ウインドブロウ明けの27日夜、御前崎のサーフショップちうか季節限定のバーちうか、なJAZZBOOにてお店の10周年を祝うライブ。ケイソンとピーすけの二人ライブが、満月の照らし出す海のように綺麗だった。いや、そういえばイッピだかニッピだかサンピさんだかもずーっとナイスなシェイカーを刻み続けて、その存在はP-FUNKでいうジョージクリントン的だったのを思い出したから、三人ライブだった。なんでも年に三回くらい詩を書く人らしいのだが、この日はその三回のうちに当たらなかったようだ。後半に俺も飛び入ってギター弾いたり唄ったりしたが、今となっては何も覚えていない。兎に角、満月が照らし出す青い海のように、寄せては還す波のように、心地良いライブだったのだ。

ケイソンのギターは、うまい。一年間結論を出しかねていたが、結局あの人のギターはもはやうまい。すげーオリジナルというか、そしてうまい。ずっと、弾きながら生きてきたんだらうなと思う。そして唄がとてもソウルだ。ケイソンはマジでかっこいい。

半年ちょっと前に起きたいろんなことごとから時間は止ったままで、あれから一度も海に入っていなかったから、今回は眠たかったけれど朝起こしてもらって、波はなかったけれど入水できて良かった。前夜の打ち上げの二日酔いがひどくて、波待ちの間に一人ボードのうえで船酔いで気持ち悪くなったくらいだが、それでも入れてよかった。

時間がとまって以来寝ても覚めても胸に染み入る孤独を煩うようになったが、海や海と心が近い人々と一緒に過ごしている時間は、少しそいつを忘れさせてくれた。俺が昨年、まったく違う境遇で初めて出会った御前崎からちょうど一年。色々あったが、気がつけば少し確実に逞しくなった自分が居てそれはそれで嬉しかった。昨年ここで始めたサーフィンは、本当に衝撃的で、ゆるくゆっくりとしかし確実に俺の人生の向きを在るべき方角へと進める、一助となってくれている。

東京に戻ってきてから、立川の警察官がストーカーしていた知り合いの女を射殺して自分も自殺したなんていうニュースをみて、そいつをただの畜生とは呼べないと思った。そんな風に狂ってしまうほどに成就せぬ思いを抱いて生きている人はいくらでもいるし、その思い自体や起きてしまった事を哀しいとは思ったが、それを「トンデモナイ事件だ」風に語る世間という奴のほうが遥かに世知辛いと思った。哀しみを知らずに人の涙を踏みつけて生きていくくらいなら、生きる気力も湧かなくなるくらいのブルーズを味わって、それを経るのか経ないのかは今の俺にはまだ分からないが、そうやって皺を増やして少し人に優しくなれる自分で居たい。

そのやさしさというのも、ありきたりな甘い優しさでなくてもいいと思う。時によっては。

あのね。いい音楽が減ってるんですよ。上のほうで。
下のほうにはいいのが物凄い実りまくってるのに。

もっと世界中の音楽を聴くべしで、耳を少しは肥やしたら、今日本で売れている音楽のほとんどが何の精神性ももたない屑だってことに気付く筈なんだ。で、実は本物たちがメインストリームからは外れたところで誠実に、ずっと鳴らされてきたんだってことに気付いたら、大衆は自分たちの無力さに一度涙を流して、それから音楽も政治もそういった民衆が主役になって決めていくべきことの在りザマをみんなで勉強していったらいいのさ。

頭のいいフリしようと躍起になって、出来るフリしようと焦ってばっかで、自分に優しくなれないまんまで「癒し」ばっかり買って、そういう都会の真ん中の人々に言いたいのは、俺もかつてそうだったから言うんだけど、そういう心持が、世の中を悪くしてるってことに、気付いたら即行動起こすべきだってこと。どうせ動き始めてからだって、何年もかかるんだから。理想の場所への旅路は、長いですよ。だから、急な変化なんて起きやしないから、恐れずに踏み出せってこと。心の旅路は、いつだって一人で、それは誰にもみせられないのだ。

自然に生きる。野性の実践。それと知性は別のものではない。
金を追いかけて、複雑な論理の淵に当然の理性をも沈めてしまう人ほど、単純なものはない。まるで子供の欲望のようだ。

つまり、立川の警察官さんはシルジョンソンみたいな、あなたの心のどうしようもないブルーズを響かせて慰めてくれるレコードを一枚持っていたら、女ざかりの愛する人を自分に振り向いてくれないからって、殺さずに済んだのに。って思うわけです。俺は。


