た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

桜さくら

2017年04月20日 | essay

 この季節になると、毎年のように感心することが二つある。一つは、日本全国の桜の多さ。ニュースを観ると、桜便りばかりである。日本中が桜の木で埋め尽くされたような感を持つ。近所も然り。犬の散歩でもしようかと路地を歩けば、滑り台一つだけの小さな公園にも一本見事な桜が咲いていたりする。寺にあり、学校にあり、川岸にあり、墓場にある。植えた先人たちは実にご苦労様なことである。

 もう一つは、桜を愛でる日本人の多さ。桜があるところでは大抵誰かが花見の宴を開いている。敷物を広げるまでいかなくとも、近所に住む老人、仕事をさぼった道路工事夫、犬に引き摺られて散歩する住民など、どこでも誰かが、桜を見上げている。珍しくもないのに写真まで撮っていたりする。

 かく言う私も、今年も幾度か花見をした。

 先週末は電車とバスを乗り継ぎ、高遠の桜を見に行った。城址公園行のバスがほとんど外国人で占められていることに驚いた。聞くと彼らは日本人の桜を愛でる習慣が面白くて、わざわざそれを見に来るのだそうだ。こうなると、花を愛でる日本人を愛でる行為になり、ややこしいことになる。まあ日本人も案外、それに似た動機なのかも知れない。つまり自分たちが国民行事のようにこぞって桜を楽しむその姿を見て楽しむために、あちこちの公園へと向かうわけである。

 高遠は酒蔵で試飲ができる。それを心ゆくまで味わいたくて電車にしたのだ。行きの車内で飲み、城址で飲み、下山して酒蔵で飲み、連れと二人、ふらふらになって帰った。

 また昨日は、遊び仲間の男三人で、アルプス公園で花見をした。仲間の一人が寿司職人で、やたら豪勢な弁当を差し入れるのが何よりこの会の特権である。寿司を頬張り、そよ風にさざめく桜を見上げると、これ以上の贅沢はない気がしてくる。ただ惜しむらくは花が五分咲きで、そよ風がときおり北風に変わって肌寒かった。夕方から仕事のある私は、今回はノンアルコールビール。しかし私を除く二人は、へべれけに酩酊して桜が二重にも三重にも見えたことだろう。

 花と言えば桜を意味するようになったのは、いつ頃だろうかと、一人がつぶやいた。おそらく、桜と酒との相性に人々が気付き始めた頃に違いない。

 

 

     夢を出て  また夢に入る  花のみち 

 

 

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読み切り短編  『復讐』

2017年04月18日 | 短編

 

 細田直樹君には復讐したい人がいる。自分の生きている間に激しい後悔を相手に与えたいと思っている。かなうことなら刺し違えて死んでもいいと、そんな物騒なことまで考えている。

 その相手は父親の正樹さんである。正樹さんは小さな自動車工場を営み、上背こそさほどないものの、がっしりした体躯の持ち主で、高校生のとき夏の甲子園に出場した。ただし控え選手として。三塁のコーチボックスで誰一人来ない走者を待っている間に試合が終わってしまったが、しかしそんなことで彼の野球に対する情熱が途切れることはなかった。自分の果たせた夢と果たせなかった夢(果たせた方は甲子園出場で、果たせなかった方は甲子園で打席に立つこと)を、彼は長男の直樹君に、言わば全力投球で投げつけた。

 早朝ランニング、親子キャッチボール、腕立て、腹筋、深夜の素振り。直樹君の所属するリトルリーグの試合があるときには、ほとんど必ず正樹さんの───野球帽を目深くかぶり、スコアラーとメガホンを脇に挟んだ───姿があった。

 父親の情熱と期待を一身に背負い、直樹君はつくづく野球が嫌になってしまった。練習試合の最中に、監督でもコーチでもない父親からメガホンで叱責されるのも、恥ずかしくてしょうがなかった。

 そもそもイノシシのような父親の体格よりは華奢な母親の骨格の方を受け継いだ彼は、柔軟性にこそ長けていたが、バットに重りをつけて素振りしたり、泥まみれになってノックを受け続けるような体力も根性もなかった。『八時だよ全員集合』を毎週欠かさず観て育った彼は、どちらかというとおどけた顔と仕草で級友たちの笑いをとる方が性に合っていた。野球帽のつばをトサカのように立てて頭にかぶり、ウルトラマンの仕草をするのが彼の持ちネタの一つであった。

