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かぐや姫縁起

2008年12月24日 | 短編
      ─────かぐや姫は、罪を作りたまえりければ、かく卑しき
     おのれがもとに、しばしおはしつるなり。────『竹取物語』


 古典における異本・解説書の多さはその作品の持つ魅力の証しであろうが、我が国最初の文学作品とも評される『竹取物語』の周辺にも、出処の怪しいテキストが山と積まれてある。その一つ、おそらく江戸元禄年間に成立したとされる宇喜多善衛門版『竹取翁物語』は、注釈に長大な紙面を割いており、実に興味深い逸話が載っている。その内容が事実かどうかは、もはや歴史という重い墓石に閉ざされた永遠の謎であり、さしたる重要なテーマと本稿は見なさない。もちろん、事実であれば面白いと思ったからこそ、その史料を底本に以下の物語を書き記したのである。いや、事実である気がしてならなかった、とまで批判を覚悟で告白しておこう。私の直感を肯定してくれる歴史家は極めて少なかろうが、はっきり否定できる歴史家もそういまい。
物語の細部には多分に脚色を施した。その責は偏に筆者であるこの私にある。
 
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 これはかぐや姫のモデルとなった女の話である。

 名を矢田郎女(やたのいらつめ)というその女は、ときの右大臣中臣連金(むらじかね)の四女であり、類まれな美貌と聡明さで、幼少期から世間の評判が高かった。見る者はみな心奪われた。女がほほ笑むと、辺り一面光り輝くようであった。
 
 また一面で大変気性が激しかったとされる。貝遊びなどどんなささいな遊び事でも、負けるのをひどく嫌ったという記述がある。書を好み、屋敷に引きこもりがちであった。人付き合いの上手な方ではなかったらしい。

 それでも髪を上げる年頃になると、連日のように結婚を申し込む者たちが押しかけてくるようになった。求婚者たちはみな、一様に身分が高く、金持ちで、世間の評判が高かった。しかし風変わりなことに、女は彼らの誰一人にも心惹かれなかった。どれだけ周りに勧められても、首を横に振り続けた。父親に似て変わり者であるとか、高慢であるとか陰口を叩く者もあったが、本人は一向に気にかけなかった。

 女は十四になり、その美しさはさらに磨きがかかり、ますます周囲を感嘆させた。

 愛を告白する男たちもその数を倍増させた。世間の人が垂涎して羨ましがるような高貴な人物も幾度も現れた。それでも女は一顧だにしなかった。

 屋敷で中秋の宴が催されたことがあった。その折りにも大伴御行(おおとものみゆき)という男がしつこく言い寄ってきた。自分が金持ちであることを何度も引き合いに出し、「あなたの欲しいものは何でも手に入れてごらんに入れます」と言いきった。
 そのとき女は欄干に身を寄せ、月を指さしてこう答えたという。
 「それでは、あの月のようなよみがえりの力をください。この世のすべてはかたときも留まることなく移ろいゆくもの。月もその例に漏れず、あれよあれよという間に欠けて無くなってしまいます。しかし他のものと違い、再びよみがえることができるのがまことに不思議な月の力。欠けてもまた満ちることを繰り返しています。何が欲しいかと聞かれれば、あの尽きることのないよみがえりの力が欲しゅうございます。今でこそ、私は若いがゆえに、あなたのような高貴な方にちやほやされもしますが、やがて年を取り、容貌も色あせていくことでしょう。そのときあなた方男たちは、潮が引くように私のもとを去っていくはず。それを考えるとまことに心細うございます。よみがえりの力があれば、若さを保つことも可能です。あなたに望まれて添うてみたものの、年月が経てばあなたに愛想をつかされ逃げられてしまった、というようなことも起こりますまい。さあ、どうか、わたしに月の力をください」
 男は驚きあきれ、しまいには腹を立てて去っていった。その噂が広まって以来、女は誰言うこともなく「月姫」と呼ばれるようになった。

 ついに女は、ときの帝の目に留まるに至る。帝は連金の縁者に当たる中臣ふさ子という女官を屋敷に寄越し、女に強引に結婚を迫った。
 帝の誘いはさすがに断り難いものがあった。それでも女は、自分がまだ若すぎるだの、器でないだのいろいろ言い訳を述べて誘いを断った。女のふた親は驚きあきれ、女をなだめたり叱りつけたりして、意思を変えるよう説得した。
 女は、病床に伏せるほどの葛藤を味わったが、それでも首を縦に振ろうとはしなかった。
 父連金は激怒し、しまいには、言うことを聞かなければ屋敷の一角に幽閉するとまで脅し始めた。

