た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

上京

2018年01月22日 | essay

 東京へ行く。友人二人に会うためである。

 二十代の終わりから三十代にかけてよく遊んだ仲間である。それぞれ仕事をしながら、私と同じだけ歳を取っている。同年なので、彼らに会うと、今の自分の歳の取り方を再確認できるような気がする。日々の雑務に追われ、体調も崩しがちな今の自分に対し、こういう生き方でいいのか、それを確認したくて会いに行ったのかも知れない。ただただ、会いたかっただけかも知れない。

 大塚に住むM氏が彼の恋人の営む居酒屋を昼間だけ貸し切る形で準備してくれていたので、新宿まで迎えに来てくれたN氏と大塚に移動し、駅前の公園でスターバックスのコーヒーを飲みながら、M氏の登場をしばし待つ。さして広くもないがすっきりと何もない公園に、太陽の日が柔らかく降り注ぐ。ハトや人が憩う。公園の向こうを路面電車がゆっくりと通り過ぎる。東京に路面電車が走っていることを、この歳になってようやく知った。線路の向こうの商店街は、なかなか賑やかで楽しそうである。

 N氏は心の病気と闘いながら、半年余り休職し、去年の春から職場に復帰していた。

 とりとめのないことを彼と語り合う。彼が休職中に図書館で読んだ本の内容が中心である。心理学の話。遺伝の話。文明論の話。

 やがてM氏が現れ、居酒屋に場所を移す。

 彼の恋人が用意してくれた想定外のご馳走と美酒に酔いしれながら、さらに取りとめもないことを語り合う。恋愛論。性格論。生き方。議論は酒にあおられ加熱する。店主が女性の立場から話に加わり、それに男たちが三様の受け答えをしているうちに、お互いの違いと、似ている部分が浮き彫りになっていることに気付く。N氏がそれが面白いと笑う。誰が正しいわけでもない。ただ、そうやってみんなそれぞれにこの歳まで生きてきた。そこには、正解もなければ、決して、誰にも、不正解はない。

 帰りの『あずさ』に乗ると、車窓に映るのはすでに夜景であった。

 明日からまた、頑張ろうと思う。まだまだもがき、苦しむだろうが、続けることを続けていこう。

 不正解はないのだ。

 

 

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喉の話題

2018年01月12日 | 短編

  年明け早々喉を潰してしまった。例年にない過密スケジュールと年齢と、何より日頃の鍛練不足のせいであろう。声は多彩な表情を見せながら急速に掠れていき、ついには『ゴッド・ファーザー』のドン・コルリオーネ役のマーロン・ブランドのようになった。と、職場で子どもたちに話したが、彼らが『ゴット・ファーザー』を知るべくもなく、反応は薄かった。掠れ声はやがて果てしない咳に変わった。ことに夜、床に入ると激しい咳の一斉射撃に襲われ、『トムとジェリー』のようにぴょんぴょん飛び跳ねて眠るどころではなくなった。

 さすがに音を上げて病院に行き、抗生物質をもらって帰った。三日飲めば六日間効くという。三日飲まないと意味はなく、ということは三日経つまではそのままの状態で待っていろということなのか。ジェリーにいたずらされたトムのように毛布ごと跳びあがっている状態を三日間、我慢しなければならないのか。私はあたかも絶体絶命の窮地に追い込まれた戦国武将が三日後に到着するという援軍だけを頼みに満身創痍で前を向く、そんな悲壮感を漂わせながら残る日数をしのいだ。どうやってしのいだか、ほとんど記憶にないほどである。しかし現代の科学医療の進歩はめざましく、その抗生物質も、三回飲んだらちゃんと効力を発揮した。まさに武田軍の本隊が駆け付けたかのような勢いで悪い奴らを駆逐し、嘘のように咳が出なくなった。まったく出なくなったわけではない。

 武田軍は勢いあまり過ぎたのか、攻撃相手が案外貧弱で手持無沙汰になったのか、私の足の至る所に発疹を作った。副作用というやつであろう。大したことはないが、痒い。病院に問い合わせると、そういうときは薬を飲むのを見合わせるといいが、もう三日分飲んでしまったので仕方ないという。武田の本隊を呼ばなくても、真田軍くらいで事足りたのかも知れない。しかしせっかくならめちゃくちゃにやっつけて欲しかったので、戦勝後の多少の乱暴狼藉は大目に見たい。発疹も午後になったら退けてきた。

 さて今後の課題となる日々の鍛錬についてだが、ストレッチくらいなものでいいのではないかと、はや甘い考えを起こしている。喉元過ぎれば何とやら、である。喉元のことだけに。 

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読み切り短編 『縄文の男』

2017年12月30日 | 短編

 

 洞窟の中は、かび臭く、ひんやりして湿っぽかった。その方が土を捏ねるのには適しているのだ。入口から届く光はわずかだが、私にはそれで十分であった。腰と肩に力を入れ、何度も、何度も土を捏ね回す。キラキラと光る砂を一握り混ぜる。また捏ね回す。汗が滴り落ちる。腕が流木のように硬くなる。星の数だけ捏ね回すと、表面はモリアオガエルの卵のようにきめ細やかでつやつやとしてきた。一塊になった土を手のひらで柔らかく包む。女を愛撫するように、ゆっくりと指を動かす。そう。愛撫するようにして、女を造形するのだ。背中から、腰へ。腰が大事だ。土くれは少しずつ、あの女の形をとっていく。

 あの女。子供を十人も二十人も産めそうな、その上でなお、男からの愛の注入を喜びに悶えながら受け入れることのできそうな、豊饒な腰つき! あの悪魔のような腰つきに、今まで何人の男が狂わされてきたことか!

