た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~5~

2015年05月31日 | 連続物語


♦    ♦    ♦


♦    ♦    ♦


 砂漠に夜明けが訪れる。
 褐色の大地に靄が立つ。岩肌が光る。目覚めたばかりのラクダが鼻息を荒げる。
 開けっ広げの黒いテントの下で、毛布を被って横向きに伏したまま、ヒロコはじっと外を見つめた。
 ここはシリア南部、ヨルダンとの国境にほど近い砂漠地帯である。
 砂漠と言っても石だらけである。枯れたような草がところどころに生える。遠くにはごつごつした岩山が連なる。どこまでも荒涼とした風景である。この風景は、見る者から安っぽい笑顔を奪う。ただ眺めているだけでも、眉間に深い皺が刻む。
 ベドウィンたちのテントが二十七張りほど集まっている。その一つに、半月ほど前から、ヒロコは一家族と共に寝泊まりしている。母親のダリア、ヒロコより一つ年下のアイシャ、二つ下のジャミラ、そして年が離れて十歳の弟ハサン。ダリアはイブン=サヘル=ファヘドの三番目の妻であったが、イブンは三年前、イスラエルとの戦闘で死んだ。
 砂漠の上に意識を失って倒れているヒロコをハサンが発見し、このテントで介抱して以来、ヒロコは家族の一員のように扱われている。ヒロコはアラビア語ができない。心も開かない。それでも、手振り身振りで言われたことを何となく理解し、家事を手伝い、食事を共にし、日々を過ごしている。
 今、家族の中で目覚めているのはヒロコだけである。彼女は体を少しだけ動かし、うつ伏せの状態になって、さらに外を眺め続ける。彼女が着ているものは、他のベドウィンの女性たちと同じく、ゆったりとした黒い長衣である。
 羊たちがメーメーと互いを起こし始めた。一羽だけいる痩せた鶏も鳴く。
 『ヒロコ。今朝はあなたが水汲みよ』
 目覚めたダリアがヒロコに声を掛けた。もちろんアラビア語の意味はわからない。が、彼女が指差している桶を見れば、指図された内容はわかる。
 ヒロコは小さく頷き、立ち上がった。
 黒いベールを被り、顔を隠す。桶を手にして、テントを出る。乾ききった風が、彼女を不毛の大地に迎え入れる。
 サンダル越しにも砂地の冷たい感触が伝わる。昼にはまた、熱せられたフライパンのようになるのだろう。
 ヒロコは二つの桶を担ぎ、黙々と歩き続けた。

 末っ子のハサンが上の姉の衣の端を引っ張りながら尋ねる。
 『ねえ、あの人、どこから来たの?』
 『知らない。絶対言わないんだもの』と長女のアイシャ。『シャイフ(族長)が地図を見せても答えないんだから』
 『帰るところがないのね』と次女のジャミラ。
 『帰るところがなくても、来たところはあるわ』と長女は言い返す。彼女は心を閉ざし続ける新参者に 少々不満げである。
 母親のダリアはテントの前に佇み、じっとヒロコの後姿を見送っている。
 『砂漠にたった一人、置き去りにされたんだから、不幸な子よ。アラーのお恵みがあの子にありますように。さあみんな、毛布を片付けて。朝食の準備よ』

 砂漠を行く一頭のラクダのように、ヒロコは歩き続けた。
 心の中に湧き起るものは、来る日も来る日も、同じであった。疑問と、困惑と、憤り。なぜ、予言者は自分をこの地に送り込んだのか。ここが中東に位置するシリアという国であることを理解するのに、ヒロコは三日もかかった。ベドウィンのテントの中で意識を取り戻したとき、何が何だかまるで分らなかった。予言者はなぜ、こんな僻地に自分をトランスポートさせたのか。これは彼の気まぐれな悪戯か? 日本人が一人もいない地の果てで、焼け付く日を浴び、喉の渇きに苦しみながら死んでいけばいいとくらいに思われたのか。だがそれではおかしいではないか。だって彼は、自分に生きることを勧めた。人類の天敵として生きればいいとまで言った。それに─────。
 ヒロコは井戸場にたどり着いた。一人の婦人が先に来てポンプから水を汲んでいた。向こうがアラビア語で短い挨拶を交わしてきたが、ヒロコはどう返していいかもわからないので、黙っていた。婦人は険しい目つきでヒロコを睨んでから、水の入った桶を手に去って行った。
 ヒロコは錆びついたポンプを動かし、二つの桶に水を満たした。
 ───それに、自分はユウスケ君に会いたいとお願いした。ユウスケ君に会うにはどうすればいいかを尋ねた。それなのに、なぜ。なぜシリアなのか。あの男は、どこまで自分をなぶり者にしたのか。許せない。絶対に許せない。あんな奴、会った時すぐに燃やしてやればよかったのだ───。

