平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

旧約聖書を成就するために来たイエス(2014.2.9 礼拝)

2014-02-10 10:01:15 | 礼拝メッセージ
2014年2月9日礼拝メッセージ
『旧約聖書を成就するために来たイエス』
【マタイ5:17、18/ヨハネ1:16~18】

はじめに
 今年に入ってから、マタイの福音書を、「ヨハネの永遠観」を通して観ることをしています。「ヨハネの永遠観」は、まずはヨハネの福音書を通して、学ぶ必要がありますが、ある程度わかって来たら、今度はヨハネの福音書以外の書に適用してみることで、より一層、「ヨハネの永遠観」がわかるようになると思います。
 それはちょうど、学校の授業で練習問題を解くようなものでしょう。算数の授業などでは、理屈だけ教わっても、練習問題を解かなければ、なかなか身に付きません。例えば、三角形の面積は、「底辺の長さ×高さ÷2」と教わっただけでは、どういうことかわからなくても、実際にいろいろな形の三角形の面積を求める練習問題を解くうちに、「底辺の長さ×高さ÷2」がどういうことなのかが、わかるようになります。
 マタイの福音書を「ヨハネの永遠観」を通して観ることは、そのような練習問題のうちの応用問題と言えるでしょう。こうして応用問題を解くうちに「ヨハネの永遠観」のことが今までよりもわかるようになるなら、 聖書全体を、より一層豊かに味わうことができるようになることと思います。

圧倒的な存在感を持つ旧約聖書
 きょうのマタイの福音書の箇所は、5章の17節と18節、特に17節です。
 17節でイエスさまは先ず、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません」と言いました。「律法や預言者」とは旧約聖書のことです。律法とはモーセ五書、すなわち創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。そして預言者とは、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書と小預言書のことです。この旧約聖書をイエスさまは、廃棄するためにではなく、成就するために来たのだと言いました。
 このイエスさまのことばには、聖書の「永遠観」を理解する上でとても大事なことが含まれていると思います。「永遠観」はヨハネの福音書だけでなくマタイの福音書の中にも見られますし、聖書全体に見られることです。旧約聖書は役目を終えた過去の書物ではなく、今も圧倒的な存在感を持っています。
 それはイエス・キリストが旧約聖書の預言を成就するために、この世に来て下さったからです。【過去→現在→未来】の従来型の時間観で旧約聖書と新約聖書とを見ると、旧約聖書は新約聖書の過去に書かれた古い書であるというイメージがどうしてもついてまわりますが、ヨハネの永遠観で聖書を観るなら、旧約聖書はもっと圧倒的な存在感があります。
 きょうの聖書交読では、詩篇119篇を開きました。詩篇119篇は昨年の聖書交読でも11週間掛けて読みましたから、この詩篇119篇の詩人が律法の神のことばをどんなに愛していたかを、私たちは知っています。けさ開いた119篇の97節には、

119:97 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

とありますし、105節には、

119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

とあります。
 律法の神のことばはこんなにも愛されていました。この詩篇119篇からは、旧約聖書の圧倒的な存在感が伝わって来ます。
 しかし、旧約聖書を従来型の時間観に支配されたままで古い書であると考えるなら、この圧倒的な存在感が残念なことに、かなり弱まってしまうことになります。

なぜ旧約聖書の存在感が弱まっているのか
 どうして、そういう残念なことになってしまっているのか、今度はヨハネの福音書1章の16~18節を開いて、その辺りの事情を、もう少し探ってみることにしたいと思います。
16~18節を交代で読みましょう。18節はご一緒に読みます。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
 