 彼は父親を恐れた。説教を受けそうになると、先回りして「今度頑張る」という言葉を口にした。だが頑張るために具体的に何をすればよいのか考えたこともなかった。次回はどこが痛いことにするか、ということに多く頭を使った。父親の正樹さんは不機嫌な時、下唇を歯でしごきながら絞り出すように声を出す癖があったが、息子の言い訳を聞くと、きまって下唇をしごきながら、「つまらんやつだの」と吐き捨てるように言った。どんな過酷な練習よりも、直樹君はそれが一番辛かった。

 高校に入るとき、彼は初めて反抗した。両親が親戚の結婚式で留守になった間隙を縫い、内緒でサッカー部に入部届を出したのだ。サッカーに格別強い興味があったわけではない。野球をただ辞めるよりはまだ体裁がいいと思ったからである。

 礼服姿で帰宅した正樹さんが白ネクタイを外す間も惜しんで部活のことを問い質し、息子のおずおずとした口調で高校ではサッカーをやりたいという意志を聞いたとき、シャツのボタンが取れるのではないかと思われるほど、父親は体を膨らませて激高した。

 「野球はどうするんだ」

 絞り出すような低い声。

 「サッカーがやってみたい。だって体育でサッカーやっても、結構いいスジしてるぞって、先生にまで言われる」

 「野球はどうするんだ」

 「大学入ってからまたやるかも」

 次の瞬間、セメントで殴られたような衝撃が直樹君の頬に走った。

 あまりにびっくりしたので、痛みすらしばらく感じなかった。気付いたら畳の上に倒れていた。何が起こったかよく理解できなかった。母親が金切り声を上げながら飛んでくるのがぼんやりとわかった。薄目を開けたら、目の前の畳に血痕がついていた。

 襖を勢いよく閉める音。遠ざかっていく重く、鈍い足音。母親に肩を揺さぶられながら、直樹君はエビのように背を丸めて泣きじゃくった。

 それ以来、彼は父親に対し密かな殺意を抱き始めた。

 

★      ★     ★

 

 大学1年生のとき、直樹君は女性と恋に落ちた。

 もちろんそれまでも女の子は好きであったし、浴衣を着て一緒に花火を見に行ったり、その帰りに屋台の裏でケチャップのついた唇を拭きながらキスをしたりといったことはままあったが、人を本気で好きになったのはこれが初めてであった。相手は文学部に属する紗季さんである。くりくりした目とふっくらした頬の、顔は可愛らしいが、言うことにはオナモミのようにいちいち棘がある女性である。彼女と議論して一瞬たりとも彼女を言い負かした人を彼は一人も知らない。また、生まれてこの方そんな人物は、彼女の両親を含めて一人もいないのではないかと想像した。彼女と知り合って、直樹君は、自分は気性の強い人に惚れるのだということを初めて知った。

 二人はテニスサークルで知り合った(ちなみに高校時代、父親の反対を押し切って転部して始めたサッカーは、ひと夏を越す前に終わっていた)。名前ほどテニスに熱心ではなく、もっぱらコンパや花見や臨海合宿などに重きを置いた団体であった。ひょうきん者でよくしゃべる直樹君はすぐに同期のまとめ役的存在になり、たまにやる本業のテニスでもスポーツ万能である証を見せつけ、先輩同期の隔てなく皆にもてはやされた。

