た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

覚醒

2019年05月30日 | 写真とことば

 

 どうも山に憑りつかれたらしい。本格的な山登りを始めたのはほんの一か月ほど前だが、毎週でも登山靴を履きたくてうずうずするようになった。さほど体力のあるほうではない。楽をできるのなら人生楽を選んできた。それが突如、こうまで山に惹きつけられるとは。我ながら不思議でならない。

 山は美しい。低い山ですらそう思う。じゃあいったい何がどう美しいのかと問われれば、答えは簡単ではない。頂上からの大パノラマや見事な瀑布、といった景勝地ならわかり易いが、とりわけ眺望のよくない森の中でも十分美しいと感じる。それはなぜか。

 平地の街の建物の中で、所在なく一人考え込んでいたら、一つの答えに辿り着いた。

 すべてがそこにはある。

 山には、語弊を恐れず言えば、すべてがある。どの地点でも均一なものはなく、常に予測不可能な色彩が広がっている。緑だけではない。白樺の色、黒い切株、小さな野花、名も知らぬ枯草。空気だって予測不可能だ。暑かったり、涼しかったり、刻一刻と変化する。樹形はつねに多様である。幾重にも織り重なる小鳥のさえずり。岩を踏みしめる感触。鼻孔をくすぐる複雑な匂い。

 生きていれば感じ取るものを、存分に与えられ、感じ取っているという豊かさが、そこにはある。

 一方で街の生活はどうだ。外に出なくてもいい。日光に照りつけられなくてもいい。歩かなくてもいい。いつも同じ景色を眺めていればいい。疲れを感じなくてもいい。予測できないことに戸惑わなくていい。欲しいものが欲しい場所ですぐに手に入る。保証された安心を買うことができる。温度も調節できる。快感さえ調節できる。便利なのだ。あまりに便利で、退屈のあまり孤独を感じるのだ。

 何もかもわかり切ってしまうさみしさが、そこにはある。

  

 次の登山に向けて、携帯コンロを買った。調味料も冷蔵庫もない山上で、そんなに旨い料理はできないだろうと思う。だが、不便という予測不可能な領域へ挑むことに、なんと興奮を覚えることか。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・  

 

 引きこもりの問題が世間を騒がせている。街に出て面白くなければ、そりゃ引きこもる気持ちもわかる。しかし引きこもることで、一層の虚無感と向き合わざるを得なくなる。何もかもが揃っていても、何もない、という苦しみだ。

 彼らに山に登って欲しい。自然の豊潤さにぜひ触れて欲しい。と、自分がまだ大して登ってもいないのに偉そうに思う。

 山は、まだ見ぬ景色を与えてくれる。

 

 再来週あたりは、鷲が峰か。

 

 

 

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野辺山一景

2019年05月25日 | 写真とことば

 

野辺山というところはまことにモウのんびりとしたところでございまして。

牛がお山か、お山が牛か。

風のゆくへも忘れな草。

 

 

※写真は滝沢牧場

 

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山上の昼食

2019年05月24日 | 写真とことば

 最近登山を始めた。始めたと言っても、まだ美ケ原と守屋山という、低い山を二つ登ったばかりである。美ケ原に至っては、購入した『信州の日帰り登山』にも載っていなかった。

 山頂に着いて驚くのは、どちらも自炊する人で賑わっていたことである。携帯コンロでバーベキューをしながら語らう団体もあれば、ラーメンを作る二人連れがいたり、かと思うと若者が一人、ホットサンドを焼いて自分だけの世界に浸っていたり。なるほど、近年の登山ブームはこういうところに醍醐味を見出しているのか。山登りより、山を登った後が本番なのだ。いろいろ便利な道具が売られているから、それをさりげなく他の登山客に見せつけるのも虚栄心をくすぐるのだろう。

 自分たちも次回は、と思うと山登りが一層楽しくなる。他の登山客の目を引くものでなければ。炭を担いで上がって炭火焼でもやってやろうか。それはさすがに森林組合の人たちに叱られるか。そもそも、たったふた山登ったばかりで気が早いか。

 山上の調理はおいおい考えていくことにしよう。焦る必要はない。涼風に汗を洗われ、はるか遠い山並みを見つめながら、お握りを頬張る。それだけでも、びっくりするくらい美味しいのだから。

 

 

※写真は美ケ原

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地元を楽しめ!(アタラクシア!)