 この箇所を、先ず「ヨハネの永遠観」で読み解きます。
 「ヨハネの永遠観」でこの箇所を読むなら、豊かな恵みを受け取ることができます。
しかし、従来型の時間観でこの箇所を読むなら、豊かな恵みではなく、痩せ細った恵みしか受け取ることができません。
 まず、16節の「恵みの上にさらに恵みを受けた」というのは、「旧約の恵み」の上に、さらに「新約の恵み」を受けたということです。もっと具体的に言うなら、「律法の恵み」の上に、「聖霊の恵み」も受けたということです。
 次に、17節よりも先に18節を見ておくと、「いまだかつて神を見た者はいない」とあります。誰も神を見た者がいなかったので、「律法の恵み」を人々は十分に理解することができませんでした。その「律法の恵み」を、父のふところにおられるひとり子の神が解き明かしたから、その恵みがイエス・キリストによって目に見える形で現われたのだと解釈すべきでしょう。
 17節で新改訳聖書が「実現した」と訳しているギリシャ語は、「エゲネト」で、これは「なる、生じる、現れる」の意味の「ギノマイ」の過去形(正確にはアオリスト)です。ですから私は、ここの訳は「恵みとまことはイエス・キリストによって現れた」のほうが良いであろうと考えます。
 「実現した」と訳すと、17節と18節との強い関係が切れてしまいます。ヨハネがここで言わんとしていることは、誰も神を見た者がいないので、モーセの律法の恵みも見えなかった、それをイエス・キリストが目に見える形で現して下さったのだ、ということだと思います。
 律法は恵みであり、それを私たちは聖霊によって霊的に知ることができますから、一層豊かな恵みを感じることができます。それが、「恵みの上にさらなる恵みを受けた」ということだと言えるでしょう。
 また律法とは、「父の愛」とも言い換えることができるでしょう。それが「律法の恵み」です。律法の一つ一つの細かい規定に注目してしまうと、父の愛が見えなくなってしまいます。
 それは「木を見て森を見ず」の状態であると言えるでしょう。豊かな森があっても、一本一本の木に注目し過ぎると森の豊かさは見えなくなってしまいます。
 詩篇119篇の詩人は、この森の豊かさ、すなわち神の愛が見えていましたが、例えばマラキ書に出て来るイスラエルの人々には、神の愛が見えていませんでした。マラキ書を開いてみましょう。
 小預言書のマラキ書は、旧約聖書の最後の書ですから、新約聖書のマタイの福音書の一つ手前にある書です。旧約聖書の1562ページです。マラキ書1章の1節と2節を交代で読みましょう。

1:1 宣告。マラキを通してイスラエルにあった【主】のことば。
1:2 「わたしはあなたがたを愛している」と【主】は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。──【主】の御告げ──わたしはヤコブを愛した。
 このように、マラキ書の時代の人々は、神がいかに人々を豊かに愛していたのか、感じる取ることができていませんでした。
 そのため、いちおう律法を守りはしていたものの、形式的な守り方しかできていませんでした。
 6節と7節を、私のほうでお読みします。

1:6 「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。
 もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。
──万軍の【主】は、あなたがたに仰せられる──わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか』と。
1:7 あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚(けが)れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。
 『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている。

 もし、律法から神の愛を感じることができていたなら、祭司たちが、こんな風に汚れたパンを捧げることはなかったでしょう。祭司たちは神殿の儀式を形式的にしか行っていませんでした。

アウグスティヌスの残念な律法解釈
 そして、大変に残念なことに、新約の時代の2世紀以降の人類も、神の愛を律法からは十分に感じ取ることができていませんでした。
 アウグスティヌスによる紀元400年ぐらいのヨハネの福音書の講解説教の、ヨハネ1:17の解説をしている箇所でアウグスティヌスは次のように言っています。

「古い契約においては、律法が人を脅して助けを与えなかったため、これらの〔恵みとまこと〕は存在しなかった。律法は命じるが、いやさなかった。それは弱さを示したが、取り除くことはしなかった。ただ、恵みとまことを携えて到着する医者のために準備したのである。ちょうど医者はいやそうと思った人のところへ、まず下僕を派遣し、自分が着いた時には病人は縛り付けられているようなものである。」(アウグスティヌス著作集 第23巻、教文館、p.52,53)

