た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

戸隠冬紀行④

2012年05月30日 | 紀行文
 帰路は往路よりもずっと楽である。雪上に散る杉葉を踏みしめる音だけが、時折かすかに耳元を賑わす。陽は差さないが、野原はぼんやりと明るい。
 何組かの参拝客とすれ違う。ノルディック中の集団も林間に見かけた。ノルディック。なるほど、いろんな楽しみ方があるらしい。
 私は歩きながら考えに耽る。
 現代人は非現代を求めている。ご神体すらない、雪に埋もれた神社に自分はなぜ行ってみたのか、また少なからぬ人々がなぜ同じような行動をとるのか、そこを突き詰めると、結論はそういうところに行きつく気がする。現代人は非現代に惹かれている。では、非現代とは何か。古さ。素朴さ。懐かしさ。自然。悠久な時の流れ。原始的な活動───例えば、道なき道を歩くような。神秘。現代が失ってしまった何か。
 なるほど。それならば、現代とは何か。これがなかなか難しい。
 
 ふと気紛れを起こし、数百年の樹齢を持つ大木の肌に手で触ってみる。温かい。いや、温かい気がする。不思議に思い、別な樹に次々に触ってみるが、やはり同じである。温もりを感じる。それも、樹齢が経ったものほど温かく感じる。試しに神門の柱にも触ってみたが、これは冷たかった。木材として切り倒され加工された時点で、温もりは消えるのである。私は少しく感動した。

 現代とは、よくわからない。その渦中に生きているが故に。水に泳ぐ魚に水が見えないのと同じく、現代に生きて現代に対する見通しはさっぱり利かないが、しかし、現代とはあえて言うなら、生きている樹が温かい、といったごく身近な現象に気づかなくなっていくことではないか。我々が靴を履き、道路を造り、都会で暮らし、テレビやパソコンの画面にくぎ付けになってさまざまな情報を得ようとあくせくした結果が、そういうことなのではないか。

 奥社入口まで戻ってきた。長靴を借りたそば屋の看板を改めて読むと、『なおすけ』とある。なかなか小奇麗な店である。長靴を返すついでに店に入り、鴨南蛮とビールを注文する。他に客は、七十に近いのではなかろうかと思われる男性が一人。鎖付きサングラスにショッキングピンクをあしらったウィンドブレーカーを着こんで、コーヒーを飲んでいる。聞くと、毎年ノルディックに来ているらしい。元気溌剌の老人である。
 現代に生きながら非現代を享受する、豊かさかな。
 夕刻に店を出て、来た道をまた三十分かけて引き返す。少し肌寒さが増している。長い帰り道も、もちろん、歩いているのは私一人であった。
 中社帰着。一件だけある温泉場に歩いて行き、旅の垢を落とす。

 宵闇が降りる頃、『大西荘』に戻る。浴衣に着替え、二間をつなげたがらんどうの空間に大の字になる。 
何もすることがなくなった。

 食事に呼ばれ、一階に下りる。長机が無愛想に並び、研修所にありそうな食堂である。畳敷きの広間もあるのだが、今夜は地元の消防団の会合があって使えないのだ。そのことはすでに『なおすけ』のマスターから聞いていた。彼自身が消防団員で、私が宿泊する宿名を告げたら、今夜そちらでまたお会いするかも知れませんよと教えてくれたからだ。狭い集落である。
 宿泊客は私一人かと思っていたら、もう一人いた。女の人である。
 別々の長机に同じ方向を向いて座るよう膳が用意されているので、女の人の斜め後ろに座らされた私からは、彼女の背中しか見えない。向こうも一人旅なのだろうか。食堂に入ってきた私を見ると小さく会釈して、あとはそのまま背中を見せたきりである。
 静かに食事は進む。
 女性は決して振り向かない。私はちらちらと女性の背中を眺める。私と同じくらいの年齢と推察される。慎ましさを形に表したような後ろ姿である。首筋には凛とした艶がある。旅の出会いとドラマというものの可能性についてひとしきり考えさせられる。
 これがせめて斜向かいででも向き合っていれば。声を掛けて旅先の会話の一つくらいできるのだが。新入社員のセミナーじゃあるまいし、どうして同じ方向を向いているのだ。おまけに宿坊の子どもたちが現れた。似たような顔が三体。長男は壁際に設置されたパソコンを使い、次女は脇からそれに横槍を入れ、三女は女の人と顔見知りらしく、しきりに話しかけては彼女の食事の邪魔をし始めた。おかげで旅のドラマの可能性は永遠に失われた。
 旅のドラマ? いやいや、私には家族がある。何を妄想しているのか。妄想と言えば、旅それ自体がそもそも妄想の産物ではないか。旅人という妄想上の立場に自らを置き、道行く先の何でもない風景や出会いに妄想を膨らませ、思い出とすることで旅という妄想のアルバムを完結させる。
 考えてみれば、安価なアミューズメントである。
 入口の扉が開いたと思ったら、『なおすけ』のマスターが顔を出し、私に挨拶してきた。私はできるだけにこやかに挨拶を返した。十分楽しんでいるよ、という意思表示である。
 半時もかけずに食事を平らげると、箸を置き、席を立った。女性とはまた軽く会釈を交わした。改めて横顔を見れば、目鼻立ちの整った、美しい人であった。
 私は一人、すごすごと部屋に帰る。