 親指を強く押し込んで背中を形作り、そこからふっくらと腰を仕上げていく。像を立たせたいから、脚は太く。ふくらはぎの途中で終わりだ。そこから先は必要ない。胸は? 胸は小さく。あの女はまだ若かった。赤い乳房が可愛かった。顔は・・・湖に落ちる夕焼けのように美しかった。無理だ。あの美しさを再現させることことなんてできやしない。だから顔はごく簡素に。竹ベラで細く目と口を描いて、それで終わりだ。涼しげな目元がちょっとだけあの女に似ていなくはないか。私は何をしようとしているのか。こんなものを作ることで何を叶えようとしているのか。あの女か。あの女を復活させたいのか。復活させてどうするのだ。あの女が生きている間に叶わなかった望み、つまりあの女を私の欲しいがままにしたいのか。こんな土くれの塊で?

 それとも、もう一度この手で、あの女を殺したいのか。

 何度でも、何度でも。

 

 

 外界は朝になった。

 私は土壁に凭れたまま眠っていたらしい。熊の吠えるような濁声で起こされた。

 「いったいいつまで眠っているんだい! このでくの坊! みんな狩りにでかけちゃったじゃないか!」

 目を開けて見ると、洞窟の入り口に母親が立っている。ああ、と私は嘆息する。男を三人合わせても足らないような女。いやらしさと醜さとふてぶてしさと、その他ありとあらゆる俗悪なものを詰め込んで膨らんだような女。

 「一晩戻ってこないと思ったら、またこんなところで変なものを作ってたのかい! しょうがないね、あんたは! で何だいこりゃ?」

 私は必死で手を差し伸べた。

 「母さん、お願いだ、頼むからそれを触らないで。昨日作ったからまだ乾いてないんだ。頼むから、頼むからまだ触らないで」

 「しょうがない子だね、ほんとに、あんたは。え? こんなもの作って何になるってんだい。イノシシが一頭よけいに獲れるのかい? ドングリを籠一杯分よけいに拾えるのかい? 馬鹿だね、あんたは! あんたみたいな子を産んだ私がよっぽど馬鹿だったよ!」

 「母さん、お願いだ、すぐその手を離せ!」

 彼女は息子である私の制止も聞かず、その太い手に握りしめた女の像を思い切り洞窟の壁に叩きつけた。滑稽なほど小さな音を立てて、像は無残に変形し、壁にへばりついた。昨夜私がほとんど一睡もせずに仕上げた像だ。カッとなった私は立ち上がり、母親ののどもとを突き押した。よろけて驚いた表情の彼女は、渾身の張り手を私の頬に見舞い、私は堪らず倒れた。

 「いい加減におし! 産んだ母親に向かって暴力を振るうとはどういう魂胆だい! え? もう我慢できないよ。もう我慢できないよあたしは! みんなに言いつけてやる!」

 顔を真っ赤にしてまくし立てると、彼女は大地を踏み潰すように洞窟から去っていった。

 頬の痛さと、作りかけていた立像を壊された悔しさとで、涙が溢れ出た。私はよろよろと立ちがり、壁にへばりついた土の塊を剥がし取った。塊にめり込んだ小石や汚れを摘まみ取り、板の上に置く。

 林間で猩々たちが威嚇し合うのが遠く聞こえる。

 私は再び土を捏ね始めた。

 自分でもわからない。だがどうしても、あの女を作らなければならないのだ。

 

 

 耳障りな笑い声に振り返ったら、洞窟の入り口から双子の妹たちが覗き込んでいた。

 一人が腰に手を当て、意地悪い声を出して言った。

 「何してるの? 狩りも行かないで。みんな、とうとう気が触れたって噂してるよ」

 「うるさい」

 「あたしも聞いたわ。いろーんな、いろんな噂」もう一人が身をくねらせながら近寄ってくると、私の耳元に顔を近づけ、いっそう意地悪い声で囁いた。「マヤさんを殺したのは兄さんだってね」

 全身から汗が噴き出た。私は怒鳴り声を上げた。

 「馬鹿なことを言うな! 俺が殺すわけないだろう。誰がそんなこと言ったんだ。おい、誰がそんなこと言った!」

 「みんなよ」「みんなだもんね」「泉のほとりで見つかった血の付いた石斧、あれ兄さんのものだってウダイたちは言ってるわ」「兄さん、ほんとにマヤさんを殺したの?」「あんなに惚れてたのに!」

 「出ていけ!」

 双子の妹たちは、互いに腕を絡ませて佇み、にやにやと私を見つめた。

 「あたしたちが慰めてあげてもいいのよ」「そうよ、兄さん」

 足もとに転がる石を私は掴みとると、彼女たちに向かって投げつけた。

 「出ていけ!」

 彼女たちは甲高い笑い声を響かせ、跳ねるようにして洞窟を出て行った。

 

♦    ♦    ♦

 

 ついに出来た。

 十五体のマヤの塑像が、出来た。

 夕暮れ時で洞窟に入る光は弱い。森に棲む鳥や猩々たちの喧騒がひときわ高くなる。風が冷気を帯びる。

 滑らかな輪郭を誇る十五体が、何かの儀式を待つかのように厳かに沈黙している。あとは、日が十回巡るまでこれらを乾かし、それから、野辺で焼く。そうすれば、十五体のうち何体かは完全な形で焼き上がってくれるだろう。

 異様な気配がして振り返ると、洞窟の入り口に大きな人影があった。腰まで伸びた白いあごひげ。朱と紺と黄色の鮮やかな模様が描かれた貫頭衣。老いてもなお鋭い光を失わない鷹の目。