 大学に入って初めての夏、湘南の海での合宿の最終日、砂浜に並んで座って缶酎ハイを飲みながら、彼は紗季さんを口説いた。

 「あのさあ、紗季ちゃんってどんな人がタイプ?」

 「わたし? わたし? わたしはそうねえ、ガッツがあって、目標に向かってひた走る野球部タイプの人かなあ」

 直樹君は缶に噛みつくようにして中身を呑み込んだ。

 「おれ、実は野球やったことあるんですけど」

 「え、うそ。あ、でもやってそうな気もする。高校生の時?」

 「中学生まで。でも、ちょっとだけ自慢すると、県の選抜メンバーにも選ばれたことがあるんだ。おれ」

 「うそ、県の選抜? すごいじゃん。ピッチャー?」

 「ショート。ピッチャーじゃないよ。でも五番」

 「五番? 五番ってすごいじゃない。五番って確か、二番目によく打つ人の打順でしょ? すごい! へえ。人は見かけに寄らないもんだね」

 「何だいその見かけに寄らないって」

 「だって、直樹君ってへらへらしてるし、チャラいところがあるから」

 「チャラいって言うなよ」

 「ごめんごめん、でもチャラいじゃん。どっちかって言うと、サッカーしてそうな感じがしたから」

 「サッカーもしてました。別にチャラくないけどね、サッカーも」

 「サッカーも? 何それ。サッカーもしてたの?」

 「高校の時ね」

 「中学で野球やって、高校でサッカーやったの?」

 「駄目?」

 「駄目ってことないけど、かなり変わってるね」

 「変わってねえよ」

 「変わってるよ。だいたいどっちかでしょ。なんで野球、中学でやめたの?」  

 暗闇の向こうのさざ波の音に、直樹君はしばらく耳を澄ませた。

 「おやじがスパルタでさ」

 「お、星一徹か」

 「古いよ。でもまあそんな感じかな。毎日四キロ走らされるんだぜ。それからキャッチボールでしょ、ノックでしょ、素振りでしょ」

 「楽しくなかったってこと?」

 「全然、楽しくなかった。ていうか、最初は楽しかったんだけど、おやじのせいで楽しくないものにさせられた。おれ別に、打つのも投げるのも嫌いじゃないんだよ。けど、中二に上がる前には大っ嫌いになってたからね」

 「それでやめたんだ」

 「中学校を卒業するとき、高校に入ったらサッカーしたいって言ったら、おやじにぶん殴られた」

 「え、ぶん殴ったの? まじで?」

 「まじで」

 紗季さんが少しだけ自分の方ににじり寄ったのを、直樹君は感じ取った。

 「痛かった?」

 「まあ、ね」

 「お父さん、憎んだ?」

 暗闇の先の見えない水平線のあたりを、直樹君はじっと睨んだ。

 「許さないね」

 「許さないんだ。今も?」

 「一生。あいつのこと、絶対許さない」

 「わ、恐い。ちょっと恐いけど、でもなんか気持ちわかる。で、で? 野球はどうしたの?」

 「どうしたもこうしたも、高校に入ったらサッカー部に入ったよ」

 「お、初志貫徹か。すごいじゃん。お父さん、何も言わなかった?」

 「何も言わせねえよ」直樹君は風が前髪を吹き上げるのを意識しながら、紗季さんの方に顔を向けた。「おれの人生だろ?」

 紗季さんの手が、直樹君の腕に触れた。

 「そっか・・・少し風が出てきたね」

 「なあ、もし、もしだよ・・・ここでお前にキスしたら────キスしたら、他の連中に見つかるかな」

 「わかんない。暗がりだしね。見つかっても構わないよ」

 

 二人は紗季さんのアパートに三か月同棲して、月三回のペースで喧嘩をした。最後の喧嘩で直樹君はバイクのヘルメットを思い切り紗季さんに投げつけ、台所の床に彼女を転倒させた。喧嘩の原因は、紗季さんが同じサークルの男の先輩と飲みに行ったことにあった。

 直樹君は嫉妬深かった。自分の恋人が他の男と一緒に歩いているのを見るだけでも、我慢がならなかった。なんと嫉妬深い人間なのだろうと自分でも驚くほどであった。紗季さんを完全に所有したいという欲求が、父親正樹さんの、息子である自分を完全にコントロールしたいという心情と、さして変わらないことに薄々気づいていた。サークル内でも、かつてのように自然体のおちゃらけた自分でいられなくなり、その葛藤にも苦しんだ。

 フルフェイスのヘルメットは紗季さんの腹部に当たり、彼女は悲鳴を上げて床に倒れた。台所では、彼女が自分のためにビーフシチューを煮込んでくれていたところであった。寒い晩で、バイト先から帰ったばかりの直樹君の肩にはまだ溶けきれない雪があった。自分が取り返しのつかないことをしでかしたことを、彼は、コンロにかかった鍋から上がる湯気を見ながらぼんやり認識した。

 彼は鍋の火を止め、それから倒れた紗季さんの上に屈みこんだ。彼女は腹を抱え、苦痛に呻いていた。大丈夫か、と恐る恐る声をかけた直樹君に対し、彼女は涙に濡れた顔を向けた。その表情は憎しみに満ちていた。

 腹部を手で押さえながら、紗季さんはよろよろと上体を起こした。直樹君のためらいがちに差し伸べた手を邪険に押しのけ、彼女はテーブルにつかまって立ち上がった。

 「出てって」

 直樹君はあわてていくつかの謝罪や言い訳の言葉を口走った。思わずかーっときてしまったとか、本当に申し訳なく思っているとか。井上先輩(紗季さんが一緒に飲んだ相手)が彼女のことを密かに狙っているという確かな情報を得ている、とか。昔野球をやっていたせいで、ものを投げつけてしまう悪い癖がある、とまで言った。