 ヒロコが水を汲んでいるさなか、ダリアたちのテントを、ラクダに乗った男が訪れていた。黒い鼻髭を横に伸ばし、アラブ人特有の垂れ気味で彫りの深い目つきをした、族長のアブドゥル=ラフマーンである。頭に巻いたスカーフを風になびかせ、彼はテントの前に降り立った。
 ダリアがそれを迎え入れた。
 『シャイフ(族長)・アブドゥル=ラフマーン様』
 『ダリアよ。家族の皆は元気か』
 『アラーのお導きによって』
 『結構だ。ヒロコは、今、ここにいないな』
 『はい。仰せの通り水汲みに行かせています』
 『うむ』族長は頷き、落ち着かなげに周囲を見渡した。『部族会議の結論が出た。ヒロコについてだが、やはりこのままここに置いておくわけにはいかない』
 ダリアは目を伏せた。
 『あの子がムスリムでないことが一番の要因だ。異教徒を我が部族の中に留め置く危険は、お前も分かろう』
 『あの子はまだここに来て数週間しかたっていません。アラビア語もわかりません。アラビア語が話せるようになれば、必ずあの子はムスリムになります』
 族長アブドゥル=ラフマーンは苛立ったように指で頬を掻いていたが、身を屈めると、見開いた目を未亡人に近づけた。
 『もしあの子がコーランを選ばなければ、あの子は侵入した異教徒として、ここの部族の男たちの餌食となろう』
 ダリアは衝撃のあまり息もできなかった。
 『シャイフ様、あれは、まだ子どもです』
 『選択できる年齢だ』
 『あれは、自分の意志を言葉にすることすらまだできないのです』
 『あの子の頑なさが我々の決定に従うことを拒むなら、同情の余地はない』
 『シャイフ・アブドゥル=ラフマーン様。あの子は、ここを出ても行くあてがないのです』
 『異教徒にここで暮らす道はない』
 族長はラクダに跨った。
 『三日だけ猶予を与える。ヒロコに答えを用意させておけ』
 族長を乗せたラクダは砂塵を上げて去って行った。

(つづく)


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食欲

2015年05月22日 | essay
 最近腰回りが気になり始めた。食べても食べても太らないことがひそかな自慢だっただけに、四十を過ぎると、やはり人間食べたら太る、という当たり前の現実に直面し、動揺を覚えている。

 そもそも運動の苦手な性分である。ダイエットのために何をするかと言われても、まあ、歩くしかない。あと一つ、木刀も振り始めた。この木刀は数年前、高山の土産物屋で買い求めたもので、土産物屋にはなぜ必ずと言っていいほど木刀があるんだろうという素朴な疑問から、思わず購入したのはよいが、何年も埃を被らせていた代物である。木刀にとってもようやくのことで日の目を見て嬉しいだろうし、運動としては腕立て伏せより簡単な作業なので、気に入って毎晩振っていたら、家人にひどく馬鹿にされた。馬鹿にされても振り続けている。

 先日、テレビのニュースで「犯人は普段から自宅の庭で木刀を振っていた」というくだりを耳にし、それからは近所の目が怖くてなるべく誰にも見つからないように振っている。体重に関して成果はあまり出ていない。家人は相変わらず馬鹿にしている。それでも何かの気休めになるんじゃないかと振り続けている。

 食事制限も、制限と言うほど立派ではないが試みている。仕事上夜が遅いので、夕飯はなるべく簡素にしている。もともと食欲旺盛な方ではないから、一品、二品減らされても気にならない。しかし食欲とは不思議なもので、あるとき不意に顔を出し、猛烈な勢いでスナック菓子に手を伸ばしめることがある。飲酒するとその傾向がはなはだしい。晩酌するからと白米を抜いても、煎餅をバリバリやってたんでは、これもなかなか成果につながらない。