 長老のアシカバだ。

 アシカバがここに!────私は心臓の音が聞こえるほど緊張して縮こまった。

 サルスベリの杖を突きながら、彼はゆっくりと洞窟の中に踏み入った。

 十五体の像に近寄り、じっと見つめる。

 「お前が何か奇妙なものを作っていると聞いた」

 低く太く、威厳のある声。怖くて何も言い返せない。

 「これがそうか」

 「は・・・はい」

 彼は腰を屈め、顔をさらに土人形に近づけた。

 「うむ。なるほど。お前の手は不思議な力を持っているようだ。ただの土くれが、このように生命を宿すとは」

 額から滴る汗を拭うことも出来ず、私は黙ったままである。 

 「これは女だな」

 「はい」

 「死んだ女ではないか」

 短い悲鳴を上げ、私は後ずさった。

 「そんな! そんなことはございません」

 「マヤとか言った」

 「違います! 違います!」

 鋭い二つの眼光が、私を射すくめた。

 「お前がその女を殺したと言う者が、何人もおる。お前が殺したのか」

 動転した私は、洞窟の壁に背が当たるほど退いた。私は必死に否定した。

 「そんなことはございません。そんなことはございません、間違いです! 私は殺しておりません。何も知りません。あの女とは何の、何のかかわりもありません」

 「かかわりはなくとも、人は殺せる」

 アシカバは杖を音高く突き、私に迫った。

 「もしお前がその女を殺したなら、掟に従い、お前は串刺しの上、焼き殺されねばならん」

 涙で顔をぼろぼろにしながら、私は首を振った。

 「私は殺しておりません。信じてください長老アシカバ。私は、何と申し上げたらいいか、何とも不思議な気持ちに突き動かされてこれらの土人形を作りました。それだけでございます。ああ、私にはわかりません。何が何だか、これは決してマヤではありません!」

 「お前が殺したな」

 「どうか! アシカバ様、どうか、せめてこれらが焼き上がるまで、どうか、それまでお待ちください!」

 長老は私から目を外し、土人形を再び見やった。

 「あれらは、焼いて、仕上がるのか」

 「はい」

 長老は沈黙した。長い沈黙であった。それから、「うむ」と唸ると、杖を突き、私に背中を向けた。

 「仕上げよ」

 「は・・・」 

 「仕上がるまで、お前の処分は待つ」

 私は床に震える額を擦りつけ、杖の音が消えるまで顔を上げることができなかった。

 

♦    ♦    ♦

 

 炎が野辺に揺らめく。

 

 

 マヤは美しく、傲慢な女だった。

 清水の湧き出る森の奥で、私と彼女は口論になった。

 マヤは緋色の刺繍を施した貫頭衣を纏い、長い髪を後ろで束ね、美しく上気していた。

 大事な用があると言って山奥まで連れ込んだ私に、彼女は腹を立てていた。私に対する思いなど朝露一滴分もないことはわかっていたが、私は懸命に、彼女を愛していることを告げた。彼女は私を嘲笑った。私はかつて、彼女が自分の気を引くような真似をしたことを責めた。それに対する彼女の返事は、確かに私をからかってみたこともあったが、それは単なる気まぐれであり、そんな気まぐれを起こしたのも、ウダイがその頃自分に冷たかったからだと説明した。私はカッとなった。では私を心から愛したことは一度もないのかと尋ねると、あんたみたいな、干からびたイモリみたいな男を愛せるわけないでしょ、と彼女は吐き捨てるように答えた。私は力づくで彼女を抱き寄せ、そのふくよかな臀部を愛撫しようとした。彼女は私の頬を二、三度手のひらで叩いて、私を突き倒した。そして、二度とこんな真似をすると、ウダイに言いつけてやると脅した。

 私は泉に手を浸し、水の滴る石斧を取り出した。聖なる泉に三日三晩浸され続けた、人間の頭ほどもあるズシリと重い石斧だ。

 それを見つめるマヤの顔が初めて蒼白になった。

 

 

 炎は勢いを増す。積み上がった木切れがぱちぱちと音を立てる。

 煙のすえた臭い。

 炎の中には、十五体のあの女が眠っている。

 

 

 美しい体。あの美しい背中から臀部にかけた曲線を、この手で作りたい、と願った。あの女でなくてもよかったのかも知れない。あの女を超える、完全に美しい肉体を作り、慰められたいと思った。あるいは、復讐したいと。復讐? 何に対する。美しいものに対する────それが復讐だとすれば、この不可解な衝動は、何なのか。私だけが持つものなのか。こういう衝動を持つ人間は、私の他にもいて、今後も次々と生まれいずるものなのか。なんだか、そんな気がする。人間は、つくづく愚かなものだ。だがいつまでも愚かなままでいるわけでもあるまい。ずっと歳月を経た先、今の我々よりずっと賢くなった人間が、その答えを見出すかもしれない。その頃には、こういったものを、もっともっと美しく作り出せる人間が増えているのかも知れない。

 私は、だとすれば、早く生まれ過ぎたのだ。

 

 

 周囲の森に、遠巻きにして、今火を焚いている私をじっと盗み見る目がいくつもあるのを、私は知っていた。私をなぶり殺そうと待ち望んでいる目だ。だが、そんなことはもう、どうでもいい。私はただ、火にかかる十五体のうち一体でも美しく完成してくれれば、それでいいのだ。

 聞いているのか、マヤ。

 

 私はお前を殺した。お前があまりに美しく、自分があまりにみじめなために、私は我を忘れ、石斧を振り上げた。そしてそのあと、身が裂けるほどの後悔に襲われた。

 今私は、お前をもう一度この世に在らしめようとしている。いやそれとも、弄び、打ち殺そうとしているのか。私にはわからない。自分の衝動の行きつく先がわからない。未来の人間たちにとっては、そんなことはわかりきったことなのだろうか?

