叔父さんとお別れ

2016-10-02 10:18:04 | タナカ君的日常
 「”納棺の写真をブログに載せるなんて・・・”そう親族からはクレームが付くかもな」と思いつつ写真を使ってしまう僕ってどうなんだろう。 

 このところ叔父さんとは夏と暮れに逢う程度の付き合いしか無かったし、 それもここ10年程は独りで暮らす(と言っても、 生活を実質的にサポートする子供が車ですぐの所にいましたが)叔父さんの家のキッチンのテーブルで椅子に座って 「同じ高さにお互いの顔がある」 そんな向かい合いの姿勢がほとんどだった。 だから最近見慣れていた叔父さんの顔と納棺後に足元に花を入れながらの顔は見る位置がまるで違っていた。 言ってみれば、 「小さな子どもだった頃に見上げる様に見たであろう顔はこんなだったか?」 と記憶も薄れた遠い子供の頃の気分を交えてお別れをした。

 写真を見ると判る様に、 叔父さんの顔は鼻の穴の形が細長くて、 丸くて小さな僕の鼻の穴の形とはまるで違っていた。 その事を従兄弟達に話したら、 「2年前に亡くなっていた叔父さんの妹の顔も同じだったよ」 と教られた。

 叔父さんは個人的な行楽での海外旅行は行っていないと思うのだが、 国費で台湾に赴いた(普通の表現すれば通信兵とし台湾出兵した)事があると聞いている。 当時の普通の家庭の次男だった若者としては避け様の無い兵役だったのでしょう。 戦地から無事に帰国後は、 北海道開拓に向かったとの話も聞いたが、 その後は幼かった僕も暮らす実家に同居しての生活があったのだ。

 そんな同居時代には子供だった僕を捕まえて囲碁を教えたり、 算数で割り算なんかやる学年の頃には小数点以下に次々とゼロを増やしていく ”割り切れない数の割り算” なんかを教えてくれたが、 子供心には「こんな勉強訳が判らないよ」と思った記憶がある。

  僕が中学生になった頃にはすでに結婚して他の所で生活していたが、 カメラ本体を持っているのは当然、 引き伸ばし機や印画紙に光沢を持たせつつ乾燥するためのフェロ板なんか持っていて、 固定焦点のオモチャのカメラを持っていた僕も、そんな機材を使わせて貰ったりしたものだ。

 会社勤めする様になった僕がスキー滑走中の転倒で大腿骨を骨折し、 藤岡市の病院に入院した時には、 手術に使う良質な血液を入手出来るように、 すぐさま数冊の献血手帳をかき集めて病院に届けてくれたりしたものだ。

 そんな風に想い出の多い叔父さんとも、 お別れの時が来てしまいました。


新装された火葬場@高崎市


立派な大腿骨の骨頭
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