 食欲と言えば、我が家の飼い犬は確実に貪欲の部類に入る犬である。小さい頃は道端に落ちているものを清掃車よろしく何でも口に入れた。首輪も二度ほど食べた。牛皮製だから美味しいのだろう。一度目は金具だけちゃんと揃えて残していた。二度目は、金具ごと食べたのではないかと家中で騒いだが、二三日経つうちに、一個、また一個と金具が出てきた。それらが小屋のどこかに隠されてあったのか、それとも順次排泄されたものなのか、その辺がよくわからなくてミステリーである。

 犬を眺めていると、生き物とは、食べて、食べて、食べて死んでいくものなのだなあと妙に実感してしまう。涎を垂らしながら合図を待ち、「よし」と言われた途端に一心不乱に餌に食らいつく姿などは、ほとんど至福のあり様を示しているとさえ思えてくる。

 とすれば、腰回りに少々、綿入れを巻いたような手触りがあろうと、何を気にすることがあろうか。人間もまた、食べて食べて、飲んで、太って、幸せを感じて死んでいく生き物なのではないか。

 そう考えると、必然、木刀の振りも鈍くなる。まあもともとから、トンボを捕まえるような振りではあったのだが。



※『火炎少女ヒロコ』の原稿が進まないので、今週はエッセイで誤魔化しました。
コメント (5)
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殊勝な方々へ

2015年05月18日 | 連続物語
『火炎少女ヒロコ』をご愛読ありがとうございます。

第一話と第二話は、

ホームページ『火炎少女ヒロコ』

移行しました。

そちらもあわせてご覧ください。




※写真は年明けの諏訪湖
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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~4~