 マヤ。教えてくれ。 

 美しいものを求めるこの願望は、果たして美しいのか? 

 

 日は傾いた。

 土偶は焼き上がった。

 十五体のうち三体はひび割れた。ひびが入らなくても、醜く仕上がったものも多かった。ただ一つ、はっとするほど美しい仕上がりのものがあった。瑞々しい光沢。完璧な曲線。内臓も骨も美しさも醜さも何もかも納めてなおかつ命の輝きを放つ豊満な体つき。それはまさしくマヤであり、マヤではなかった。それを何と名付けてよいか、私にはわからなかった。

 草原の周囲に潜む大勢の人間たちも、息をひそめながら、興奮してこちらを見守っているのに、私は気づいていた。そこには長老アシカバも、狂った双子の妹たちも、ウダイも、母親もいる。ほとんどみんながこの野辺に集まっているのが気配でわかった。

 奴らは、すぐにでも、私が何を作ったのか確かめようとするだろう。それを自分たちの目で確かめてから、ようやく長老の許しを得て、マヤを殺した罪で私を縛り上げ、思う存分串刺しにし、焼き殺すだろう。私はもういい。作り上げたかったものは作り上げた。死を前にして、また何という満ち足りた気持ちかと、自分でも不思議に思うほどであった。

 奴らが私の作った土偶をどうするか、それが気になるといえば気になった。忌まわしいものとして、破壊するであろうか。あるいは、これだけよく出来たのだ。長老アシカバが神々の徴をそこに認め、似たものを作るよう他の者たちに指示するかもしれない。それを祭祀の道具として利用していくかもしれない。何しろ、自分でも背筋がぞっとするほどの出来なのだ。この手が自分が作ったものとは、到底思えない。偶然か、それとも、殺された女の仕業か。

 人間は今後、こういったものを作り続けていく運命にあるのかも知れない。

 草原が疾風にそよいだ。

 長槍を持った男が数名、立ちあがった。いよいよ私を捕えるつもりだ。私は最もよく出来たその土偶を慎重に両腕に抱いた。奴らが私に手をかける前に大地に叩きつけ、打ち砕くためだ。なんだか急に、そうしようという気になったのだ。

 猩々がひときわ高く啼いた。

 最初からそうするつもりだったのだと、ようやく私は悟った。

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

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短編『縄文の男』近日公開予定!

2017年12月26日 | 断片

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AIもいいけれど

2017年12月22日 | essay

世の中これだけ技術革新が進み、自動化が普及すると、一番の贅沢は人間になってくる。

人間に挨拶してもらう。人間に応対してもらう。人間にモノを運んでもらう。人間に作ってもらう。人間に料理してもらう。人間に給仕してもらう。人間に教えてもらう。人間に叱ってもらう。人間に歌ってもらう。人間に微笑んでもらう。

やっぱり人間がサービスの基本だ、という話で先日の忘年会が盛り上がった。その説を声高に唱えた張本人が、後半酔い潰れて周りに迷惑をかけていた。

ときおりは人間に迷惑までかけてもらう。それもまた、人生のしみじみと奥深い贅沢かな。

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『国語』私論

2017年12月06日 | essay

 国語とは何なのか。

 妙な疑問であると言えるが、長年私の頭の隅を離れない疑問である。

 国語とは、もちろん、学校で教科として教えられる国語のことである。

 先日、新聞に大学入試改革の一環として、国語の新テストの試行問題が載っていた。法律や規約の文言と照らし合わせて、会話における話し手たちの判断が適正かどうかを問う内容である。資料と会話を読み取り、正確に分析し、主張の妥当性や課題を理解する能力が求められる。近年そういった資料問題を出す傾向は、大学入試のみならず高校入試まで浸透してきている。今後この風潮は拡大する一方であろう。確かにこういった問題が解ければ、将来社会に出たとき、職場で統計資料を読み解いたり、議事録を作ったり、法律問題に強くなったりと、多様な場面で効力を発揮するだろう。実践力、即戦力としての学力がつくのは間違いあるまい。

 だが、改めて思う。国語とは、何なのか。

 先述した資料と生徒たちの会話からなる問題を読んでまっさきに思うのは、面白くない、ということである。無味乾燥な役所言葉で書かれた資料はもちろん、生徒たちの会話も、誰がどれだけの推敲を重ねて作成したか知らないが、当たり障りのない模範的なやり取りで、全然面白くない。面白くないというのはつまり、日本語の魅力を感じ取ることができない。

 どんな難しいことを述べた評論でも、小説でも、それなりの学者や大家が書いたものは、読んでいて面白い。そういう類の国語の問題は、重厚な造りの文化遺産を思わせる。たとえ筆者の言っていることがちんぷんかんぷんでも、問題を丸で解けなくても、何とかこれを理解したい、という魅力を感じさせるものがそこにはある。何度も噛み締めてみて初めて感じる味わいがある。こんな日本語を自分も駆使できるようになりたい、という願望すら抱かせる。国語という教科の主目的は、何より、美しい日本語の魅力に気づかせ、興味を持たせることではなかろうか。社会的実践力には直接結びつかなくてもいい。文章によって魂を揺さぶられる、それによってより知的な深みに入りこもうという気にさせる、その動機づけが何より国語という科目の持つ本分ではなかろうか。