 「出てって」

 関係回復の望みを残酷に断ち切るこの言葉で、直樹君は逆に腹立たしくなった。顔を真っ赤に染め、彼女が井上先輩と飲んだことをなじり始めた。だがサークルの事務的な仕事で井上先輩からいろいろな指導を仰いでおり、その話ついでに帰り際に少しだけ飲んだだけだと説明されると、直樹君としてもそれ以上追及するすべがなかった。それでも、男と二人きりで飲むのは恋人に対する裏切り行為だ、というようなことをまくし立てると、紗季さんの怒りと涙でぎらぎらした顔に、嘲笑が浮かんだ。こうなると、彼女が徹底的にこちらをやりこめる論理を手に入れたことを、直樹君は経験上痛いほど知っていた。

 「何言ってるの」彼女の声は震えていた。「いったい何言ってるのよ。裏切りって、何様? あなたほんとに口だけなのね。勝手に裏切りだとか言って、きちんと話も聞かずに暴力を振るうなんて、あなたの嫌ってるあなたのお父さんと一緒じゃない。そうでしょ? あなたのお父さんが理由も聞かずにあなたを殴ったことと一緒じゃない。いつもあなたそう言ってたでしょ? 今でも許せないんでしょ? じゃああたしも一緒よ。出てって。すぐにここから出てって。自分の荷物を全部まとめて、永遠にここから出てって。そして二度とここに現れないで。サークルで会っても口を利かないで。あんたわかってる? 本気であたしにメットを投げつけたのよ。本気よ? 信じられない。獣以下よ。あんた獣以下。言い訳言っても駄目。あんたがお父さんを許さないように、あたしも、死ぬまであんたを許さないから」

 

★      ★    ★

 

 それからさらに五年後の春、直樹君の父親である細田正樹さんがすい臓がんで亡くなった。享年56歳であった。都内の証券会社に勤めていた彼は、臨終の際に間に合わなかった。自宅での通夜が終わり、親族だけ残った場で酒をしこたま飲まされたあと、彼は千鳥足になって階段を上り、自分の部屋の襖を閉め、電気もつけないまま畳の上に座り込んだ。

 しばらく暗がりの中にそうやってじっとしていたが、やがて嗚咽が始まった。彼は泣いた。一度泣き始めると、もうどうしようも抑制が利かなくなって泣き崩れた。ついに永久に父親に復讐することが叶わなくなったことを頭の隅に思いながら、あの日、頬桁を殴られたときのように、彼は畳の上で背中を丸め、激しく泣いた。

 

(おわり)

 

 

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合宿

2017年03月27日 | essay

 

 合宿、というのは実に蠱惑的(こわくてき)な響きを持つ言葉である。年齢を重ねるごとにその言葉の持つ若々しさが目にまぶしくなる。理由は単純で、歳を取ると合宿する機会がなくなるからである。合宿とはもちろん、仲間と共に日暮れまでへとへとになって球を追いかけたり、大浴槽ではしゃいだり、夜更けに枕投げをして叱られたりする、あれである。入口が禁欲的で、ゴールが開放的という、何とも理想的な上昇曲線を描いた一大イベントである。そういう体験への郷愁を、大人になっても大人になれない小僧たちは、心のどこかに諦めきれないで抱えている。だから人生の半ばを過ぎても、合宿という言葉を耳にするだけで、まるで、幼い頃何度も使った補虫網を何十年かぶりに再び手にし、裾をたくしあげて森に向かうような、わくわくどきどきとした高揚感が募るのである。

 ということで、人生の半ばをとうに過ぎたスキー仲間三人は、自分たちのことをスキー部と称してはばからず、年に一度、互いの仕事の都合を何とかやりくりして、一泊限りの「スキー合宿」を敢行するのである。

 先日、そんなスキー合宿に行ってきた。日程としてはただ滑っては飲み、飲んでは滑り、宿に帰っても飲むという、切磋琢磨とは程遠く、人生の半ば過ぎの輩にはいたって相応しいものであった。

 来年もまたやるらしい。「合宿」という看板だけが多少世間体をはばかられるが、まあ、それも降ろさないでやるのだろう。

 

 

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短編 『口紅』

2017年03月06日 | 短編

 

 加賀晶子さんは生来無口な人である。どれだけ無口かと言えば、彼女が事務をしていた私立高校の職員による忘年会で、最初に口にした「お茶でいいです」という返答と、最後に答えた「いえ、帰ります」しか、その場にいた誰もが耳にしなかったというくらい無口である。二次会でそのことが話題になった。その日、一次会は二時間続き、酔っぱらった英語教師がチロリアンダンスを披露し、酒癖の悪い国語教師が教頭に絡んでみんなに押し戻され、女性の職員たちは最近の保護者の質の低下に対する不満と、市役所の近くに新しくできたケーキ屋の話で盛り上がった。しかしその間ずっと、加賀晶子さんはどの話の輪にも加わらず、自分の席でチンジャオロースをつついていたらしい。

