「あなたのパフォーマンスはある種のサイキックで私は本当に精神病が犬式のライブで治った」

というフアンレターを間接的にいただきました。

そういう風に考えたことは無かったので面白いなと思いました。
そこで間接的に返答を書きました。


「サイキックですか。
そういう見方もあるね。

自分がライブの度に物凄い疲れる理由がわかりました。

それを保つために走ったり座禅したりしてきたけれど
自分が喰らってて駄目駄目なときもあって
そういうわけで犬式のライブは波が激しいです。

で、不調が続いて「今の自分は犬式としてのステージにたつべきではない」と思いながらも立ち続けたりもして、それ自体がまた壮絶な修行になり、なんやかやで続けてきたぶんだけの何かが蓄積されていきます。
何が蓄積されていくかというと、簡単にいえば「力」です。

ただの音楽やるだけならこんなに苦労はしない、と思いながら
なにゆえ自分の音楽はこんなに命を削らないと出来ないのだろうかと悩みながらやってきたけれど
サイキックといわれればそういうことかと思いました。

現代という人類史上最大最凶のバビロンで、もはや何が自然な正しさなのかがわからなくなりそうで右往左往しながら悩み苦しむ自分のような人たちに、その悩むことが出来る感性こそが正しいんだから其処から逃げずに答えを探し続けて死んでいこう。と、真顔でこの時代に語りかけて心の中にお邪魔する表現だから、それは「あああー♪」とか唄ってるだけで、あとは聴き手の個人的な感傷やノスタルジーやメランコリーやメモリーに対して故意的に共感を誘う言葉のわなをしかけてオリコン1位とかになってるような「商業音楽」とは、完全にパワーの使い方が違います。と最近、しみじみ考えています。

劇物だけに、世の中への伝播率がいまのところ低いので、生活はカツカツですが、それによって金への執着の必要ない生活スタイルをどんどん身に着けてきた20代です。 (注釈:別段、奇麗事を言うつもりは毛頭なく。それでもお金は必要です。山仁に云われてから、財布の中のお札は揃えるようにしています。最近、中学生の時に岡山の伯母さんに買って貰った財布がズタボロなのがお金に縁の無い理由ではないかと思い、とうとう新しい財布にしました。RENATURE社製のHEMP生地で出来た逸品です。ギターを修理したり、丸の内のビル群を買い占めて森林に戻したりするくらいのお金は欲しいと思っています。)

これによってさらまた、自身の主張を体現する必要が自然に生まれて、いずれは山や海に自分で掘っ立て小屋を造ってそこから世界をみてみたいと思うて居ります。


いつの日か、限りなく安定して心の在りかを見つけたときに、私のパフォーマンスはイチロー選手のように極意を悟った御人のレベルに達することができるのではないでしょうか。


誰もが何かしら、必ず世界を変えられるという
誰もが何かしら、欠片ばかりの「正しさ」としか呼べない何かを携えて生まれてきているという
そういう信念を実践する喜びを、
自分の中の悪徳を認めて抗う苦しみを、
自己矛盾しながらもほんのひととき、神々しいまでに在るべき自分で居られる術はあるということを、
理由はわからにゃのだけれども
訴えかけたくて仕様がないのです。


いつもありがとうございます。 」


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