 これがアウグスティヌスの律法の解釈です。律法は恵みではなくて人を脅し、人を縛り付けるのものであったとアウグスティヌスは言っています。
 もう一度、今のアウグスティヌスの解釈を読みますね。ここではイエス・キリストが医者に例えられ、律法はイエスの下僕に例えられています。下僕である律法は医者であるイエスの先に派遣され、その下僕が人々を縛り付けたとアウグスティヌスは言っています。

「古い契約においては、律法が人を脅して助けを与えなかったため、これらの〔恵みとまこと〕は存在しなかった。律法は命じるが、いやさなかった。それは弱さを示したが、取り除くことはしなかった。ただ、恵みとまことを携えて到着する医者のために準備したのである。ちょうど医者はいやそうと思った人のところへ、まず下僕を派遣し、自分が着いた時には病人は縛り付けられているようなものである。」

 このようにアウグスティヌスは、律法は恵みではないと解釈していましたから、ヨハネ1:16の「恵みの上にさらに恵みを受けた」も、イエス・キリストの恵みを強調した表現であるとアウグスティヌスは解釈していました。「旧約の恵み」の上にさらに「新約の恵み」ではなく、「新約の恵み」の上に「新約の恵み」というように、「新約の恵み」を二重に強調する表現であると解釈していました。
 アウグスティヌスのように「旧約の時代」には恵みが無かったと解釈するなら、「ヨハネの永遠観」に気付くことは不可能です。アウグスティヌスの考え方ですと、時間は、恵みが無かった「旧約の時代」から、豊かな恵みが与えられる「新約の時代」に移ったということになり、従来型の直線的な時間の流れしか見えないことになります。
 「ヨハネの永遠観」で「旧約の時代」と「新約の時代」が重なっているのは、恵みが両方の時代にあったからです。二つの時代が重なっていることで、恵みは一層豊かなものとなって私たちにもたらされます。もし「旧約の時代」がマイナスの恵みしか持たないのであれば、「新約の時代」を重ねた時にプラスとマイナスでキャンセルされて恵みがゼロになってしまいます。それゆえ、アウグスティヌスのように律法を恵みと考えないのであれば、「ヨハネの永遠観」は決して見えて来ません。4世紀から5世紀に掛けての人物であるアウグスティヌスは、特に西方教会における教理の発展に多大な影響を与えた人物ですから、これは本当に残念なことでした。こうして人類は、ヨハネの福音書の豊かな恵みを、かなり割り引いた形でしか受けることができていませんでした。

アウグスティヌスの従来型の時間観
 もしアウグスティヌスが「ヨハネの永遠観」に気付いていたなら、時間論に関しても、違った展開になっていたことでしょう。アウグスティヌスの有名な著作の一つに、『告白』という本があります。アウグスティヌスは、この本の前半では、もともとはキリスト教の信仰を持っていなかった自分が信仰を持つに至った経緯を書いています。その中では、母のモニカが息子の回心のために篤い祈りを捧げていたことも告白しています。そして、アウグスティヌスは、この『告白』の後半で様々なことに思いを巡らし、考察をしていますが、その中に時間に関する思い巡らしがあります。このアウグスティヌスの「時間論」の中に有名な一節があって、その一節は、20世紀以降に出版された現代の「時間論」の多くの本にも引用されています。私はここ何年かの間に「時間論」に関する本を、けっこう買い漁ったのですが、それらの本の導入部に、アウグスティヌスの『告白』の有名な一節が好まれて引用されています。アウグスティヌスは、このように告白しています。

「時間とはなんであるか。だれもわたしに問わなければ、わたしは知っている。しかし、だれか問うものに説明しようとすると、わたしは知らないのである」(岩波文庫、p.114)

 「時間とは何であるか」を、明瞭に説明するのは難しいものであるということを示すために、現代の「時間論」の本でも、このアウグスティヌスの告白は、好んで引用されています。そしてアウグスティヌスは、この有名な一節に続いて、次のように思いを巡らしています。