 「暗い。結構好みの顔なんだけど、暗すぎる」というのが、英語教師が下した評価である。

 「そりゃあの人、仕事は確かにできるけどね」と、もう一人の事務員である孝子さんはボールペンを指先に挟んで振りながら、嘆息して言った。「でもさ、いちんち黙ーって誰とも話ししなかったら、そりゃ仕事もはかどるでしょ」

 どうして彼女がそんなにも非社交的な人間になったかについては、おそらく彼女の祖母の友人であり家族同様の付き合いをしている「松っちゃん」の分析が秀逸であろう。

 「あの家庭がみんな陰気だからね。ああいうのって家庭的影響が大きいから。体が弱かったのもあるかな。生まれたときからそう。あたしあの子が生まれるとき、ずっと立ち会ってたんだけどさ、お腹ン中から出てきたときも、なんで生まれてきたんだって顔できょとんとして、泣きもしないのよ。なんか、これから生きてやるぞっていう気迫みたいなのが全然伝わってこないの。生まれたばかりってのによ。あのー、もしできればお母さんのお腹ン中に帰っていいですか、て感じ。は!は! それと、あたしが思うに、やっぱ名前だね。名前。おんなじ字を書いてもさ、アキコって読ませることもあるでしょ。それだったらちょっとは明るい性格になったんだけど。ショウコじゃ、いくら何でも地味よねえ」

 加賀晶子さんは地元の別の公立高校を出てすぐ、この高校の事務員を十年以上勤め、三十代に足が掛かってもいまだ独身である。浮いた噂も見事なまでにない。そもそも、彼女は化粧っ気がないことで有名である。初出勤から三日目の朝、校長から命を受けた孝子さんがさりげなく彼女を別室に呼び、社会人のたしなみとしての最低限の化粧をやんわりと教え諭したくらいである。

 「ね、わかるよね。別にどうってことないことだけどさ、まあ、高校生と区別がつくぐらいにはしとかないとね」

 翌日から晶子さんは言いつけを守り、確かに顔を白く塗ってきた。が、それにより、ただただ「幽霊度が増した」というのが、女性職員たちの一致した見解であった。

 彼女は、幸せも、ときめきも欲していないように周囲には思われた。ところが三十二歳の春、突如として彼女は恋をした。

 相手は高校に出入りしていたテキスト販売を専門とする業者で、四十代半ばでバツイチの男である。いつも明るく冗談を振りまきながら現れる彼が、どうして無口で陰気な彼女に惹かれるのか不思議であった。より一層不思議だったのは、それまで男も女もポストイットの付箋紙くらいにしか感じていなかった晶子さんが、その男にだけは隠しきれない高揚感を見せたことである。テキストの見本を段ボール箱一杯に詰め込んで彼が職員室に現れるたび、晶子さんは慌てて立ち上がり、用もないのにコピー機のところに駆けつけたり、他人の机の書類を肘に当てて落としたり、ゴミ箱を蹴飛ばして平謝りしたりした。また男の方も、そういう晶子さんを、伝票作業の終わる間じっと見つめていた。そして、彼女がほとんど何も受け答えしないのを承知していながら、毎朝自分のアパートのベランダに来る猫は「おはよう」と鳴くのだ、といったくだらない話を聞かせたりした。

 二人が互いに惹かれあっているのは、誰も、どちら側にもはっきり確かめたことがないのに、職員室内の周知の事実となった。

 「加賀さんはいい人ですからね」富堅康則校長はその話題になると、嬉しそうに節太い手を揉みしだいて答えるのだった。「ああいういい人には、いつか必ず幸せが訪れると、そう思ってましたよ。ええ。いろいろ言う人はいましたよ。でもあの人だって、感情がないわけじゃない。悲しみも喜びも知っている。それが人間です。加賀さんも、つまるところ、一人の人間だったということですよ」