2019年05月10日 | essay

 

 里山辺、と呼ばれる松本市街から東に外れた土地に移り住んで、もう十年が経つ。山にも街にも近く、言い換えれば山からも街からも外れた感じで、なるほど里山辺だなあとつくづく思う。これだけ住んでいれば、町会の役を割り当てられたり(体育委員に任命され、メンバーが足りないとかで運動会で走らされたり)、近所の知り合いが徐々に増えたり(毎朝犬の散歩で挨拶しながら互いの犬を遠ざけ合ったり)、などなどしながら少しずつ地元の生活に馴染んできている。が、いかんせん田舎なので不便を感じることもある。

 その一つ、と言ってもほとんどこの一つに尽きるのだが、周りに飲食店が少ない。家から歩いていける距離に少ない。つまり、ぶらっと散歩がてら一杯やることが難しいのである。ごく庶民的で慎ましい休日の楽しみを奪われているのだ。

 ぶらっと一杯だって?────なんとまあ享楽的な、と非難するなかれ。決して贅沢を言うわけではない。わずかな金を、地元に落とし、いっときの快楽を得る。地元も潤い、自分も潤う。何と健全な経済活動ではなかろか。

 その望みを果たすべく、犬を引き連れ方々を探索して回るのだが、私の求めるものが現代の車社会にそぐわないのか、なかなかこれという暖簾(のれん)に行き逢わない。

 それでも最近、嬉しい発見が続いた。

 

 車を山に向かって走らせ、十分程度行ったところに地元のワイナリーがある。そこへ歩いてゆけばいいということに、最近気づいた。

 ちょっとしたハイキングコースである。行きは緩やかな上り坂。車道を避け、ひたすら農道を選ぶ。水田地帯を抜けると、丘陵全体がぶどう畑である。ぶどうの樹と樹の間を縫うようにして小一時間も歩くと、ワイナリーに出る。併設のレストランを利用するつもりで来たのだが、夕刻で、レストランはもう閉まっていた。それで、売店で白のフルボトルを一本買い、コルクを店員に抜いてもらい、ついでに試飲用のコップを二ついただいた。どんな無理を言っても、その女性店員は、「何もかも承知しています。酒の楽しみ方は十人十色ですから」と言わんばかりの笑顔で応対してくれた。きっと彼女も相当ワイン好きなのだろう。

 このワインを、眺めのよいテラス席に座り、連れ合いと二人で傾けた。眼下には広大な松本平(だいら)。そのさらに遠くには、冠雪した峻厳な北アルプスの峰々。普段、狭い家で狭い庭を見ながら飲むのと違い、それは、心臓を丸ごと体の外に取り出し、初夏のそよ風にあてたような、何とも開放的な外飲みであった。

 

 半分もボトルが空けば、元来酒に強くない我々二人はそれで充分である。残ったボトルは袋に入れ、またぶらぶらと来た道を引き返す。往路の喉の渇きも心地よいが、復路の、ほろ酔い気分の爽快感と言ったら、なかなか筆舌に尽くしがたい。ぶどう畑とぶどう畑に挟まれた坂道をたらたらと下れば、夕日に染まる盆地が圧倒的なスケールで迫る。よくできた映画のワンシーンを観たような、なんだか感動的な気分に浸った。