 その点でいくと、最近の国語の問題は、解いてしまえば二度と読み返したくない代物が多い気がしてならない。子どもたちの中には、国語の問題を解くのが、高等な日本語に触れるほとんど最初で最後の機会になる場合だってある。そんなケースを考慮すべきか否かという議論はともかく、国語の問題は、日本語の持つ奥深い知的領域を彼らに垣間見せる窓口である。それが果たして、「A君の言っていることは資料のどの部分を踏まえていないとB君は指摘しているか」といったものでいいのだろうかと、首を捻ってしまう。

 国語とは何か。明確な答えや指針が私にあるわけではない。ただ、今こそ、国民レベルでもっとその議論を活発にすべきときではなかろうか。

 少なくとも、国語が、本離れを加速させるものであってはならない。

 

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老化という進化

2017年11月28日 | essay

 

 先日、奥蓼科まで足を延ばし、温泉につかってきた。

 硫黄臭の強い白濁した鉱泉である。

 つくづく温泉好きだなあと自分で呆れる。その日は初雪が舞い山道は危険であったが、帰りにまた汗をかくとわかっていても湯船につかりたい一心で行くのだから、どうしようもない。湯煙を吸い込みながら休日を過ごすなんて、よほどジジ臭い趣味である。四十過ぎてそうなのだが、二十歳のころからそうだった。まことにどうしようもない。こういう人間はよっぽど早く老化するであろう。 

 老化と言えば、面白いessayを読んだ。

 進化の過程で老化現象が淘汰されなかったのはなぜか、という話題である。ちょっと難しい話である。自然淘汰は本来、生物にとって害となり不利益となるものを切り捨てる傾向にあるのに、生物にとってもっとも有害とも言える老化現象が、どれだけ世代交代を重ね、進化を繰り返しても維持され続けてきたのはなぜか。

 馬鹿言え、永遠の命なんてないんだから、どんな肉体もいつかは劣化し老化するのがあたりまえだろうが、と一笑に付されそうだし、私も中途までは心の中でそうつぶやきながら読み進めていたが、どうやらそう単純な話ではないらしい。年齢と共に体内から老化物質なるものが分泌されて、ある意味積極的に老化を推し進めるらしいのだ。

 生物の種類によって寿命の長短があるのも不思議と言えば不思議である。たとえば竹は百年間、無性生殖(オスメスの要らない、いわばクローン作り)を続けて増え、百年経ったある日一気に花を咲かせ、有性生殖(オスメスの要る子作り)を成し遂げ、それで死に絶えるとか。想像するに何とも壮絶な光景である。こんなのも、緻密に計算しつくされた老化であり死であるように思えてならない。

 老化には、ただ老いるという以上の意味合いがあるのか。

 essayでは、二つの学説が紹介されていた。一つは、老化物質とそれが引き起こす老化現象は、たいがい生殖活動が終わってから生じてくるものだから、否応なく次世代に受け継がれていく、という考え。もう一つは、老化しなかったら元気なじじばばばかり地上に増えて、早晩食糧難に陥るのが関の山だから、種の繁栄のためにも、老化現象は積極的に受け継がれていくのだ、という考え。筆者は、二者択一ではなく、どちらの学説も互いを補い合うものだろうよ、という曖昧なところで論を結んでいた。要は、老化は必然的でもあるが、必要でもある、と言ったところか。

 世間に目を転じれば、老化を必死に食い止めようとあらゆる産業があらゆる手をつかって金もうけをしていることに今更ながら驚かされる。アンチエイジングの膏薬。マシン。化粧。体験コース。ほら、ほら、皺が取れますよ。ほら、十歳若返りできましたよ。ええ、あなたは、もっともっと若々しく長生きできますよ。

 せっかく体内から出てきた老化物質も、人類規模の思わぬ抵抗にあってさぞかしびっくりしているだろう。

 こうして温泉につかるのも、長寿のためか。はたまた、老いを噛みしめ、楽しむためか。おいおい、お前はさすがにまだそんなことを考える歳でもなかろうと、実はもっともアンチエイジング志向かも知れない『理性』によって咎められ、白濁した湯で顔を洗い、湯船から上がった。

 

 

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読み切り短編  『いいわけ譲治君』

2017年11月11日 | 短編

 

 矢野譲治君はすぐに言い訳をする。

 子供の頃からそちらの面では大成していた。学校に持参すべきプリントを忘れたのはそのプリントが必要だと思わなかったからであり、持参するよう言われたにもかかわらず忘れたのは聞いてなかったからであり、その話を聞いてなかったのは、そんなに大事なプリントだと思わなかったからである。蛇が自分の尻尾をくわえているような論理である。言い訳にならない言い訳をして一向に平気である。「だってしかたない」のだ。テストの点が悪いのは本気を出さなかったからであり、暴投するのは手が滑ったからであり、夢がかなわないのは、その夢に魅力を感じなくなったからである。

 譲治君はすらりとした手足と甘いマスクを持ち、やたら言い訳が多い。

 現在、彼は都内の私立大学一年生である。                           

 ちなみにその大学は彼にとって第五志望か第六志望くらいのところであった。そこに落ち着いた原因は、センター試験並びに二次試験の傾向が変わったことと、年明けに風邪を引いたことと、高校教師の指導能力が不十分だったことにあるらしい。譲治君は他人にはなかなか厳しい。好きだった野球を大学でも続ける気でいたが、部活動の先輩に「ろくなのがいない」ことを理由に、一カ月で合コン中心のテニスサークルに転部した。