 事務員の孝子さんはボールペンを唇に当て、神妙につぶやいた。「こうなったら、せめて化粧の仕方を覚えなきゃね」

 英語教師は、酔ってもいないのにチロリアンダンスを踊った。

 大した進学校でもなく全国的に名が知られているわけでもないその私立高校の職員室を、連日熱狂させた恋の行方は、始まりと同様、唐突に終わった。

 小雨混じりの風に若葉が揺さぶられる朝、一カ月前に時を逆戻りさせたかのような暗い顔で出勤してきた晶子さんに、万事につけ他人事に敏感な孝子さんはすぐさま異変を感じとった。翌日の昼前に現れた例の卸会社の社員が、禿げ頭に眼鏡という、まったく違う人物に入れ替わっていたことで、それは決定的となった。教師の一人が禿げ頭に、前任者はどうなったのか問い質したところ、都合により担当地域が変わったとの由。万事につけ探偵もどきの野次馬根性を正義感のように胸に抱く孝子さんが、職員一同の無言の期待を背に受け、昼休みの時間に晶子さんをこんこんと問い詰めたところ、三十分もの粘り強い誘導尋問の挙句、彼に電話でデートに誘われたこと、晶子さんがそれを断ったこと、その理由が、相手が肉体関係を迫ったからということだけが、事実として判明した。最後の一つは、孝子さんの強引な問い質し方に多少問題があり、(「もしかしてあんた、彼に求められたんじゃない? 体をさ。ねえ、そんなことを臭わせるような発言、彼がしたんじゃない? 別に構わないと思うけどさ、それくらい。でもそうでしょ? え? はっきり言いなさいよ。そうじゃないの? 違うの?」)よって、まったくの事実とするには疑問が残るところではある。

 いずれにせよ、祭りは終わった。日常が戻り、職員室の面々は、晶子さんに対する興味を以前と同様失った。彼女には女性器がない、という悪質な噂が一時立ったが、さすがに悪質過ぎてすぐに立ち消えになった。加賀晶子さんは相変わらず青白い薄化粧をして、たとえその化粧を取り去ってもやっぱり青白いだろうと思われるような陰気な表情で、電卓を叩き続けている。

 だが、誰も知らない事実であるが、晶子さんは赤い口紅を密かに自宅の机の引き出しに仕舞っているのであった。それは目もくらむような鮮やかな薔薇色であり、高校二年の夏、親にも知られることなく密かに購入したものである。いつかそれをつける日が来ることを漠然と願いながら、彼女は十年余りを過ごしてきた。その色が自分によく似合い、それを一筋口元に引くだけで、周りをざわつかせるに十分なほど華やかな美人に自分が変貌することを、彼女は承知していた。何度か鏡の前で試してみたから確かである。ただ、晶子さんは自分の性格に丸で自信がなかった。自分がそばにいることで男の人を楽しませる存在になりえるとは、到底思えなかった。無目的に口紅をつけ、男を呼んでいるように思われたくもなかった。ただ、幸せは欲しかった。それで、自分に対しとても理解力のある、魅力的な男性が現れるのをずっと待った。

 テキスト販売の業者の男は、自分にない明るさを持ち、なおかつ自分の暗さを否定も毛嫌いもせず、親しげに話しかけてくれることで、かつてない好感を彼女に抱かせた。結構年上であるがそれなりに男前であり、バツイチと聞いても、むしろ相手にもペナルティがある方がペナルティだらけの自分としては付き合いやすいと思ったくらいである。薔薇色の口紅もついに出番が来た気がした。しかし晶子さんは慎重であった。先走って口紅を塗り、その上で捨てられ、傷つけられるのは耐えがたかった。晶子さんは内に秘めたプライドの高い人でもあった。男がどれほどの人間かを見極めるまでは、あえて口紅を引かずに待とうと決意した。口紅を引かなければ自分を一人前の女として認めてもらえないのも何だか癪(しゃく)であった。大事な恋のために口紅をとっておきながら、恋のために口紅を利用することをためらう自分がいた。相矛盾する気持ちにさいなまれながら、晶子さんは彼が告白してくるのをどきどきして待った。

 しかし、せがまれて教えた携帯電話の番号に彼が深夜になって電話してきて、「君は人間付き合いに障害があるようだけど、自分はいろいろ知っているからいろいろ楽しいことを教えてあげるよ」という口調でデートを申し込んできたとき、彼女の熱はあっさりと冷めてしまった。形勢が一変したことを悟った彼が、何とかなだめすかそうと言葉を尽くすのに対し、「嫌です」と人生初と思われるほどはっきりと断りの言葉を発すると、彼女は電話を切った。

 携帯を机の上においてから、彼女は小さな卓上鏡を五分間ほど見つめた。それから机の端の財布に手を伸ばし、中から三枚ほどのレシートを取り出すと、電卓を叩き、家計簿にその日の出費を記載した。いつもの日課である。家計簿を引き出しに仕舞う際、メタリックの光沢を放つ口紅が目に留まったが、最後まで使わなくてよかったと彼女は心から思った。

 

 

 彼女は今日も私立高校の職員室で、青白い顔をして仕事をこなしている。いつの日か、彼女の唇に薔薇色の口紅を引かせる男が現れるかも知れない。しかしその日がついに来ないかも知れないと、彼女もそろそろ感じ始めている。

 

 (おわり)

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『どうして、』

2017年02月24日 | 断片

誰からも要請されていないのに、先日書いた曲に三番をつけた。おまけに少し手直しした。なんだか自分一人でしみじみと納得している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

               『どうして、』

〔一番〕

車窓(まど)を流れる雪を見ながら

                                          あなたを奪った街に来た

城のお堀に浮かぶ白鳥(しらとり)

                                          あなたはどうしてここに来た?