 疲れ具合も、ちょうどいい。

 松本のお薦め観光コースとして、この「こっそりワイン小路」なるものを市に推奨したいくらいである。理想的な距離と、起伏と、お楽しみである。ただし、あくまでもスタートとゴールを我が家に設定した上での「理想」なので、汎用性はない。市に推奨するのも止しておこう。

 

 もう一軒。

 里山辺からもう少々山沿いに近づくと、美ケ原(うつくしがはら)温泉がある。こじんまりとした温泉街である。昨今はどこの温泉街もそうみたいだが、そこかしこに寂れた観がある。そんな裏通りに、『食事処 平屋(たいらや)』が存在することを、いったい、松本市民はどれだけ知っているだろうか。

 軒に並んで吊り下がる小さな赤ちょうちん。閉じられたガラスの引き戸に、閉じられたカーテン。店の前を十人通りかかったら、そのうち五名は閉店していると思いこむだろう。残り三名は、店があることすら気づかないかも知れない。最後の二名だけが、その怪しげな佇まいに妙に心惹かれる。そんな、やっているのかやっていないのかわからない食堂である。

 私は妙に心惹かれた一名であった。発見自体は数年前にさかのぼる。しかしいかんせん、いつ来ても閉まっている。それが、今年のGWの五月三日、やっぱり気になり、散歩がてら立ち寄ってみたら、店の前に貼り紙がしてあるではないか。

 「四日、五日は休みます」

 何たること。四日、五日は休むだと?────ということは、本日三日は店を開けるということではないか! 私は歓喜の叫びを心の中で上げた。念のために入り口をノックして、本日の開店時間が夕方五時から六時半まで(たった九十分?)ということを訊き出した。いったん家に戻り、日が傾くのを待って連れ合いと二人、再度店へ繰り出す。こうなると執念である。

 ゆっくり歩いて行ったつもりが、五時十五分前着。さり気なく店の前を行ったり来たりしながら(連れ合いは「こんな姿を人に見られたら確実に怪しまれるね」とぼやきながら)、戸が開くのをひたすら待った。

 なぜここまで、古い食堂にこだわるのか?────それは、私にもわからない。ひょっとして、その店が残っている理由を知りたいのかも知れない。大資本ならともかく、小さな個人営業の店は、景気の影響を受けやすい。時代の潮流について行けず埋没してしまうことも多い。そんな中、決して時代におもねらず、自分たちの変わらぬやり方で、細々とでも続けていくには、一つに、経営者たちの忍耐強さが欠かせないだろう。もう一つに、やはり、何か人を惹きつけるものがそこにあるに違いないのである。それは味であったり、雰囲気であったり、人柄であったり。それらの内のどれかが、誰かを捕え、まるで根を伸ばすように地域とつながり合うのだ。

 店内はさほど広くない。半分が土間のカウンター席。しかし最近は使われた形跡がない。半分は畳敷きで、座卓が二台。うす暗さはいかにも昔の食堂である。土間の隅には薪ストーブ。冬場に活躍するのだろう。調理した品を出し入れする小窓越しに見える、壁の向こう側の厨房は、案外広そうである。

 壁に貼られた品書きは二十ばかし。

 いかにも人の良いおしゃべり好きな奥さんと、往時はなかなかの好男子で鳴らしたと思われる無口な主人の、老夫婦で切り盛りしている店であった。薪ストーブの向こうの壁に、開店時間が大書されてある。平日午前十一時から一時間半。夕方五時から二時間(ときには一時間半)。日曜休み。これではなかなか開店しているときに行き逢えなかったわけである。

 とりあえず大瓶のビールを注文した我々に、「温かいビールもね」と奥さんがお茶を淹れてくれる。瓶ビールと佃煮を出したあと、どっかと椅子に腰を下した彼女が、

 「さて、何にしましょう」

 と威勢よく聞いてきた。

 こうなるともう、私はわくわくを抑えきれない。三品ほど注文したと記憶する。たしか、野菜炒めと、焼き魚と、豚カツ定食だった。食べてみると、何と、どれも美味しい。豚カツの柔らかいのと、マグロの旨みには驚いた。聞けば、いい素材を仕入れているとか。おまけに無口な主人は若い頃、温泉街の旅館をくまなく渡り歩いた板前だったらしい。この店が残ってきた理由が、よく腑に落ちた。