 部屋にはすでに布団が敷いてある。だだっ広い部屋に一人分の布団は、むしろ哀愁を誘う光景である。布団の上に寝転がる。時刻は午後七時。
 依然として、することがない。
 それにしても広い部屋である。今回の私の旅の持ち物を全部広げても、大人三、四人が横になるスペースが十分残るであろう。
 まだ眠くない。何しろ午後七時である。
 寝返りを打ち、頬杖を突く。床の間のテレビが、今か今かと出番を待つかのように黒々とした顔を見せて鎮座している。私はテレビのリモコンに手を伸ばさない。手を伸ばしは、しない。今夜はテレビを一切観ないつもりである。何しろせっかく旅に出たのだ。しみじみとした旅情を、東京のタレントたちの黄色い声で汚されるわけにはいかない。新聞は駅のキヨスクで買い、行きの電車の中で読んだ。がしかし、テレビは駄目だ。だいたいテレビなんて観ても後悔するだけである。平生もほとんど観ない。教育上、子どもに見せたくないから、自分たち大人も観ない。そうやって普段、大人づらして禁欲している分、一人きりになる機会があれば、くだらない番組を思う存分観たいという誘惑が、遠巻きに飛び回る蚊のように私の心を騒がせる。蚊は耳元まで近づいてきて囁く。ボタン一つ押せば、少なくとも二時間くらいはあっという間に潰せるぜ、と。
 現代人はすべからくこの誘惑と闘わなければならない───私は再び、現代と現代人についてひとしきり考え始めた。この誘惑とは何か。片時も一人きりにならなくて済む、という誘惑である。じっと一人で考え事でもしようと喫茶店のドアを押しても、コーヒーが運ばれていざ空白の時間が出来ると、手はポケットの携帯電話に伸びていつの間にか親指でボタンをいじっている。家に帰れば真っ先にテレビのスイッチをつける。テレビが面白くなかったらパソコンを立ち上げる。テレビもパソコンもない場所ではイヤホンを耳に当てて音楽をかける。何かがある、という状況を我々はほぼ目覚めている間中作っている。そうすることで、何もすることがない、という寂寥感を免れているのだ。
 我々は人生という手持ちの時間を、くまなく何かで埋めようとしている。それも、多くは、さほど楽しくもなく、苦しみもなければ、感動もないことで。
 カーテンの外は車の通る音もしない。
 罠。これはひょっとしたら、何かの罠ではないか───私は顎に両の拳を当てて考える。罠とすれば───例えば、我々民衆を飼いならすための罠。我々は画面に視野を拘束され、洪水のように注ぎこまれる情報に思考を奪われ、時間を「健全に」、「大人しく」、「消費社会的に」潰すことで、いつしか、大きな行動、大胆な行動、冒険的な行動が採れない状況に陥っている。社会に対するその鬱屈した気持ちは、馬鹿げたテレビ番組を観て晴らそう! 欲求不満はパソコンをいじっていたらだいたい解消するよ。だから独りであまりそう真剣に考え込まないで。ほらほら、あなたの携帯電話が鳴っている!・・・言葉に表出しないこれら無数のメッセージを日々受け取ることで、われわれは見えない権力に操られているのではないか。確かええと、ミシェル・フーコーとかいうフランスの坊主頭もそのようなことを言ってなかったか知らん。
 私はテレビのリモコンを握り、ボタンの位置を確かめ、元に戻す。松本駅で買った新聞のテレビ欄を広げ、この時間帯にどうしても観たい番組がないことを確認して、なぜか安堵の溜め息をつく。
 階下から声が聞こえる。消防団の宴はたけなわである。
 私は寝返りを打ち、天井を見上げる。
 さっきから、現代がどうとか現代人かこうとか大風呂敷を広げたようなことを豪語しているが、どうやらこれは、現代の問題なんかではない。ひっきょう、私一個人の問題である。私が、問題である。私はなぜ落ち着かないのか。何をしていても何をしていなくても、何かしら物足らなさを感じるようになった。それはなぜか。
 なぜと問うのは、なぜか。
 畜生。私は寂しいのか? 
 私は拳を突いて布団の上に立ち上がる。大きな影が部屋に伸びる。私は窓辺に寄り、カーテンをめくって闇を睨み、布団の上に戻ってきて浴衣をはだけて座りこむ。
 意味だ。意味だ。意味だ。結局、意味が必要なのだ。この男は。自分のとる行動すべてにおいて、費やす時間すべてにおいて、見るもの聞くもの、遊ぶもの、金をかけるものすべてにおいて、私は意味を求めたくなるのだ。意味のないことはしたくない。無意味なことで時を費やしたくはない。沈黙とは、まさに無意味である。日常は何かと忙しいが、それだってすべからく無意味に思えてくる瞬間があり、その瞬間の到来に怯えている。意味のある旅に出ようと電車に飛び乗ったはよいが、ただこうやって宿に寝ることに意味があるのかと自問すれば、それだけでもう心落ち着かなくなる。意味だ。しっかりと充足できる意味を見いだせないと、そこに安住できない性格になったのだ。
 これは病気ではなかろうか?
 ひるがえって見れば、もう二十年近くも前になろうか。大学時代に一年間休学して、私は日本国内を放浪した。辿り着いた先の北海道は札幌の公園の一角で、私は一人ベンチに座り、長旅の疲労と孤独にうつむいていた。そのとき、陽の当たる赤レンガ敷きの地面に一匹の蟻がうごめくのを見つけた。餌を運んでいたのだろうか、頼りない足取りで歩く蟻を眺めているうちに、私は言いようのない高揚感を覚えた。ああ、美しさとはこのことだと思った。美しさに高尚な意味なんてない、そもそも存在するもの全てに大した意味なんてない、まさにここにこうしてあること、それが美しさだと私は悟った。あのときの認識より、今の私の認識は後退したということか? それとも、あのときでさえ、蟻一匹のうごめきにすら意味を見出そうとした、あれは私の無意味恐怖症ゆえの一発症事例に過ぎなかったのか?
 どこまで、意味の行列に追われ、またそれを追いかけ、この男は生きてきのだ?

 やがて私は眠りに落ちた。


(あとちょっとつづく)
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