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「あなたのパフォーマンスはある種のサイキックで私は本当に精神病が犬式のライブで治った」

というフアンレターを間接的にいただきました。

そういう風に考えたことは無かったので面白いなと思いました。
そこで間接的に返答を書きました。


「サイキックですか。
そういう見方もあるね。

自分がライブの度に物凄い疲れる理由がわかりました。

それを保つために走ったり座禅したりしてきたけれど
自分が喰らってて駄目駄目なときもあって
そういうわけで犬式のライブは波が激しいです。

で、不調が続いて「今の自分は犬式としてのステージにたつべきではない」と思いながらも立ち続けたりもして、それ自体がまた壮絶な修行になり、なんやかやで続けてきたぶんだけの何かが蓄積されていきます。
何が蓄積されていくかというと、簡単にいえば「力」です。

ただの音楽やるだけならこんなに苦労はしない、と思いながら
なにゆえ自分の音楽はこんなに命を削らないと出来ないのだろうかと悩みながらやってきたけれど
サイキックといわれればそういうことかと思いました。

現代という人類史上最大最凶のバビロンで、もはや何が自然な正しさなのかがわからなくなりそうで右往左往しながら悩み苦しむ自分のような人たちに、その悩むことが出来る感性こそが正しいんだから其処から逃げずに答えを探し続けて死んでいこう。と、真顔でこの時代に語りかけて心の中にお邪魔する表現だから、それは「あああー♪」とか唄ってるだけで、あとは聴き手の個人的な感傷やノスタルジーやメランコリーやメモリーに対して故意的に共感を誘う言葉のわなをしかけてオリコン1位とかになってるような「商業音楽」とは、完全にパワーの使い方が違います。と最近、しみじみ考えています。

劇物だけに、世の中への伝播率がいまのところ低いので、生活はカツカツですが、それによって金への執着の必要ない生活スタイルをどんどん身に着けてきた20代です。 (注釈:別段、奇麗事を言うつもりは毛頭なく。それでもお金は必要です。山仁に云われてから、財布の中のお札は揃えるようにしています。最近、中学生の時に岡山の伯母さんに買って貰った財布がズタボロなのがお金に縁の無い理由ではないかと思い、とうとう新しい財布にしました。RENATURE社製のHEMP生地で出来た逸品です。ギターを修理したり、丸の内のビル群を買い占めて森林に戻したりするくらいのお金は欲しいと思っています。)

これによってさらまた、自身の主張を体現する必要が自然に生まれて、いずれは山や海に自分で掘っ立て小屋を造ってそこから世界をみてみたいと思うて居ります。


いつの日か、限りなく安定して心の在りかを見つけたときに、私のパフォーマンスはイチロー選手のように極意を悟った御人のレベルに達することができるのではないでしょうか。


誰もが何かしら、必ず世界を変えられるという
誰もが何かしら、欠片ばかりの「正しさ」としか呼べない何かを携えて生まれてきているという
そういう信念を実践する喜びを、
自分の中の悪徳を認めて抗う苦しみを、
自己矛盾しながらもほんのひととき、神々しいまでに在るべき自分で居られる術はあるということを、
理由はわからにゃのだけれども
訴えかけたくて仕様がないのです。


いつもありがとうございます。 」


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というわけで、8月23日は大阪・梅田はシャングリラにてワンマンライブです。

フェスでもない、ツアーでもない、ワンマンなので、完全に我々の時間軸でやらせてもらえる。お客さんがた、要走りこみやでー。

私も炎天下、走りこんでます。


そして、先日徹頭徹尾の翌日に予定していた国立・日酒麻夏でのライブを楽しみにしてくれていた皆さん、申し訳ないです。
此処数ヶ月酷使していた喉が、遂にこの日声を涸らせてしまったのです。
ライブを飛ばすほど声が出なくなったのは当然初めてですから、これまで随分と荒っぽく扱ってきた喉を真剣に労わる勉強を始めました。

随分と久しぶりに喉を医者に診てもらい、今後の日程のために漢方や薬をもらいました。10月までは我々にとって重要な意味を持つライブが続くので、頑張っていこうと思います。

29歳になると、こういう事も起きるのか。という感じで、とりあえず居ても立ってもいられないので炎天下で走りこみをしたり、時間の許す限りフェンスにシュート練習したりしています。独り少林サッカー。