 女が意地を張るのにもわけがあった。女には別に心に思う男がいた。ただしその者は身分が卑しく、屋敷に出入りする職人であった。そのことだけでも、当時としては到底かなわぬ恋であった。
 名を佐貫(さぬき)という相手の男は、たくましい体と器用な手先を持つ若者であった。
 もともとは屋敷の木々の手入れなどを請け負う職人の一人である。あるとき、慰みに作る竹細工の美しさを連金に認められ、以来屋敷の中のこまごまとしたものを作るよう命じられるようになる。部屋に似合う花器などの注文を受けた時は、その部屋の造りを確かめるために屋敷へ上がることまで許された。

 矢田郎女と佐貫は、暖かい春先に、矢田郎女の部屋で初めて面識を持つ。
 女は男の仕事に興味を示して尋ねた。
 「そなたは竹の細工に大変秀でた者と聞いたが、それはまことか」
 男は平伏して答えた。
 「見事な竹に出会った時は、それなりに満足できる品を作ることができます。良いものに出会わなければ、どれだけ手を加えても立派なものには仕上がりません。竹によって出来不出来を決められる以上、竹細工に秀でたとはとても自慢できません」
女は首をかしげた。
 「竹は松や檜と違い、どれでも同じようにしか見えないが、そんなに違いがあるものなのか」
 「見る者、触る手によって、違いは大きくも小さくもなります。人に対するのと同じです」
 女は顔を赤らめた。
 「見て、触れば、人も違いがわかるのか」
 男は女を見上げた。しばらくそのまま二人とも動かなくなった。
 男は再び頭を下げた。
 「美しいものは美しいとわかりましょう」
 女は眉をひそめた。
 「それは誰が見てもそうではないのか」
 「違います」
 「なぜ違うと言える」
 「見て、触れば、わかります」
 苦しげに息を呑んでから、女は言った。「もう下がってよい」
 それは衝撃的な出会いであった。一目見た瞬間から、と言ってよい。説明のつかない抗いがたい魔力のようなものに女は囚われた。女は片時も男を忘れられなくなった。突き刺すような目線と、よく日焼けして引き締まった顔が夢に現に現れた。何とかしてこの男と、と女は願った。しかし身分の差が岩盤のように行く手に立ちはだかり、決して道を譲ろうとしない。ひっきりなしにやってくる求婚者たちが疎ましく感じられ、親の期待も心に重くのしかかり、どうせ叶わぬ望みならいっそ死んでしまいたいとまで思った。だが何としてでももう一度、かの男と二人きりで会うまでは、死んでも死にきれないとも思った。こうして悩みながらぐずぐずしているうちに、帝にまで懸想されたわけである。女は気が狂いそうになった。誰にも相談できる話ではない。

 思い余ってある日、女は傷んだ飯籠を直させるという名目で佐貫を呼び出した。呼び出しておいてから、籠の中に小さく折りたたんだ和紙を入れて男に差し出した。
 それは思いを告白する手紙であり、密会を求める手紙であった。

 十日ほどして、修繕された飯籠が女のもとに届けられた。一人になるのを待ち、震える手で女は蓋を開けた。籠の底に目立たないように、折った紙切れが挟まれている。女は慎重に紙切れをつまみ上げた。それから涙を流しながらそれを読んだ。

 居待ち月と呼ばれる十八日の月の出た深夜のことである。女は誰にも見られないようにそっと屋敷を抜け出した。近くを流れる小川まで出てから、川上に向かった。
 しばらく行くと、良質の竹が取れると言われる竹林が広がっていた。
 静かな晩であった。生ぬるい風が吹いていた。
 女が意を決して竹林の中に入っていくと、月の光も遮られがちになり、竹の風に揺れる音ばかりが鳴り渡って、まったく生きた心地がしない。
 それでも女は、憑かれたように前へ進んだ。
 やがてぼんやりと白いものが前方に見えてきた。闇の中で、それは光っているかのように見えた。すぐ近くまで寄ると、月明かりに、地面に敷かれた白い布地であると確かめられた。二畳ほどの広さである。まるで、そこだけ時節外れの雪が積もったかのようであった。
 女は吐息をついた。何もかも、手紙通りであった。
 手紙の指示通りに、女は布地の上に上がり、腰を下ろした。

 ひときわ大きく竹がざわめいたように、女は感じた。暗がりの奥から、粗末な服を着た男が姿を現した。もちろん、佐貫である。
 身分の卑しい男は立ったまま、正座する高貴な女を見下ろした。