「しかもなお、わたしは確信をもって次のことを知っているということができる。なにものも過ぎ去るものがなければ過去という時間は存在せず、なにものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在という時間は存在しないであろう。わたしはそれだけのことは知っているということができる。しかし、それではかの二つの時間、すなわち過去と未来とは、過去はもはや存在せず、未来はまだ存在しないのであるから、どのように存在するのであろうか。」(p.114)

 ここでアウグスティヌスは、「過去はもはや存在せず、未来はまだ存在しない」と確信をもって書いています。これは、完全に従来型の時間観に縛られた考え方です。もしアウグスティヌスが「ヨハネの永遠観」に気付いていたなら、決してこのような考え方はしなかったでしょう。なぜなら、「ヨハネの永遠観」においては、【過去・現在・未来】は一体となって同時に存在していますから、アウグスティヌスが書いたように存在していないのではないのです。

三位一体論にも関わる「ヨハネの永遠観」
 アウグスティヌスが「ヨハネの永遠観」に気付いていなかったことは、本当に残念なことだったと思います。もしアウグスティヌスが「ヨハネの永遠観」に気付いていたなら、三位一体論に関しても、もっとしっかりとしたものが構築されていたことでしょう。ヨハネの福音書がどのような書かを深く理解するなら、三位一体の神についての理解も深めることができます。ヨハネの福音書の1章から11章では、「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」が並んで存在しています。そして「旧約の時代」においては御父が前面に出ており、「イエスの時代」は御子が前面に出ており、「使徒の時代」においては聖霊が前面に出ています。ですから、ヨハネの福音書の構造を理解しているのとしていないのとでは、三位一体論の理解の深まり方が全く異なってきます。アウグスティヌスは三位一体論についての本も書いています。もしアウグスティヌスが「ヨハネの永遠観」に気付いていたなら、当然のことながら、アウグスティヌスの三位一体論の考察も、もっとずっと深まっていたはずです。しかし、そうはならず、残念なことに三位一体論の解釈を巡ってキリスト教会は東方教会と西方教会とに分裂してしまいました。そして、西方教会はさらにカトリックとプロテスタントとに分裂し、プロテスタントはさらに細分化されて行きます。
 もし「ヨハネの永遠観」が2世紀以降の人類に気付かれていたのなら、キリスト教会がこんな風に分裂することはなかっただろうと私は思っています。そして、平和の実現のためにキリスト教会がもっともっと貢献できていただろうと思います。もしかしたら今頃は、戦争が無い平和な世界が実現していたかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。これは本当に残念なことであったと思います。
 しかし、「ヨハネの永遠観」を知ったからには、私たちは、この「ヨハネの永遠観」を世界に広める働きに全力で取り組まなければならないと思います。それが、今年の私たちに与えられている聖句の、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)ということです。

おわりに
 最後に、もう一度、マタイの福音書の5章に戻りましょう。5章の17節と18節を、交代で読みましょう。


5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 ここで、18節の一点一画という所にとらわれ過ぎると、木を見て森を見ないことになってしまいます。私たちに大切なことは森を見ることであって、すなわち律法に込められている父の豊かな愛に気付くことです。この、モーセが与えた律法に込められた父の豊かな愛に気付くことができるなら、17節のイエスさまが旧約聖書を廃棄するために来たのではなく、成就するために来たのだということがわかるでしょう。イエス・キリストは十字架に掛かり、死んだ後によみがえり、天に上った後に私たちに聖霊を遣わして下さいました。この聖霊の恵みによって、私たちは父の愛を豊かに感じることができるようになりました。こうして、恵みとまことがイエス・キリストによって現されました。
 このイエスさまが私たちに与えて下さった恵みは本当に素晴らしい恵みです。ですから、私たちは、この恵みを残すところなく、味わい尽くしたいと思います。もし律法が恵みでないと考えてしまうと、この豊かな恵みは痩せ細った恵みにしかなりません。そうではなく、律法は恵みであるとしっかりと捉えて、恵みの上のさらなる恵みを残すところなく味わい尽くしたいと思います。そうして、この素晴らしい恵みを、この地域の多くの方々に宣べ伝えて行くことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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