14日にスーパーバタードッグのトモヒコの郷里、新潟県加茂市でHEAVYLOOPERSseSSIONでのライブがあり、トモヒコ(ベース)・ヒロキング(ブルースハープ)まではこれまで通りながら、ドラムのPすけが来られなかったためにクロマニオンからシゲを迎えて演奏した。声は抑え目で、楽器によるジャムで40度の炎天下ライブした。
この時に、トモヒコの友人でK-1の安弘一哉(正道会館)選手が「演武」で同行した。KIDなどとも名試合をした、列記とした一流選手である。

この彼が、実に面白い・相当笑える野生人物だったのだが(最終的には「M-1」選手扱いになっていた)、何はともあれ「トップアスリート」の出す、それも現役選手の出す一種の緊張感というか、ピリッとしたオーラが、私にも伝わってきて、表現者としてネクストレベルに到達する試練に在る自分にはとても良い刺激だったのです。



大阪のワンマン、そして続く静岡のウインドブロウ。
両ライブとも、秋実るa.k.a.山仁がオープニングアクトです。

セイヤァ。


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WARPのヒデキが随分と逞しくなって嬉しい限り。
ASIAのパンチも負けては居られまい。

私は自分から動く人が好きだ。言わなくてもやる男が好きだ。
クリエイターを名乗りながら、簡単に現実の枠にとらわれて理想を諦める者も少なくないが、再三繰り返すが「空気は読む」ものではなく、「かえる」ものだ少なくともクリエイターを自称する者にとっては。

創造的行為によって此の世のクリエイションに微力ながらも携わろうという気概はこれすなわち、何もない*ところから何かを生み出す「生みの苦しみ」を避けては通れぬのに、インスタントな感性に仕上がってるバビロニアンたちはこれを避けてしかしなおかつ何か充足はしたいという矛盾した欲望を抱えて苦しむことになる。(*)厳密には「なにもない」のではなく、この宇宙に充填するエネルギーを自分の形に変換させることなのだが)

ダビンチだかミケランジェロだか、中世ヨーロッパの絵画には詳しくないのだが、それ系の偉大なる画家の絵を観てぶっ飛ばされたことがある。
真っ白いキャンバスを前にした高名なる画家本人の自画像。
その周りを、悪魔や天使、地獄や天國、化け物や神がゴチャマンと取り囲んで彼に迫っている。
真っ白なキャンバスに「始めの一筆」を入れるまでの壮大な葛藤と勇気を描いた其の絵に、とても力をもらったことがある。


本日のように茹だるような暑さの中では、無気力との闘いがまず最初にやってくるのです。イチローですらせいぜい10回に4回なのです。だから、毎度表現行為が成就するわけではないけれど、ゴン中山は「俺は下手で一回で決められないから、チャンスにでくわす回数をひたすら増やせばゴールは増えると思っている」と言うているのです。ジョーストラマーが「ひらめき?フザケルナ。毎回毎回必死にひねり出すんだよ!」と吐いて捨てたのが、芸術行為なのです。

自分で書いててやる気出てきた。



これからの徹頭徹尾は吉祥と渋谷の二頭時代到来。

発祥の吉祥寺と、発展の渋谷でそれぞれに意義ある夜を作り上げていくことになる。

「吉祥徹頭徹尾」今夜開催。
「渋谷徹頭徹尾」12月1日から偶数月第一土曜日開催(原則)。
「大徹頭徹尾」12月30日開催。


昨夜のnbsaルームはkeycoとそのバンドのKOKYOが素晴らしいセットを披露。
DJたちも獅子奮迅で、韓国いってるクロマニの不在を皆で埋めた。

お客さんもきた。DJも最後まで皆を楽しませた。

だがしかし。nbsaROOMは偶数月第二金曜と相場がきまっております。
昨日会えなかったあいつやこいつ、お前にお前。
主役級がもっと顔そろえたら、弾けると思うな。

というわけで、初のセッション中止という負のニュースは、伝えさせてもらいましょう。ナントナク、では何も生まれないのです。そういう緩んだ気概から、消えていくのが文化の落ちです。警鐘ー カーーん。



会う人会う人「洋平・元気?」と私にきいてくれる。

「元気?」
なんて難しい質問だと思った。

今日も包み隠さず、カラ元気も本元気も、哀しみもはにかみもブルーズもファンクも怒りも憎しみも、レベルもレゲエも、ごった煮にしてステージに上ろうと思います。ひとりの、いやよにんの、迷える犬人たちの暗夜航路を音という軌跡にして、しかし何故か最終的には肉体言語として踊り明かすグルーブで。最後に残った「湯の花」みたいな糟を、持って帰って庭木にまいてください。来年、桜が咲きます。