 よろしいのですか。男は低い声で尋ねた。女は潤んだ目で男を見上げた。かまいません。あなたはこんな私を笑うでしょう。
 いえ。ただし、もしこんなところを誰かに見つかれば、我々二人とも生きてはおられますまい。
 どうせあなたに会えなければ、生きていないのも同然です。
 男は膝を落として女ににじり寄った。
 ──苦しい。
 それは男が発した言葉であったが、どちらがつぶやいたとしてもおかしくはなかった。

 衣擦れの音は、竹林のさざめきに掻き消された。月は人肌を照らすのを嫌い、雲間に隠れた。

            ☆   ☆   ☆   

 二人はその後も逢瀬を重ねた。発覚の危険はその度に増していった。万が一のときのことを考えて、男は病気を理由に屋敷通いの仕事を止めた。女は幼少のころから親しかった側仕えの女房にだけ打ち明け、密会の手引きを手伝わせた。二人は見境を失った恋人同士によく見られるように、だんだん大胆になってきた。昼間に落ち合うことも少なくない。それでも不思議と露見することはなかった。

 だが、世をはばかりながら得た幸せなどしょせん長続きしない。人目を忍ぶことには成功していたが、いつの間にか女は身ごもってしまっていた。不運なことに、男がそのことに気づく前に、女の母親がそれに気づいた。連金の屋敷の中は天地がひっくり返るほどの大騒動となった。相手が元通いの職人の佐貫と知った父親は、家臣を引き連れて男を殺しに向かおうとした。しかし我が娘に足もとに泣きすがられ、留められた。私が悪いのです、私が佐貫をそそのかしたのです。切るなら私をお切りください。もうこうなっては生きても恥を晒すばかりにございます。どうか私をお切りください。
 父親はしばらく歯噛みをして肩を怒らせていたが、えい、と一つ気合いを入れて剣を抜くと、それを思い切り廊下に突き刺し、その場にへたり込んだ。
 女は蟄居を命じられた。
 また家の者には厳重な緘口令が敷かれた。

 一方で、何も知らない佐貫は、竹林に通い続けた。約束の時間になっても女は来ない。次の日も、その次の日も。何日待っても女は一向に現れなかった。男は半狂乱になった。涙の川ができるほど泣き崩れ、天を呪い、衣を引き破った。それでも毎晩、約束の時間になると、約束の場所へ向かった。男はそうすることでしか、心の空虚を埋めることができなかったのだ。

 夏が終わり、秋が駆け足で過ぎ去り、冬が到来した。男の髭は伸び放題に伸び、顔はやつれ、別人のようになっていた。この頃は、さすがの男も諦めていた。止むをえまい。女は身分やら、将来のことやらを考えて、思いとどまったに違いない。あるいは屋敷を抜け出そうとするのを親に見つかったのかも知れない。自分を嫌いになったかも知れないとは、男はどうしても考えようとしなかった。だがいずれにせよ、女はもう戻ってこない。それは流れ去った水が二度と川上に遡上しないのと同じくらい確かなことである。男は女のことを必死に忘れようとした。しかし日が落ちて暗くなり、梟ばかりの鳴く時刻になると、どうしても確かめに行きたい衝動に駆られるのであった。

 冬が終わり、春が巡ってきた。

 女が竹林に姿を見せなくなってから九ヶ月が過ぎ去っていた。
 ある晩、男がいつものように竹林の中に入っていくと、赤子の泣く声がかすかに聞こえてきた。男は身震いした。声のする方へと近づいていくと、一際太い竹の根元に、白い布の塊が見えるではないか。布にくるまっていたのは、泣き声を上げた赤子である。おお、 おお、と男は叫んだ。
 女の産んだ子であることは、男にはすぐにわかった。そのとき初めて、男は全てを悟った。なぜ女が会いに来ることができなくなったかを含めて、男は全てを悟ったのであった。男は赤子を抱き上げ、声を張り上げて泣いた。枯れていたはずの涙が止めどなく男の頬を伝った。

           ☆   ☆   ☆

 以上が、竹取物語の元になったとされる逸話である。史料には、さらに後日譚まで書かれている。佐貫に拾われた赤子は、なよ竹姫と名づけられ、佐貫の父母に引き取られて養育される。やがて母に負けない美しい娘となり、世の評判を勝ちえ、かぐや姫と呼ばれるようになる。もちろん、竹取物語の主人公の名前と、竹から生まれたというエピソードはここに由来する。矢田郎女とその娘であるなよ竹姫の生涯は、本来別々の昔語りとなるべきであった。だが時と場所を変えながら繰り返し伝承されていく過程で、時代の要求もあったのだろうか、いつしか一つの物語として融合し、おまけに月の住人というような大胆かつ想像力に富んだ脚色までなされ、現在へと至ったのである。
 波乱の生涯を送った矢田郎女は、父連金が壬申の乱で敗軍についた罪で斬首されてのち、出家して尼僧として余生を送る。なよ竹姫はさる高貴な人物と幸福な結婚をして天寿を全うしたとされる。佐貫がどういう晩年を過ごしたかについては、残念ながら資料が残っていない。