2015年05月12日 | 連続物語

 『ユウスケ君は。ユウスケ君は無事ですか』
 それは彼女にとって、最も気がかりな質問であった。
 『ユウスケとは』
 『テレポートで私をここに連れてきた人。私・・・私、彼を・・・』
 『ああ、お前が燃やした男か。無事だ。将来、お前たちは再会する』
 感激のあまり、ヒロコは手が震えた。
 『また会えるの?』
 『ただし、幸福なかたちではない』
 ヒロコはひどく落胆した。
 『幸福なかたちでないって・・・どういうこと』
 ほとんど髑髏の顔が、じっと彼女を見つめる。
 『ねえ、教えて! 私たち、会わない方がいいの?』
 『会わざるを得ない』
 『会わざるを得ないって・・』背筋に寒気を覚えた。自分たちの再会が、互いをさらに不幸にする可能性はある。十分にある。何しろ自分は、彼を焼き殺そうとした人間なのだ。
 祈りを捧げる人のように、ヒロコは思わず予言者の前に両膝を突き、胸の前で手を組んだ。藁にもすがる思いだった。 
 『未来を・・・未来を意志するのなら、未来を変えることもできるんですか?』
 『愚か者が。未来がそうなるようにしか意志できない、そう言ったはずだが』
 未来がそうなるようにしか、意志できない。ヒロコは呆然と心の中で反芻した。
 『人間は自然の一部だ』予言者は続けた。『人間の意志は自然の作用を受ける。同じようにして、自然は人間の意志の作用を受ける。たった一人の人間の思いが、地球の裏側を変えることもある。だがそのたった一人の思いにも、地球の裏側が影響を及ぼすこともある。すべては巨大な因果の連鎖の中にある。どちらが原因でどちらが結果になるかは、すべて、程度の問題なのだ。』
 糸を引いた蜘蛛が一匹、ヒロコと予言者の間に降りてきた。蜘蛛に目の焦点が合い、予言者がぼやけて見える。予言者の言葉はあまりに難解であり、ヒロコはひどく混乱していた。だが何となく、納得できる気にもなるのが不思議であった。
 蜘蛛は自ら糸を切って地面に落ち、姿を消した。
 未来はそうなるようにしか、ならない、ということか。
 『私は───どうなるの』
 『さまざまな苦難が、お前を待ち受けていよう』
 『私、じゃあ、今すぐ死んだ方がいいの』
 もし死んだ方がいいと言われれば、今すぐ舌を噛み切って自殺してもいい。それくらいの思いが、ヒロコにはあった。それは心からの痛切な問いかけであった。
 予言者は答える代りに、光を増した。日が没し、完全な宵闇が訪れたからである。フクロウの鳴く深い森の奥で、そこだけ丸く小さな光に包まれて、予言者とヒロコは対峙した。
 『ヒロコよ』予言者は語りかけた。『お前は自分の能力を恨むことはない。お前の責任は、お前にはない。お前の存在は、自然の成り行きなのだ』
 『どういうこと』
 『お前は聞いたことがないか。かつて、ある湖で繁殖し過ぎた貝が、自分たちの個体数を減らすために、互いを殺す毒を持ち始めた話を。あるいは、えさ不足になるまで増殖したネズミが、一斉に水の中に飛び込み、集団自殺したという話を。お前は不思議に思わないか。現代社会における、無差別殺人や児童虐待、精子の減少、精神病の増加・・・まるで人類全体が、滅亡へと駆け足で向っているように、お前には思えないか。
 『人間は気付き始めたのだ。人間の発展が決定的に悪であるということを。人類は繁殖し過ぎて今やどうしようもない事態に陥りつつあるということを。はっきり意識しようがしまいが、それらは個々人の潜在意識に強迫観念として植えつけられているのだ。人間は今、無意識に、何とかして種の数を減らそうとしているのだ。
 『お前の出現はその一例に過ぎない。今後、お前のような殺傷能力のある特殊能力者たちが次々と現れ出るだろう。人類はこれまでにない全面戦争の時代を迎える。それは、国と国とが戦ったかつての戦争とは違う。個人と個人が殺し合うのだ。あるいは自分を殺す。意図して、あるいは意図せずして。道具を使う殺し合いもあれば、道具を使わない殺し合いもある。世界の人口は減っていく。ゆっくりと、着実に。そういう戦争だ。
 『お前の悪は、お前のせいではない。お前の存在を必要とするまで肥大した人間社会のせいなのだ。お前がいなくなっても、次のお前が出てくる。ヒロコ。お前の役割は、人類のために人類の数を減らすことなのだ。だからためらうことなく人間を燃やし続けるがよい。お前の力が強大になれば、お前はもっと能率よく、もっと大勢の人間を片付けることができるようになるだろう。それでよいのだ。人類はあまりに長い間、天敵を失っていた。お前は、お前の同胞たちのために、あえて天敵となるがよい。それが、お前の存在する意味であり、お前に課せられた役割なのだ』
 予言者の言葉は淡々と、ヒロコの心に注ぎ込まれた。ヒロコは彼の話に打ちひしがれたか? それともなるほどと感銘を受けたか?───とんでもなかった。その代り、何とも不可思議で一種異様な感覚が、ヒロコを捉えていた。ミイラのようにしか見えなかった予言者が、非常に人間臭いものに見えてきた。まるで酔っぱらった大人に絡まれたかのように、彼女は距離を置き、冷静に内なる耳を傾けることができた。聞きながら、心の中では、ずっと首を横に振り続けていた。どれだけ聞いても、反発心しか湧き起ってこなかった。ヒロコはそこまで頑なな性格だったのだ。それは宮渕に語りかけられたときも、エイジの説得を受けたときも同じである。ただ今回は、心が暗く落ち込むどころか、むしろふつふつと生きる力が湧いてくるのを感じた。