 座卓に片肘を突き、冷たいビールを口に含む。豚カツをもりもり食べる。美味しいねえ、と言い合う。他には、何もない空間である。だからこそ、昔よくあった時間がそこに流れる。

 心の錠をかちり、と外されたような、じんわりとしたくつろぎに満たされた。

 とは言え、制限時間は一時間半。喋りながらも飲み食いを精力的にこなし、完食して席を立った。奥さんによれば、五日は地元のお船祭りを観に行くらしい。ご主人は足が悪いから俺は行かない、と毎年言うのだが、でも結局観に行くのよ、と笑って教えてくれた。

 店を出れば、外はまだ明るい。家々には、祭りのしめ縄が長く張られている。この辺りの風習である。飾り紙が、ぱたぱたとひらめく。水の張った田んぼの脇を、ほんのり酔いの回った体で歩いていると、本番前の練習だろうか、遠くから風に乗り、かすかに笛の音が聞こえてきた。

 

(おわり)

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『当世女風呂事情』(部分)

2019年05月01日 | 断片

 共同浴場の女湯ってのはね、まあ男連中にはわからないだろうけど、戦場だね。戦場。言っとくけどね、女が服を脱ぎ捨てたら、ただの獣だよ。ほんと。女湯ってのは、まあある意味、女が女であることを止める所だよ。ほんとに。へへっ、女湯を覗き見したがる男どもにはがっかりな話だけどさ。少なくとも、共同浴場ってのはそういう所さ。

 どんな雰囲気かって? 「雰囲気」なんてもんじゃないよ。とにかく落ち着かないね。情緒なんてこれっぽっちもありゃしないよ。だって戦場なんだもん。まず場所取りするやつがいる。悪いやつらだよねえ。洗い場はとにかく混むからさ、洗面器に自前の風呂道具を入れて置いとくわけさ。あたしゃ絶対許さないけどね。あたしゃ許さないよ、そういうの! 「おい、こら!」って感じだよ。

 でもねえ、本当に混み始めるとさ、もう場所取りも何もあったもんじゃないの。何しろカランが全部塞がっちゃうんだから。ながーい空き待ちが出来ちゃうわけ。女は時間かかるからねえ。そんで待ちながらでもしゃべくり合うでしょ。洗ってる連中もしゃべくり合う。洗い終わって湯に浸かってもまだ、しゃべくり合う。どうでもいい世間話とかをさ、でかい声でしゃべくり合うから、高い天井に反響してわんわんだよ。排気が悪いから湯気が立ちこめてさ。排水溝に髪の毛が溜まってたり、めいめいが持ってくるシャンプーやリンスの強烈な匂いとかさ・・・もうなんやかやが一緒くたにごたまぜになって、そこにいるだけで湯当たりしそうな感じなのさ。

 だいたいいるのは年寄りだね。人生ここしか行き場がなくなりましたって顔してみんな浸かってるよ。たまに若い女の子がさ、何を勘違いしたのか、温泉気分で入ってくると、びっくりしてるね。熱気というかさ、殺気というか、ババアっ気というか、はは、そんなものにあてられてさ。息苦しいし、肩身は狭いし、洗い場なんていつまで待っても空かないしってんで、早々に退散していくよ。

 そう、温泉が出るのさ。あたしの行きつけの共同浴場は。『せきれいの湯』って名前でさ・・・綺麗な名前だろ? 名前はね。まあ料金は安いし一応温泉だしってんで、芋の煮っ転がしみたいな混み具合なのさ、いつも。

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