 

早い黄昏(たそがれ)

                    冷たいネオン

                                           繩手通りをぶらつきながら

思い出すのは

                  はじめての夜の長いキス

                                            あなたの店のドアを引く

 

 

〔二番〕

マイルス・ディビスに耳を傾け

                                      あなたの作った酒を飲み

はずむ会話と 寡黙な瞳

                                      どうして今さら会いに来た?

 

「幸せそうね」

                 「ええ。ぼちぼちと」

                                           二杯目を飲んで席を立ち

思い出すのは

                 はじめての夜の長いキス

                                           あなたの店に雪が舞う

 

La La La・・・・・

                       La La La・・・・・

 

〔三番〕

ベッドにワインの染みを残して

                 語り明かした夢の果て 

あの頃二人でよく聴いたのは

                 "Don't know why I didn't come."

 

最終の『あずさ』 

       濡れた手袋

              車窓(まど)に頭を押しつけながら

思い出すのは

         初めての夜の長いキス

                    あなたの街に雪が舞う

 

思い出すのは

        初めての夜の長いキス

                    あなたの街に雪が舞う   

                                           

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是々日々 (6) ~鍵~

2017年02月20日 | essay

   また鍵を失くした。また、というのはつまり、以前も何回か失くしたことがあるからである。何回か、では済まないかもしれない。正確に数えたくもない。一番大きな鍵の失くし物は、数年前の車の鍵だった。これはキャンプ場でいざ帰ろうとするときに見つからなかったものであり、結局最後まで出てこなくて大変な思いをした。今回は朝出勤しようとしたら、職場の鍵やら家の鍵やらじゃらじゃらと四五個ぶら下がった革製のホルダーごと見当たらない。二、三十分くらいあちこち探して途方に暮れたところで、車のドアポケットから出てきた。

   どうしてこうも鍵を失くすのだろうかと、考え込まざるを得ない。友人に話すと、鍵をしまう場所を決めておけと言う。鍵をしまう場所を忘れたらどうするのだと聞くと、だから忘れない場所にしまうんだと言う。鍵をしまう場所を決めたことすら忘れたらどうするんだと再度聞き返したかったが、さすがに馬鹿にされそうなので止めておいた。

   鍵をしまう場所つくりはひとまず保留して、そもそもなぜ忘れるような場所に鍵を置くかという問題を突き詰めてみると、はたと気が付いた。日常的な行動範囲の中で、ほとんど無意識に鍵を手放す場面があまりに多いのだ。そもそも私は、考え事をしていたり、妄想にふけっていたりと、呆然としている時間が私生活の中に挿入されすぎる。まるでコマーシャルばかり挿入する民放放送である。はっと気が付けば以前見た映画の場面を思い出していたりする。夢見る少年で済んでいたうちはいいが、車を運転する社会人としては大変危険である。

   しかし自己弁護をするなら、野生の獣たちはおそらく空想にふけらない。五感を常に鋭くして現在の状況に意識を集中させておかなければ、命が危うくなるからである。 とするなら、空想世界に遊べるのは、大脳新皮質が発達し、記憶と自由と安全を得た人間独自の贅沢なのではないか。ぼーっとする時間がある生活のほうが、その余裕のない生活よりも精神的に豊かなのではないか。

   そんなことばかり考えていたら、人生の大事な鍵まで失いそうなので、この辺でロックアウト。 

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松本哀歌(エレジー)?

2017年02月18日 | うた

   とある知人と酒飲み話に戯れているときに、彼からふと、歌を作らないかと誘いかけられた。私が詞を書き、ピアノの出来る彼の奥さんが曲をつけ、歌うのは本人らしい。ずいぶん都合のいい話である。勝手に役割分担を決められたので、とりあえず以下の歌詞を書いてみた。もちろん作詞の経験もなければ、その方法を学んだこともない。そもそも楽曲を聴くとき歌詞を気にする方ではない。ポップスを意識したが、結果は演歌みたいな仕上がりになった。三番作ろうと思ったが、馬鹿馬鹿しくなって二番で止めた。これに知人の奥さんが曲をつけてくれるとは、到底思えない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                 

           

〔一番〕

車窓(まど)を流れる雪を見ながら

                                          あなたを奪った街に来た

城のお堀に浮かぶ白鳥(しらとり)

                                          あなたはどうしてここに来た?