 まったく唐突な感動だった。ほとんど喜びすら彼女は感じていた。それはユウスケが生きている、という情報を手に入れたからに違いなかった。彼が生きている。彼が生きている限り、彼に会いに行こう。彼女は固く心に誓った。
 <だって、会わざるを得ないって、この人も言っていたわ! 確かに、確かにそれは、不幸な再会になるかも知れない。私たちはひどく辛い思いをするかもしれない。そうなったら本当に悲しい。でも、私は───私は絶対に、不幸になるようには意志しない。私は全力で、未来を変えてみせる。変えてみせるわ。意志の力ってそういうことでしょ? 私にその力がないとは限らないじゃない? だって、他の人にはない力を持っているんだもの。ある意味、たぶん、私は特別なのよ。役割? ふざけないで! 人殺しをすることが私の運命だって言うの? 冗談じゃないわ。未来がすでに決定してるって、いったい誰が決めたの? 私は彼に会って、謝るわ。泣いて謝るわ。許してもらえないかもしれない。たぶん、許してもらえない。でもユウスケ君なら、彼なら、許してくれる気がする。仕方がなかったんだよって。心を操られていたんだからって。あの人、優しい人だから。許してくれるまで、何度でも謝ろう。何度でも、土下座してでも。それで、もし万が一、許してもらえたら。もし、また彼を好きになることが許されるなら───。>
 ヒロコは、かつて初等訓練の時、フミカに言われた言葉を思い起こしていた。
 <───もし、彼が再び私を受け入れてくれるのなら、私は今度こそ、全力で彼を愛すわ。私たちは本当に愛し合うのよ。恋人同士として、心と、体で。全身全霊で。それでフミカさんの言う通り私の能力が消えてなくなるなら、それこそ本望だわ! 私喜んで、今の自分を捨てるわ! もう二度と、人を燃やさない。能力なんて、何もいらない。そのためにできることを何でもするわ。心を強くする必要があるんだったら、強くするわ。弱くすることが必要だったら、弱くするわ。わかんない! でも、私、なんだってやってみせる。ユウスケ君のために。彼なら、答えを知っている。彼なら、私を正しく導いてくれる。そう。きっと。彼は私のことを怒ってるかしら? もちろん怒ってるわ! 私に許される資格なんて・・・でもいいの。私は唾を吐きかけられても、足蹴りにされても、彼のもとへ行くわ。彼に死ねと言われれば、その時死んでみせる。死刑にされるなら、喜んで処刑台に上がる。それでも、私はユウスケ君にもう一度会う。もう一度。その時すべてが決まるのよ。その時まで、私は生きてみせるわ!>
 それらのことを、ヒロコは予言者の落ちくぼんだ眼窩を見つめながら、一息に思ったのだった。予言者は相変わらず身動き一つしなかった。ヒロコは、彼が自分の心境の変化を面白がっている気がしてならなかった。
 ヒロコは立ち上がった。
 『ここからどこへ行けば、ユウスケ君に会えるの』
 『思った以上に、頑迷な女よ』
 初めてヒロコは微笑んだ。
 『あなたにも予想できないことがあるのね』
 『予想ではない。意志するのだ』
 『そう。希望がわいたわ。どこへ行けばいいのか、道案内はしてもらえるの?』
 二人を包むほの明かりの外側は、いつの間にか漆黒の闇であった。フクロウがどこかでしきりに鳴いていた。草木がさざめき、遠くで獣同士が互いを呼び交わした。
 予言者は、長い嘆息をつくほどの間をおいた。
 『ご覧の通り、動けない体だ。私は、自分の一生の中で、お前に会うことまでを意志して生きてきた。死ぬまでに、お前に会えればよかった。私の望みはここまでだ。やがて私は朽ち果てよう』
 ヒロコはじっと予言者を見つめていたが、ふと、思い出したように、貫頭衣の袖口に手を入れた。そこから、一切れのパンを取り出した。それは二日前ユウスケに言われていた通り、脱出の際密かに持ち出したものである。
 彼女はパンを予言者に差し出した。
 『じゃあ、これであなたの予言を変えるわ。もう少しだけ、長生きしてもらえるかしら。私のために』
 今度こそ、予言者は笑った。ほとんど肉のついていない頬が引き攣り、口が開いた。
 『私の意志を凌駕するつもりか』
 『食べて。できるんでしょ?』
 『実に、面白い子だ』
 ヒロコの手にしたパンは、粉々に砕け、空中に浮遊した。さらに砕け、目に見えなくなるほどに細分化された。それらは掃除機に吸いこまれるように、予言者の口へと入っていった。
 ヒロコは彼の能力の高さに今更ながら驚いた。
 『あなたは、AUSPの人たちより、高い能力を持つの?』
 『エイジは、かつて私の弟子だった』
 驚く暇もなく、ヒロコが経験したことのない現象が、さらに起きた。座禅を組む予言者の体から、もう一人の彼の輪郭が、幽体離脱したように出てきたのだ。
 背景が透き通って見えるそのおぼろげな輪郭の身体は、座禅を組む体と違って自由に関節が動いた。それは、ヒロコの前にすっくと立った。
 恐怖におののいたが、後退りすることなく、ヒロコは目を見開いてその霊体を見つめた。
 『食べ物をいただいた礼だ』
 そう言うと、霊体の予言者は、両手を差し伸べてヒロコに触れた。ユウスケがテレポートを使ったときと、同じ感覚がヒロコの体内に湧き起ってきた。
 どこかに、連れていかれる。
 『どこへ行くの』
 不安は最高潮に達した。
 『私の意志だ。お前には旅をしてもらう』
 から、から、と、予言者が笑い声を上げたような気がした。
 激しい衝撃が、ヒロコを襲った。
 ───森に闇が戻った。
 夜風が通る。どこかで、野猿が甲高く鳴く。
 月の光も差し込まない粗末な小屋では、あばら骨の浮き出た予言者が、ただ一人、誰も拝む人のいない石像のように、黙然と座禅を組み続けた。
 