 譲治君はときどき腰を丸めて座りこみ、じっと手のひらを見つめてひどく暗い表情をすることがある。手のひらではスマートフォンが芸能界ニュースを流していたりするが、彼の視点はそこにはない。

 彼も自分が嫌になることがあるのである。

 

 「いい加減、逃げるのを止めろ」

 父親の雅之さんに諭されたことがある。そのとき譲治君は大学の野球部を一週間無断欠席した上で、結局退部したところであった。電話で息子が「人間的に最低な」先輩たちの行状について滔々と報告するのを黙って聞いていた雅之さんが、全部を聞き終えてから言った言葉であった。息子からの返答はなかった。

 矢野雅之さんは体中の生気を絞り出すような深いため息をついた。

 「なあ譲治。聞いてるか? 目の前のことから逃げるな。お前、ずっと逃げてばっかりじゃないか。なあ。ほんとうに、お前は根性がないな」

 受話器の向こうで息子の体が固まったのがわかった。雅之さんは受話器を握りしめて返事を待った。

 譲治君の沈んだ声が返ってきた。

 「僕はそんな強い人間じゃない。だって僕の年齢で、そんな完璧に強い人間なんていないし。誰だってそうだと思う。父さんだって、人のこと言えないと思う」

 親子の電話はそれで切れた。

 

 大学一年生の夏、彼は恋をした。

 恋は人間を変える好機である。譲治君もそう思った。

 相手は、同じテニスサークルに属する一年先輩の、大谷玲子さんであった。お稲荷さんの狐のように、つり上がり気味の目でじっと相手を見つめる癖のある、すっきりした顔立ちの女性である。よく晴れた日の午後、譲治君は、テニスコート脇の用具室にある自動販売機の前に彼女を呼び出した。

 「ねえ、用事って何」

 「いや、あの、玲子さんって、彼氏いるんすか」

 玲子さんは腰に手を当てた。「何それ。彼氏なんかいないわよ」

 「ああ、そうすか」

 「ちょっと、なんでそんなこと聞くの」

 「いや、どうかなって思って」

 「どうかなってどういうこと。はっきり言いなさいよ」

 大谷玲子という人は、包丁で大根を刻むようにどんどん物事の白黒を片付けて行かないと気が済まない質である。

 譲治君はひどく動揺した。

 「いやその、もしよかったら、今度の日曜日空いてたらでいいんですけど、映画見に行きませんか」

 「何それ。デートの誘い?」

 「いや、その、妹がジブリを観たいってしつこくて・・・妹、小学六年生なんですけど、あいつのためにチケット二枚買ってやったら、結局、あいつ用事で行けなくなって・・・」

 「え、なに? 妹さんの代役ってこと?」

 「いや、そういうわけじゃ」

 「ねえ、なんで、彼氏がいるのか訊いたわけ?」

 譲治君は首筋を撫でて天を仰いだ。彼は早くも後悔し始めていた。 

 「え、そりゃ、あれっす。だってもし彼氏がいたら、その、日曜日は彼氏さんといろいろあるに決まってるから・・・」

 腕組みをした玲子さんは、まじまじと譲治君を眺めた。

 「君っていつもそんな喋り方するの?」

 「そんな喋り方ってどんな喋り方ですか」

 「わかんない。ひと言ひと言に保険かけたみたいな喋り方」

 「そうすか」

 「怒ったの?」

 「いや、別に。あの、行きたくないならいいです」

 立ち去ろうとする男の手を、女の手が強く掴んだ。

 「待ちなさいよ。誰も行きたくないなんて言ってないじゃない」

 

 デートの当日は雨であった。

 譲治君は寝坊した上に着ていく服に迷い、結果として、待ち合わせ場所に遅刻した。

 約束の時刻より二十七分ほど遅れて到着した彼が、息を切らせながら、雨でバスが渋滞に巻き込まれたことを告げると、玲子さんは傘を素早く開閉し、傘に溜まった滴を彼に浴びせた。

 「遅れたのは遅れたとして、お願いだから言い訳はしないで」

 

 この二人がうまくいかないのは当然の成り行きであると、誰よりも譲治君自身が信じて疑わなかったが、世の中は不思議なからくりで出来上がっているらしく、二人はそれからつき合い始めた。デートのたびに玲子さんは何かしら譲治君の言動をなじり、そのたびに譲治君がふてくされている観があったが、週が替わると誰かにリセットボタンを押されたように、またよりを戻すのだった。

 譲治君はさすがに玲子さんのきつい性格にうんざりすることがあった。美人だし性欲も満たされるし、性格がはきはきしてて面白い部分もあるけど、奥さんになったら一生尻に敷かれるに違いない。結婚はしないでおこう、と密かに心に決めていた。一歳年上の玲子さんは大学を卒業すると外資系の会社の経理に就いた。翌年、譲治君は折からの不景気で、行きたかった大手の採用試験にはことごとく落ちたが、なんとか地元の小さなリース会社の営業職を得た。「まあ、足掛けになるかも知れないけど」と彼は知人に言った。いろんなことを足掛けにしながら、世の中を適当に渡っていこうと彼は考えている節があった。

 二人は社会人になっても相変わらずつき合い続けた。

 

