た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

休みの日の休み方

2018年10月29日 | 断片

 先日の日曜日は珍しく芸術鑑賞づくめだった。午前九時からのギター弾き語りを皮切りに、昼過ぎからは演劇、夕方工芸品市の散策を挟んで、夜は大音量のコンサート。さすがにそれだけ続くと、感覚神経が疲れ果てる。感動にも体力がいるのである。

 食事を済ませたはずなのに、夜更けに茶漬けをかきこんだ。

 箸を置き、嘆息する。

 それでようやく、音のない世界が訪れた。

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漆器祭り

2018年10月23日 | 写真とことば

 木曽平沢の漆器祭りに行った。漆器の世界もなかなか面白く、予定外に買いこんでしまった。奈良井は観光地だが平沢は職人の町である。どちらかというと、どの店も売る気より見せる気が強い。やたら制作上の工夫を説明したがる店がある。客応対をまったくしない無口な店もある。商売上手とはとても言えない。その辺がなんだか気に入った。

 天気がいいので、開田高原まで足を延ばす。紅葉を見て温泉に浸かり、引き返す。

 

 

 

 秋は探すもの。探し出したら、記憶と重ねて確かめるもの。そんな気がした。

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運動会

2018年10月16日 | 断片

 秋空の下、地域の運動会が催された。

 私は体育委員である。体育委員は、運動会の選手を集めなければならない。ところが昨今はなかなか人が集まらない。集まらなければ、最後の手段として、体育委員が埋め合わせに回される。という論理で、私は今回リレーの選手に選ばれた。仕方ないから出てくれという。何が仕方ないのか一向にわからない。私の足は速くない。ここ何年も運動をしていない。リレーに選ばれる要素など微塵もないと自信を持って言える。それなのに、出る人がいないから、出ろなんて、そんなことがあっていいのだろうか。

 一週間の準備期間に、走りこめるだけ走ったが、一週間やそこらでは、十秒を九秒にできるはずがない。もちろん二十秒をを十九秒にもできない。一体どうするのだろうと途方にくれながら当日を迎えた。

 リレーは運動会の花形である。当然最後の種目。疾走順は一番。一番は半周で済むから、一周走る順番から泣きついて変えてもらったのだ。しかし一番手は皆一斉にスタートするのだから、確実に順位がつく。一番を選んで、本当に良かったのか。もう後戻りはできない。

 鉢巻きを巻き、バトンを握りしめ、スタートラインに立った時、爽やかな秋風に乗って四方から歓声が沸き起こった。なるほど、これが「さらし者」という存在が味わう気分か、と思うと同時に、実に懐かしい、小学生か中学生の時以来の、得も言われぬ高揚感が沸き起こってきた。運動会だ。これは、あの、緊張と、恐怖と、やる気、と汗、と興奮と、どこか無責任なお祭り気分のないまぜになった、正真正銘の運動会だ。

 この感覚を四十を過ぎて再び味わえるなんて、私はなんて幸せ者であり、不幸せ者なのだ。

 ピストルが鳴り、硝煙の匂いを微かに嗅ぎながら、私は懸命にダッシュした。無我夢中で手足を振った。

 結果は三位。五人中の三番目である。埋め合わせで走ったにしては十分の合格点ではなかろうか。

 そう思って自分をなぐさめている。

 それでも何だかもっと自分をいたわりたくて、翌日一人で温泉に行った。

 

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PRIDE

2018年10月10日 | essay

 

 誇り。

 誇りとは何だろうかと思う。

 自分を肯定することであるなら、自分を肯定すればそれが誇りなのか。それとも誇りを持つことで自分を肯定できるのか。

 「俺は今回頑張ったと思う。そんな自分を誇りに思う。」と人は言う。誇りに思わなければ、今回頑張ったことにはならない、というわけではない。頑張った事実は残る。うまくいけば周りの称賛も残る。それ以上に何が必要なのか。「誇りに思う」で伝えていることは、単に、「嬉しい」というぐらいのことに過ぎないのか。それとも、「よくやった」という自賛も含まれるのか。

 誇りは単なる、「自慢」なのか。

 ややこしいことに、他人を肯定することも、誇りである。

 「彼は私たちの誇りだ」とか、「彼女は日本の誇りだ」と言うとき、人は何を表明しているのか。ただ「自慢」しているに過ぎないのか。そうとは思えない。おそらく何か大事なことを再確認しているのだ。あの姿こそが、我々の理想であり、希望である、と。だからこそ、その姿に自分たちも勇気づけられるのだ、と。

 誇りはそれでは、「自信」なのか。

 誇り。 

 なんだかそれは、ギリシア神話に登場する、あらゆるものを寄せ集めた怪物のキマイラのようなものに思えてきた。

 人はなぜ拳を振り上げ、あるいは胸に手を当て、「誇り」を口にするのか。

 ほとんどそれがなければ生きていけなく、

 ほとんどそのためにだけ生きているかのように。

 すぐ手元にありながら、ずっとそれを探して生きてきたかのように。

 

 

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ただひたすら頭(こうべ)を垂れよ

2018年10月01日 | essay

 台風一過の秋晴れの街を気持ちよく自転車を漕いで帰ってきたら、鍵束をズボンのポケットからどこかに落としてしまっていた。この辺りが私の生涯出世できないゆえんであろう。慌てて来た道を引き返し、途中の交番に立ち寄ったら、ちょうど拾った人が届けにきてくださっていた。平身低頭して感謝の言葉を連ね、名前をお尋ねしたが、決して名乗ろうとせず、笑顔で立ち去られた。何という救う神あり。私の周りは救う神で満ちている。この辺りが、私の、出世できなくても何とか生きてこれたゆえんであろう。

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