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ラマが終わった。
ウエダも終わった。

また久しぶりに家に帰ってきた。
この半年で一ヶ月ちょっとくらいしか家に居ないね。


ラマやウエダのような地方の熱いフェスに行って、そこに集まる人々と出会うたびにこう思わされる。
「嗚呼、日本は大丈夫なんだ。」
「嗚呼、俺も大丈夫かも。」


終わったらまた始まる。
終わりが始まる。

今週は久しぶりにガッツリ東京ウイーク。10日いつものnbsaROOM@渋谷ROOM。11日我らが吉祥徹頭徹尾@吉祥寺WARP。12日国立ヤーマンクルー!日酒麻夏!西東京は国立が東京のレゲエバイブスのひとつの土壌となっているのですが、そこにユカリのある人々が結集してます。さあ、東京の人にとっては宿の要らない自宅から通える3ステージ。『東京いつもの日常の中に爆裂するバイブス・フェスティバル07’』。渋谷ステージ・吉祥寺ステージ・国立ステージ全部参加した人は最終日国立でお声がけください。熱い抱擁をプレゼントいたします。東京ローカルの熱をみせてくでえええええええええええ!!!!!!!

本日は来年予定しているnbsa東京、通称「大nbsa+×÷」の会場選定会議。
シゲや俺やスタッフたちと。ちょっと在りえないシチュエーションを考えてます。
この件ではウエダでもソイルの元晴らと意見を交換。(ちかごろ多忙な仲間たちは、ウエダで結集して久しぶりに顔をそろえるのが楽しみになってきた。らぞくやコパとは今年は入れ違いで会えなかったけれど、長野と広島をグランドクロスするようになったお互いが嬉しい限り。)

を楽しみに。そして頑張るシゲ棟梁・三宅王子に、二人をたくみにアヤススタッフたちに、無農薬野菜や自然食品、自分で創った果実酒などの差し入れをどうぞ。夏を、秋を、そして冬を突っ走って、春を迎えるのだあ!!!!!(つまり開催は春を予定しているということ)

其の前に仙台・大阪・広島・福岡でnbsa+×÷を開催することになるでしょう。

最後に東京が在りえないシチュエーションで、
「今日本で鳴ってる本当の俺たちの音楽」
の祭典を開催するのです。

無論、俺やシゲやnbsaの面々の年々広がり行くアンテナで捉えられる限りの出演者に声をかけていきつつ、それはさらに未来永劫ひろがっていくのであります。



広島に原爆の落とされた日が過ぎて
長崎に原爆の落とされた日が近づいて
大日本帝国という追い込まれた日本がOCCUPIEDJAPANという飼い慣らされたJAPANに生まれ変わるという終戦記念日が近づくこの季節。

僕はひとつだけ答えを知っています。
それは今このメッセージを受け止めてくれているアナタがたった3分でも、こうした歴史のいびつな事実と現在とを照らし合わせる時間を持ち(know the place you're standing in  think the time you're living in )
たった3行でもこうしたことに関する知識を新たに仕入れるということです。
(知識は自由の扉を開く鍵)


僕の私見から選んだこの文章を引用して、多忙な真夏の日々、心身のバランスを保たせてくれている皆さんに日ごろの感謝の念を込めて、本日のブログを閉じます。(どうぞ皆さん、徹頭徹尾にようこそおいでませ。忙しくて告知に時間をさけなかった感があるため、ソワリソワリしているのでR。だが中身は凄いのでER。)


哲学者・梅原猛氏 集英社『梅原猛著作集』⑱「記紀の再検」より

「戦前の日本人は、日本の古典について、余りにも無条件に信じすぎたという過ちを犯したように、戦後の日本人は日本の古典について、余りにも疑いすぎたという過ちを犯したようである。いいかげんに、自国に対する侮蔑の眼から、われわれは自由にならなければならぬ。まさに、仏教が教えるように、真理は過剰な信頼と過剰な懐疑の中間にある。日本古典にたいしても、われわれは過剰すぎた懐疑論を克服して、中間の立場に立ち、真理を発見するに必要な公正な眼をもたねばならない時代に来ている」


お盆。合掌。


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