 夜桜を眺めるレストランのテラス席で、ワインボトルを一本空けたことがあった。

 酔って頬を赤く染めた玲子さんが、テーブルに置かれた譲治君の手を触った。

 「ねえ、やっぱり結婚しようよ」

 譲治君は酔いを頭から追い出すように眉をしかめ、意識を集中した。「結婚?」

 「結婚よ」

 「また、急な」

 「急じゃないわ。去年のクリスマスでもその話になったでしょ。四月までにお互いにしっかり考えておこうって言い合ったじゃない」

 「それは・・・そうだよ。でも酔って話す話じゃないよ」

 「酔ってても話せるわ」

 「無理だよ」

 「どうして無理なの」

 「いや、そりゃ話そうと思えば話せるけど」

 「だってもう四月よ」

 「四月になったら決めるって・・・約束したね」

 「やっぱり、忘れてたのね」

 「そんなことはない。そんなことはないけど、四月になりました、はいさっと決められる話じゃないよ。そうでしょ? 結婚って大事なことじゃん。結婚って、君は簡単に言うけど、結婚は簡単じゃないよね。だって僕ら、まだ大人になったばかりだし。会社じゃまだ新人だし、まだまだもっと、その、貯蓄とかしてから、結婚するならすべきだと思う。いくらなんでも、まだ早いと思わない?」

 玲子さんの赤い顔が、どす黒く染まった。彼女は嘆息した。

 「結婚したくないなら、結婚したくないの一言で済むじゃない。どうしてあなたはそうまどろっこしいの?」

 

 それから一年後、二人は結婚した。

 翌年には一人娘も授かった。

 娘の誕生と入れ替わるように、彼の父親の雅之さんが肺癌で亡くなった。おじいちゃんが生まれ変わったのかな、と、彼の母親の弓枝さんは孫を抱いて笑った。譲治君はあからさまに嫌な顔をした。

 初雪の降った十二月の暮れ、彼は一度だけ浮気をした。

 会社の忘年会の後であった。

 事務員の女の子で、人形のように可愛らしい後輩がいた。彼女の方が、先輩の譲治君に対して積極的であった。宴会の最中から彼の膝に手を置かんばかりにすり寄り、冗談話をしては笑い転げた。潤んだ大きな瞳はしょっちゅう彼を捉えて離さなかった。もちろん彼としても満更でもなかった。育児に忙殺され、夫婦の営みが疎遠になっている現状への不満もあった。しかし彼は自制した。女の子の飲み過ぎを咎めた。

 会が開け、タクシーを拾って帰る段になり、酔いつぶれた彼女を誰かが一緒に送っていくべきだという話になった。帰宅が同じ方向である譲治君に白羽の矢が立った。あまりに二人の仲がいいので、同僚たちが気を利かせた部分もある。ちょっとからかってどうなるか見てやろうという魂胆もあった。

 譲治君は一旦はその提案を断った。心の中で、危険だというサインが出ていたのである。しかし上司にまで説得されれば、彼も従うしかなかった。もっとも、本気で断るつもりもなかったのである。心中は荒波に漂う小舟のように揺れた。

 二人を乗せたタクシーは、そのままホテルに直行した。

 罪は罪として、彼としてはこれくらい言い訳の豊富にできる犯罪はなかった。ほとんど彼の意志で事が動いたのではないと断言したかった。しかしどんなに言い分があっても、奥さんの玲子さんは決して許さないことも痛いほどわかっていた。彼は証拠が残らぬよう細心の注意を払い、こと匂いについては一番警戒した。二次会にカラオケに連れて行かれたことにして、わざわざ、煙草を吸う人がそこで一緒にいたことを演出するために、自分は吸わないのに煙草を買って火を点け、煙をスーツに浴びせた。

 それでも直感の鋭い玲子さんのことだから、事が露見するのではとひやひやしたが、驚いたことに、玲子さんはいつまで経っても浮気の事実に気づかなかった。あるいは気づかないふりかも知れないが、いやいや、そんな器用な女ではない、と思い直した。彼が必死に言い訳を並べ立てる機会は、ついに来なかった。それはそれで、彼はなんとなく不安であった。

 ときおり玲子さんにじっと顔を覗きこまれ、「何考えてるの」と訊かれることがあった。以前にはなかったことのように思われるので、彼は内心どぎまぎしながら、表情だけは平然として「別に、何も」と答えた。「ふうん」と言いながら、玲子さんはなおもじっと彼を見つめるのだった。

 

 譲治君が本当に自分の生き方を変えたのは、リース会社を辞めたい、と思い始めた梅雨の始まりであった。仕事が上手くいかず、取引先を二軒も失い、上司にこっぴどく叱られた。不景気のせいにするなと言われた。しかしどう考えても不景気とデフレによる価格破壊のせいとしか思えなかった。そういう愚痴を同僚にこぼしたら、同僚が上司に告げ口し、彼に対する上司の対応は一層冷ややかになった。事務の女の子はとっくの昔に仕事を辞めていた。それも譲治君のせいだという噂が立っていることを、彼は何となく肌で感じていた。職場はまったく居心地が悪かった。家に帰ったところで、どうしても落ち着かない自分がいた。彼は自暴自棄になりつつあった。

 その日は朝から土砂降りであった。いつもより早く宵闇が街に落ちた。幼稚園に理奈ちゃんを迎えに行き、帰る途中だった玲子さんの軽自動車が、交差点で赤信号を無視して突入してきたトラックにスクラップのように踏みつぶされ、母子ともに命を失ったということを、彼は仕事帰りに立ち寄ったパチンコ店で、スマートフォンに呼び出されてから知った。