(終)
コメント (4)
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ある人の言葉(47)

2008年12月18日 | Weblog
ネットですか。ネットはまあ底のない宝石箱みたいなもので。各人が各様の宝石箱を大事に持って、密かに蓋を開けて中を見ます。ところが底がないから、中からは世界が見えるという仕掛けですな。まあ箱の綺麗な分、何だかよく見えるような気もしますが、そりゃ箱を持つ手を下ろして、直接見たほうがずっとよく見渡せるもんでしょうが。

え? そんなことはないって? まあま、そんなこと言わずにもう一杯。
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N氏

2008年12月04日 | essay
 その人とは歌舞伎座で知り合った。

 ちょっといたずら気の覗く和やかな笑顔が印象的な老人であった。
 立見席の当日券を買うのにたまたま前後に並んだ者同士の世間話から始まり、ついでだからと一緒に観た芝居が跳ねたあとは、駅前の飲み屋で一杯。聞くと一代で興したせんべい屋の社長だと言う。歌舞伎に関わらずいろいろな芸術分野に造詣が深い。人生の苦労も愉しみもその味わい方を知っている人なのだろう。若造の私に対し、対等に接するというやり方で気を遣ってもらい、私も彼の社員でも知己でもないので、むしろ互いに気兼ねなく話に興じることができた。

 それからときどき歌舞伎に声を掛けられた。行けるときもあり、仕事の都合で行けないときもあった。行けないときの方が多かった。それでもいつも気さくに電話してもらえるのが嬉しかった。自社の工場も見学させてもらった。

 私の短い東京生活での、非常に限られた人間の出会いの中で、とても貴重なものの一つである。

 彼との繋がりは、私が信州松本に越してからも、かろうじて保たれた。私の事業は難航を極め、歌舞伎の誘いはすべて断らざるをえない状況であった。それでも葉書などの遣り取りが細々と続いた。

 ある日電話で、彼が入院していることを知った。足を滑らせて怪我をしたとか。東京を出る際、餞別ももらっている。恩を返すのはこういうときと思い立ち、東京に向かった。

 病室で久しぶりに見た「社長」の姿は、絶句するほどやつれて見えた。そうなのか、と思った。そうなのか。年を取って入院して、実質的に一人暮らしの生活を始めると、ここまで人は生気を失ってしまうのか。私の感想には多分に私自身の思い込みもあったろう。それでも、背中を丸めて虚空を見つめる孤独な姿からは、怪我や病気に留まらない原因を思わずにはいられなかった。
 何か食べたいものはないですか、と尋ねたら、パイナップル、と言う。私はその南国の果物を捜し求めるべく病院を飛び出したが、周りは住宅地で、果物屋はおろかスーパーすら見当たらない。やむを得ずコンビニエンスストアでパイナップルの缶詰を買って返った。病人のお見舞いとしてはひどい代物である。それでも美味しいと言って一切れ二切れ、食べてもらった。私が目の前に立っていたからであろう。

           ・         ・         ・

 春が訪れ、夏が過ぎ、冬の到来を感じる朝、郵便ポストに、喪中の葉書が届いた。
 しばらく私はその理由がわからず、葉書を手にして佇んだ。
 その晩、私は葉書と共にビールグラスを傾けた。まあ人の命の長さをあれこれ言っても仕方ない。死んじゃったものは仕方ない。缶ビールが切れたので、ウイスキーに手を伸ばす。それにしても。死んだ人はだいたい生きている者に後悔させるから始末が悪い。どうして、どうしてもっと生前に会っておかなかったのだろう。私が仕事で忙しかったのは事実か? いや、事実だ。仕方なかったんだよ。でもどうしてあの日、タクシーに乗ってでも生のパイナップルを買い求めなかったのだろう。それは私に出来たことだった。あの日の脳裏にもそのアイデアはよぎったはずだ。ただ、あのときは、一期一会の思いが、そんなには強くなかっただけなのだ。
 私はやはり、何かを面倒くさがったのだ。

 ウイスキーは喉に辛く、私はひたいを抑えた。



コメント (2)
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