た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

街の別れ

2020年04月14日 | 短編

 その男はいつも昼前から日没まで通りで笛を吹いていた。いわゆるストリートミュージシャンである。笛を吹いている、というのが、一風変わったところであった。笛はたて笛。両掌を広げれば隠れるほどの小ささである。地面に胡坐をかいて座り込み、茶色い犬を脇に寝そべらせていた。この犬はいかにも雑種犬であろうし、あまり贅沢な扱いを受けてきたとは思われないふてくされた面をしていたが、主人が笛を吹いている間決してそばを離れることなく、通行人が拍手したり野次を投げかけたり、ときには一撫でしてやろうと腕を伸ばしてきても、全く関心のない風で寝そべったままであった。

 男の演奏する曲は、クラシックだったり、どこかの民族音楽であったりした。ときたま馴染の歌謡曲になることもあれば、ごく稀には、即興であろうか、聞いたこともない調べもあった。しかし一概に通行人たちの評判は上々であり、彼の膝もとに置かれたブリキの灰皿にはいつも硬貨や札が積み重なった。教会に続く石畳は観光客も多く、硬貨を投げ入れた後でカメラを向けてくる者も少なくなかった。女たちが彼の背後に回り、一緒に写真に納まろうとすることもあった。だがどんなときでも胡坐をかいた男の姿勢が崩れることはなかった。カリブ海の伝説のミュージシャンのような長いドレッドヘアに神経質そうな細い顎。そしてジブラルタル海峡から吹く生暖かい風を感じさせる大きく黒い瞳は、滅多に顔を上げないことから、意外と知る人が少なかった。

 笛を吹く以外は、唖(おし)のように寡黙であった。

 彼は曲に魂を込めるような吹き方をした。しばしば観光客のために『コンドルは飛んでいく』や『新世界』を吹き、秋には地元の酔っぱらいたちのために『枯葉』をやり、日曜日の午後三時にくる老いた未亡人のためにはヨハン・シュトラウスを奏でた。

 彼のことを商店街の人たちはゲーテと呼んだ。誰がいつからそう呼び始めたのか、由来は語る人によりさまざまである。風貌が詩人のようだから、と言う人もいれば、地獄を見てきたから、とも囁かれた。散髪屋の禿親父に至っては、ありゃ密かに愛慕する人妻シャルロッテがいるんだ、ついでに言やあ名付け親は俺さ、ともったいぶって説明する始末であった。

 ゲーテと呼ばれた男の幼少期は、彼の紡ぐ音楽ほど美しいものではなかった。五歳の時、飲んだくれの父親が蒸発した。音楽大学の教授だった父親は、一人息子の彼に音楽的感性と厭世観だけ植えつけて、若い女子学生と共に南の国へと去っていった。神経質な彼の母親は失意の中でノイローゼになり、彼が十一歳の時に郊外の病院に入れられ、二度とそこから出てくることはなかった。

 彼が石畳に汚い犬と座り込んで笛を吹き始めたのは、十七歳のときからである。演奏が終われば、彼は犬を連れて四区画分歩き、貧民街にある自分のアパートへと戻った。時たま女が転がりこみ、そのまま同棲することもあったが、いつも一か月と続かなかった。だから基本的には一人と犬一匹の暮らしであった。

 彼にとって、教会に続く石畳のあの場所が、世界のすべてであった。それで十分だ、と思っていた。わざわざ自分が腰を上げなくても、世界の方から順ぐりに巡ってきてくれる。フランス人。アメリカ人。オーストラリア人。日本人・・・。そして地元の人。

 笛を吹いているだけで彼は幸せだった。幸せというものの抱きしめ方を、彼は知っていた。

 ある日、街から人々の姿が消えた。

 その数日前から、観光客が減っていることには気づいていた。感染病が世界的な流行を示していることも聞き知っていた。しかしそれはずっと遠い国で起こった政治的動乱のように、この街とは無関係の話だと思っていた。それがあっという間に、この国にも魔の手が伸びてきたらしい。気がつけば石畳に響く靴音は途絶え、紙屑が風に吹かれてどこまでもからからと転がった。

 それでも彼は笛を吹き続けた。ときたま通る一人、二人が、懐かしい人の墓標を前にしたかのように、立ち止まってじっと聴き入った。

 やがて外出禁止令が出された。マスクをし、警棒を持った太っ腹の警官が二人現れ、彼も通りから退去するように告げた。彼は嘆息し、首を振った。やり場のない怒りさえ覚えた。自分は一切、この場を動いたことがない。世界の方からいつも自分を訪れてきた。自分は一切、悪いことをしていない。悪いことをしようがない。いつも同じ場所で笛を吹いていただけなのだから。それなのに、病気をうつす恐れがあるから、あるいはうつされる恐れがあるからと言って、笛を降ろし、立ち退けと言うのか? 

 二人の警官が見守る中、彼はゆっくりと立ち上がった。茶色い雑種犬が首をもたげ、主人を見上げた。彼は誰もいなくなった通りを見回した。朝日を浴びる石畳を見つめた。通りのずっと向こうで、尖塔だけ覗かせる古い教会を仰ぎ見た。

 ああ、と彼は嘆息した。この街はこんなにも美しかったのだ!

 笛をポケットに仕舞うと、犬を立ち上がらせ、その茶色い頭を一度だけ撫でてやった。

 それから彼はその場を立ち去った。

 

(おわり)

 

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孤独 Isolation

2020年04月06日 | うた

世界中の時計が止まった。   All the clocks have stopped.

人が消え、街が残った。            They gone,  the town's left. 

ショーウィンドーの片隅で      In the window a flower withered

萎れた花が涙を落とした。        and her tear has just dropped.

 

 

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妄想

2020年04月02日 | 断片

 色褪せた暖簾をくぐって格子戸を開けると、割烹着を来てテーブルを拭く老婆と目が合った。

 「おや、いらっしゃい」

 今まで会ったこともないのに、懐かしそうな笑顔を見せる。

 広い土間の中ほど、石油ストーブに足を投げ出せる席に腰かけた。客は自分の他には、隅っこで鍋焼きうどんをつつき合う中年夫婦が一組。口に爪楊枝をくわえて新聞を広げている肉体労働者風の男が一人。

 壁に貼られた品書きをぐるりと見渡す。

 「外は冷えとるかえ」

 老婆がお茶を差し出しながらつぶやく。

 「今夜はね」

 襟巻を外して、冷え切った両手を握りしめる。体が徐々に店内の暖かさに慣れていく。

 「何にしましょう」

 「そうだな、一本付けてもらっていいですか」

 「へえへえ」

 「それと、おでんありますか」

 「へえへえ、ありますよ」

 「じゃあおでん一皿と」

 埃を被った神棚になぜか小さな達磨が飾られているのを見上げて、不意に幸せな気分が腹の底から湧き上がってくるのを覚えながら、私は小さく微笑んで言う。

 「とりあえずはそれで」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・というような遣り取りを、早くまたしたいこの頃である。

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涯(はて)

2020年04月01日 | 写真とことば

人類が道を切り開いてきた、と思うのは奢りである。

おそらく、人より先に道があった。

獣が成したか、

自然の起伏か。

限られた道が、

限られた行き先とともに。

 

人類は新たな道を造ることに熱中した。

まるで整形手術を施すように、

それで見栄えをよくしたかのように。

やがて人は去り

道が残った。

 

道を踏み外す、という言葉の真意を

今一度深く考えるべき時が来た。

 

 

 

 

※写真は修那羅石仏群入口

 

 

 

 

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