 

早い黄昏(たそがれ)

                         冷たいネオン

                                          繩手通りをぶらつきながら

思い出すのは

                  はじめての夜の長いキス

                                            あなたの店のドアを引く

 

 

〔二番〕

マイルス・ディビスに耳を傾け

                                      あなたの作った酒を飲み

はずむ会話と 寡黙な瞳

                                      どうして今さら会いに来た?

「幸せそうね」

                 「ええ。ぼちぼちと」

                                           二杯目を飲んで席を立ち

思い出すのは

                 はじめての夜の長いキス

                                           あなたの店のドアを押す

思い出すのは

                はじめての夜のことばかり

                                             あなたの店に雪が舞う

La La La・・・・・

                     La La La・・・・・

 思い出すのは

                はじめての夜の長いキス

                                             あなたの街に雪が舞う

                                       

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いやはや、一年で一番仕事が忙しい時期だというのに、私はいったい何をやっているのだろう。

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掛け軸

2017年02月11日 | essay

   南天に雪。雪は湿り気を帯びて光を透かせ、融けだす寸前である。本来冬の使者でありながら、春の到来を告げる羽目になっている。もう少し寒気が緩めば、南天の蓄え持つ強靭な弾性力が働いて、皆振り落とされるかもしれない。だが今しばらくは、細い枝をたわませて赤い実を空の来訪者から隠し続けるだろう。

   その空には、一羽の雲雀(ひばり)。べた雪の努力むなしく、真紅の実を目ざとく見つけ、翼を広げて宙に留まっている。ついばもうと狙っているのか、ただその実の鮮やかさに目を奪われたのか。それとも、気まぐれに春を告げたくて舞っているのか。

  題をつけるなら『春来ノ図』といったところか。

   雪を被る南天と雲雀との間には、1間(けん)ほどの空白がある。その空白に来るべき季節を巡る楽しい予感が溢れんばかりに詰め込まれている。

   そのような掛け軸に、気まぐれに覗いた骨董商でばったり出逢った。表装に傷みがあるので、財布に無理を言えば買えない値段ではない。店を出て、ポケットに両手を突っ込み、心中迷いながら街を歩く。頬を切る風はいまだ冷たい。しかし日差しはほんわかと温かい。

   買うべきか、買わざるべきか。まあ普通は買わないだろう。が、ひょっと買っても面白かろうと思う。

  その迷いそのものが、あるいは、季節の変わり目を暗示しているのか。

  ニュースによれば、全国的には雪。春まだ遠し。

 

 

 

 

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是々日々(5)

2017年02月06日 | essay

  曇天から思い出したように雨。いっとき雪に変わったが、昼過ぎにまた小雨に戻った。

  古いアパートの階段をやっとの思いで降りてきた老人が、杖をつきながら、よたよたと道を行く。杖とがに股の足が二本、計三本でなんとか体を支えているが、三本がバラバラに動くので、一見どこに向かっているんだかわからない。だが一応、体は近所の惣菜屋を目指している。いつもの時間に、いつもの場所でわずかな買い物を済ませ、またよたよたと戻り、やっとの思いで階段を上って消えていく。これが彼の一日の仕事である。身内はいない。話し相手もない。ときどき市の職員が声を掛けに来る。デイサービスがやってくることもある。デイサービスにはやたら声のでかい、なんだかとても親しげに話しかける女性がいる。老人はぼそぼそと彼女に受け答えする。往診医みたいな人がやってくることもある。

  雨はいつの間にか止んだ。夕焼けが通りに淡い影をつけた。

  ストーブの前で、こつ、こつ、という老人の杖の音に耳を澄ます。

  生きることは、老いることか。老いることのみが、生きることか。どう生きるかという問題と、どう老いるかという問題は、同じなのか、否か。違うとすれば、どちらがより難しいのか。

  人は、何を繰り返して生き、そして老いていくのか。

  そんなことを考えた。

  ストーブが灯油を呑み込む音。

 

 

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是々日々(4)

2017年02月03日 | essay

  人生の選択肢があまりに多くて迷う人がいる。

 人生の選択肢があまりに少なくて迷う人もいる。

 あとで悔やむのはどちらも同じである。

 前者は自分を呪い、

 後者は運命を呪う。

 だが自分も運命もつきつめたらこれまた同じ。

 つまり迷わない人は、その都度その都度、

 自分も運命も受け入れる人ということになろう。

 腰の張りをほぐしながら

 窓に映る夕焼けを眺め

 そんなことを考えた。

 

 

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