 遺体の身元確認のため、大学病院に至急来るよう告げられた。

 譲治君はスマートフォンを耳に当てたまま、椅子をひっくり返し、パチンコ台にぶつかりながら立ち上がった。銀玉が床にこぼれ、周囲から野次が飛んだ。

 絶対に赤の他人だ、と彼は思った。絶対に、身元を勘違いした電話だ。玲子と理奈のはずがない。そんなはずがない。

 そう心の中で何度も唱えながら、彼は大音量で電子音の飛び交う通路をふらふらと歩き、店を出た。なんだか慌てれば、電話の内容が事実になりそうで怖かった。しかし夜の街に出た途端、人が変わったかのように、大慌てでタクシーを探した。今度は、急いで病院に行けば、たとえそれが自分の妻と子供であっても、警察の言い分とは違い、実はまだ息があって、自分が一声かければ蘇生してくれそうな気がしたのだ。通りでタクシーを呼び止めていたサラリーマンに飛びかかるようにして縋りつき、「すみません、妻子が交通事故にあったんです」と言うと、返事も待たず、彼を押しのけてタクシーに乗りこんだ。

 「お客さん、割り込みは困りますよ」

 運転手は不機嫌な顔をして振り向いた。

 「大学病院へ。大学病院へすぐさま行ってくれ。妻子が死んだんだ」

 譲治君は運転席の背もたれを拳で叩いて叫んだ。

 「え? 死んだ?」

 「早く行かないと死ぬんだ。早く、大至急で車を飛ばしてくれ」

 「え? まだ死んでないんですか? どっちなんですか?」

 「早くしてくれ。間に合わないと、お前が殺したことになるぞ」

 運転手はその声に尋常ならぬものを感じ、車を発進させた。

 「いったい何があったんです」

 運転手の問いを無視し、車窓を睨んでいた譲治君は、信号が赤で車が停車すると、再び運転席の背もたれを、今度は両手で激しく叩いた。

 「早くしてくれ。頼むから早くしてくれ。俺が殺したことになる」

 「はあ?」

 運転手はますます混乱したが、こんな情緒不安定な客は早く病院に降ろしてしまおうと、水飛沫を立てて車を急がせた。

 その大学病院は、譲治君も何度か利用したことがあった。しかし今まで存在にすら気づかなかった部屋に彼は通された。入室するとき、布巾のようなものを白衣の男から手渡され、口にあてがってください、と言われた。

 部屋は広かった。青白い照明に天井から隅々まで照らされ、どこにも影を作ることを許さないかのようであった。ひんやりと寒気を感じた。部屋の真ん中に白いベッドが二台並べてあり、それぞれの上に白いシーツが盛り上がっていた。

 譲治君は逃げ出したい衝動に駆られた。顔なんて見なくていいから、すぐにでもこの二体を焼却して、肉も血もない白骨にして欲しいと思った。しかし同時に、どうしても自分は見なければいけないのだ、これが夫婦であり父親であり家族であった者のつとめなのだ、と自分に強く言い聞かせた。

 彼は壁に手をつき、自分の体を支えた。そんな部屋の端に彼は佇んでいた。

 「身元確認をお願いします」

 付き添ってきた警察官がそう呟いた。白衣を着た男が顔の部分の布をめくった。

 おお、おお、と彼は呻いた。こんな風に自分は呻くということを彼は初めて知った。

 白衣の男はもう一台のベッドの布もめくってみせた。

 おおお、と彼はまた部屋に反響するほどの大声で呻いた。

 二体とも血まみれだった。玲子さんだった遺体は顔が潰れて形を成してなかった。理奈ちゃんの遺体は額から顎にかけてざっくりと縦に切り口が開いていた。どちらも作りかけの粘土細工が床に叩きつけられたかのような顔をしていた。そしてどちらも、何かをひどく恨むように眼球が飛び出ていた。

 警察官に抱きかかえられても、彼は容易に立ち上がろうとしなかった。

 「ご家族にまちがいありませんか」

 警察官の問いに、彼は気がふれたように首を縦に振った。

 「私が殺しました。私が二人を殺しました」

 「ご主人、何を言ってるんですか」

 「私です。私が悪かったんです。全部私のせいなんです」

 再び白い布の掛けられた遺体を凝視しながら、彼は何度も叫んだ。

 「私が二人を殺したんです」

 

 

 矢野譲治君が仕事に復帰し、日常生活を取り戻すのには、半年あまりを必要とした。その後の彼はまったく人間が変わったようであった。物静かになり、口にする言葉は重かった。言い訳じみたことはもちろん、二度と口にしなくなった。それについてあるとき、新しい上司から、幾分か敬意をこめて指摘されたことがある。お前は決して言い訳しないな、と。彼はしばらく考えこんでから、言い訳をする相手がいなくなったんです、と答えた。

(おわり) 

 

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『いいわけ譲治君』近日公開!

2017年11月08日 | 断片

※写真は阿寺渓谷。

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阿寺渓谷を歩く。

2017年11月06日 | 断片

 念願の阿寺渓谷へ行く。

 いつもの勇み足が出て、入口の駐車場に車を停め、張り切って歩き出したら、他の人はみんな車で上まで行っていた。しかし今更引き返すのも悔しいので、狭い道路での車の行き交いにときおりうんざりさせられながらも、紅葉と山の空気に励まされながら一時間歩き通す。

 だんだんと濃くなる水の色に目を見張る。

 川岸に近づき、岩場に腰を下ろしてしばし呆然とする。疲れた四肢に、宝石を無数に散りばめた様なきらめきが圧倒的な感動で沁み入って来る。

 両脇の山が高いので、少し日が傾くと、水面の煌めきは見られなくなった。ほんのわずかな時間帯だけに用意された芸術作品であった。

 ここまで歩いてきて本当に良かったと思う。そしてこれからも歩いていこうと思う。こういう美しさに、またどこかで巡り合えるなら。

 

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