(つづく)










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GW

2015年05月07日 | 写真とことば
今年のゴールデンウィークは、いろいろな訪問客があった。格別こちらが動かなくても行楽気分になり、誠にありがたい。

圧巻は九州は肥後熊本から。昼過ぎに電話があり、これから男二人、車で信州松本まで向かおうと思うが、つくかどうかわからないと言う。1000キロを超える道のりである。もちろんつかないだろうと高をくくっていたら、真夜中一時過ぎに、本当についた。運転手曰く、「思ったより遠くないことがわかりました」。大したものである。

住人をいっとき旅人に変える。そんな魔力が、GWにはあるのだろう。





※写真は松本市内の藤棚
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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~3~

2015年05月05日 | 連続物語

 彼女は小屋に近づき、入口の布をめくり上げた。
 暗い。
 とたんに彼女は鼻を押さえた。肉の腐ったような異臭。きゃっ、という叫び声を上げて、慌てて布を下ろした。ヒロコは、自分が見たものが信じられなかった。薄暗く狭い内部には、恐ろしくやせ細り、ほとんど骨と皮だけになった人間の、座禅を組む姿があった。数匹の蠅が周りにたかっていた。ミイラなのか、生きているのか判別できなかった。ただ眼が、ギラギラと光っていた気がした。してみると生きていたのか。
 すぐにこの場から逃げたかったが、同時に、もう一度見たいという強い欲求に突き動かされた。なぜそんな気になるのか、ヒロコ自身全くわからなかった。
 口と鼻を押さえ、彼女は震える手で布をもう一度めくり上げた。
 飛び出してきた蠅が頬にぶつかり、気持ち悪さで腰が抜けた。それでも彼女は布を持ち上げたまま、薄暗がりの中を正視した。
 男はやはり、生きていた。
 あばら骨が浮き出、腹はえぐられたように凹み、顔は表情を作りようがないほどにやつれている。一突きすれば、ガラガラと崩れ落ちそうな体である。それでも、男の目には意志が宿っていた。
 『燃やす女か』
 耳に聞こえたのではない。心に聴こえた声であった。
 『人を燃やす女か。お前がそうなのか。名はなんと言う』
 やはり心に聴こえる。男の口も喉も動いていない。彼は意志の力で語りかけているのだ。
 ヒロコの驚きは尋常ではなかった。心に響くその声なき声は、たとえるなら、水の中で鐘を鳴らされたような感覚であった。びりびりと神経の揺さぶられる声であった。
 ヒロコは思わず後退りした。
 『怖がることはない。もはや、喉を使ってしゃべる体力すら残ってないのだ。精神と精神で会話することならお前にもできる。聞こえるように語りかければよい』
 『───私は、ヒロコ』
 『ヒロコか。なるほど。相応しい名だ』
 『あなたは、誰』
 『私か。私は予言者と呼ばれていた。他の名は、ずっと昔に失った』
 『予言者?』
 ヒロコは耳を疑った。彼が特殊能力者であることは間違いない。しかし予言する能力の存在など、AUSP内でも聞いたことがなかった。
 『未来のことが、わかるの』
 表情のない顔が、少しだけ笑った気がした。
 『正確に言えば、未来を意志するのだ』
 『意志する?』
 『こうなって欲しい、と思うように、未来がなる』
 あまりに荒唐無稽な話である。ヒロコは眉をしかめた。
 『じゃあ、あなたは未来を変えられるの?』
 『そうではない。未来のあり方に、私の意志が従うのだ』
 わけがわかんない、とヒロコは思った。<何なのこの人? ペテン師? それとも、餓死しかけて気でも狂ったのかしら?>
 『どうして、あなたは、私のことを知ってるの』
 『お前の出現を期待した。人を燃やす力を持つお前の出現を。そして、ここを通りかかることを望んだ。お前に会いたい、と願った。その通りになっただけだ』
 『どういうこと? あなたは、私の出現を期待したの?』
 答えはない。
 『暗いな』
 そうつぶやくと、彼は小屋の中をほんのりと明るくした。もちろん、蝋燭も電燈も使わない。彼自身は彫像のように微動だにしないままである。入口に立つヒロコは逡巡した。どこまでこの男の言うことを信じればいいのか。だがもし、もし本当に、この男に未来がわかるなら・・・。
 『ユウスケ君は。ユウスケ君は無事ですか』
 それは彼女にとって、最も気がかりな質問であった。

(つづく)




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