芸術品が傷つけられているのをモノがみてても

どうってことないはずです。

どうでしょうか。

最初に確認したように「心」より「モノ」が優位に立つという

ことはそういうことです。


これは恐ろしい思想ではありませんか?

感情もない(あるのは現象としてだけ電気信号の強弱、変化だけ)

分解してもあまり問題にならない。

唯物論を徹底していけば、役に立つ機械は

採用するが、ポンコツは廃棄処分。

こわれても代わりはいくらでも用意できる。

となるでしょう。。。


自分に対して、人類に対して

そんな考えでいいんでしょうか?

もし真理を探求し、人間を徹底的に調べたところ、

まことに残念なことに

まことに悲しいことに

肉の塊でしかなかった。

しょせんは機械だったと泣くのならまだ話は分かりますが

もし、堂々と、

「私は科学的理論的で知性的な唯物論者でございます、

 えっへん」

と思っているなら何かおかしくありませんか?

思想の乱れは世界を闇にします。

魔女狩りも長い歴史からみればそんな昔のことでは

ありません。


これが第一段階です!

あくまで第一段階です。

唯物論とはどういうものか、つっこんだ説明は

第二段階以降(第三段階以降かな?)で説明したいと

思います☆





【徹底研究】唯物論

唯物論について(1)

http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/c31ca72a8e62ea8d7d014c27e148f7ae"target="_blank"

唯物論について(2)

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唯物論について(3)

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唯物論について(4)

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唯物論について(5)

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唯物論について(6)

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唯物論について(7)

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3 コメント

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う~ん。 (通りすがり)
2011-11-22 05:30:16
人の本質が単なる自律型のソフトウェアであったとしても、イコールそこから出た言葉や行動や感情が全て嘘になるなんて事には繋がらないと思います。

愛情が種の存続の為に本能と言う名のプログラムよって起こる感情であったとしても、それを求める事がイコールおかしいと考える根拠がよく分からない。

生き物の脳の中の電気信号は今の所一度壊れてしまえば永遠に失われてしまう物ですから、家電と同列に語っても何の意味も無いと思います。
返信する
通りすがりさんと同意見ですが (名無しさん)
2012-02-17 03:16:02
人も動物もミジンコも星から生まれた物質で出来てます
意識は生きるための神経傾向の集合の自覚ですし
自由意志はありませんし
その中で全てがそうなっているわけで 色=空
自己成形タイプの生体ハードである脳自身で(意識)の相互作用、様々な効果効果それらの相対性をメタ認識できるわけないので脳同士によるすれ違い(喧嘩)が起きるわけで。
色=空ですよ
意識を直に愛せず無いものに求めるあたり
人間嫌いで心(意識)が貧しいように感じます
「唯一の意識」に直で愛を向けられず
無い物が必要な人間は
真に人を愛する事はできないかとおもえます
返信する
ちょっと面白い話を見つけたのでコメントさせていただきます(^^;ゞ (通りすがり2)
2012-03-03 22:47:35
私はコテコテの唯物論者(^^;)ですが、逆にお聞きしたい。科学が発達して鉄腕アトムが生まれたとする。彼は「唯(タダ)の物(質)」からできており、心は電気信号で、霊魂など持ちません。だが「唯(タダ)の物(質)から作られた機械」だからという理由で、彼の「人権」(?)を抑圧して良いのか?彼を愛する人がいたとして、その人は異常なのか??
人の心は、おそらく物質に還元できます。脳と遺伝子の研究が極限まで進めば、薬や脳改造によってどんな心をもつ人物でも作り出せるようになるでしょう。
しかし「簡単に作り出せること」=「ぞんざいに扱って良いこと」ではない。優秀な機械(生物)もポンコツ機械(生物)も、存在するだけで等しく価値があり、何かを壊す(殺す)ことは常に罪です。機械ではなく、仮に相手が石ころであっても、それは変わりません。

つまり、そもそも「機械を壊したレベル」「所詮は機械」といった固定観念が前提としておかしいのです。何かを壊す(殺す)ことが悲しい、罪悪感を感じるというのは、これは壊した(殺した)人の単なる「個人的感想」に過ぎません。
そして、壊した(殺した)人がどれだけ悲しいかは「対象に対する愛着」に比例する、単にそれだけの話です。懲役何年とかいう話に至っては、こんなのは単なる社会の決まり事に過ぎません。

通常は、機械はしゃべらない(鳴かない)から、生物より「愛着が薄くなりがち」です。でも、ゴキブリを殺す時と、親の形見の大事なビスクドールを壊した時、どちらが果たして悲しいでしょう?
唯物論は、なにも恐ろしくありません。ある意味、この世の全てを、虫けらから人間、木石に至るまで平等に扱う視点であり、人間を万物の霊長としてはばからない傲慢な西洋宗教より遙かに、仏教と親和性が高い世界のとらえ方だと思います。
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