た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

蝶ヶ岳二度目

2023年09月05日 | essay

 登山靴が重い。

 五十になるまでは感じなかったことだ。

 年齢と結びつけて考えること自体が、足取りを重くさせるのか。

 道端にはキンポウゲやイワカガミがのんきに咲いているというのに、まるで親の仇のように汗だくの顔でそいつらを睨みつけながら、一歩一歩よじ登っていく。

 一人登山は寡黙なばかりでつまらない。しかしそれを年に何度かやらないと、自分が駄目になってしまいそうな気がする。そう思って登る。息が切れる。膝が痛い。暑くて暑くて堪らない。おい、お前。と自分に問う。駄目になってしまいそうって言うけど、じゃあ駄目にならなければ、お前はいったい何になるのだ。何にもなってないではないか。駄目になってもならなくても大して変わりがないじゃないか。その程度のちっぽけな存在じゃないか、お前は。なのになんでこんなに苦しむのだ。

 登山靴が横に這う木の根に引っ掛かり、転びそうになった。

 五十になるまではなかった失態だ。くそっ。

 五十、五十とうるさい奴だな。年齢とやたら結び付けて考えたがるのは、つまり区切りをつけたい、ということか。お前のここまでしてきた苦労に。忍耐に。ちっぽけな冒険に・・・お前はもう、隠居したい、ということか。五十だから、と微笑んで。静かに茶でも啜りながらこれから先を生きるつもりか。

 蝶ヶ岳は階段ばかりで疲れる山だ。ずっと眺望も悪い。ただ頂上まで来ると、一気に視界が開けて気持ちがいい。それだけを期待して登る山である。数年前一度登って懲りたはずなのにまた登っている。汗だくのみっともない格好で。階段の度に立ち止まり、肩で息をしながら。

 ここまで来たなら歩けよ。なあ。ここまで来たというそれだけの理由でいいから。

 歩け、ほら。

 

 山には目に見える頂上がある。人生の頂上は、後からしかわからない。

 だから人生は、登山のようにはいかない。

 


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