私は
山口仁とディエゴアルマンドマラドーナを好きなのと同じ理由で
亀田一家を応援している。
(彼らの素行に私個人として賛同しかねる部分があることも、また拳闘にお詳しい方々や関係者からすればより切迫した問題のあることも認めたうえでの発言であることをご了承いただきたい)
ネット上にはこのような書き込みが乱発されている
「亀田一家 っていうより 世間知らずの亀田四兄弟。シネ。」
私は、己のことを棚にあげて他人を「世間知らず」よばわりする
「世間」の中に埋もれてその顔も名前も出さずに「世間」を名乗る
「その他大勢」の無意識の暴力が最も忌み嫌うものである。
人の痛みって、想像するのは難しいけれど
味わったことのあるものにはよく分かるものだから
心を骨折したことがある人や
今まさにしている人たちには
その経験によってあなたは必ず誰かを救うことになるから
頑張れ
といいたい。
むろん、メディアにのり世の中をリードする立場になればなるほど
こうした有象無象の阿鼻叫喚はつきものだけれども
「己を命がけで主張する」ものには、
その主張に見合った結果を期待したいし祈っている。
無名性に埋もれて鬱屈としている「実は何もしていない人々」に言いたいのは
こうした人々が寝転がってTVみながら「亀田ファーック」とかバッシングをしている間にも
彼らはボクシングをしているということだ。
で、「世間知らず」という言葉を吐く人々のたいがいは
「クリスマス商戦」に踊らされて
少しは賢いようなふりをしていながら
12月には必ず数百億円を商人たちに献上してしまう
そういう人々なのだ。
小泉改革なる悪政治を
よく勉強もしないでブラウン管に踊らされて支持した挙げ句
国の根幹をなす重大事を米国の操作の好きなままに出来るみえないシステムを作り上げさせてしまい
そして目に見える恩恵の己に降ってこないのを今になってブツブツ不平垂れる
そういう卑屈な根性の持ち主たちである。
確かに、こうした人々は「世間」そのものである。
こうした人々の考えるところは、研究の余地こそ大いにあれども
私の与り知るところではない。
世間知らずで結構である。
「でもね、こういう人たちにも買ってもらわないとレコード売れないよ」
とは旧い音楽商人たちの感性であり
よく言えば思いやりなんだが
私はこうした卑劣な大衆に下げる頭はもたない。
私は、己の表現の精神までをも金に換えるつもりは毛頭ない。
言いたいことを封じてまで
真実の言葉を封じてまで
金のために嘘をついてまで
己を誤摩化してまで
壇上に立ち続けようとは思わないし
そのようなことをしなくても
壇上に立ち続けさせてくれる人々のいることに
哭くほど感謝している。
ありがとう。
もう一度言う。
世間知らずで結構。
私が命を賭して協力したいのは
そのような世間の風潮とはハッキリと決別した
もっと自由で
もっと愛に溢れ
もっと美しい
そういう世界なのだ。
他人に世間知らずと吐く人々は往々にして「世界知らず」である。
私が欧州のキリスト教国で生まれ、味わった20年ほどまえのクリスマスは
コカコーラレッドに染められたサンタクロースというルシファーのための人々の欲望につけ込んだ格好の商機ではなく
聖ニクラウス(セントニクラウス)の恵まれない子供たちへの愛の贈り物に象徴される
イエスと呼ばれた古の独りの聖者の誕生を心から祝う
厳かにそして喜びに溢れた
そういう風習であった。
この世のバビロン化が進んだ現在の欧州があれからどのくらい変わったのかは分からないが
少なくとも米国というプロテスタントたちの亜流の祝い方(源流から二親等の此処まではアリなのだが)
を、その魂胆と精神性なくして
ただ金のために百貨店がこの国に蔓延させた日本のクリスマスとは
まったく趣を異にするということは断言しておきたい。
そして、私が言いたいのは
クリスマスのあり方なのではなく
私が所属している此の「世間」のあり方なのである。
「クリスマスなのに家で煮魚」
大いに結構じゃないですか。
拙著 自由韻律詩「真冬のラスタファリズム」(Life Is Beatfull 収録)より抜粋
久々に上京して来た親父が呟いた
まかり間違えばお前はテロリストじゃないか
自己実現と理想の実現
中吊りに踊るは低次元の世間
雑居ビル織りなすコンクリートジャングル
ハリボテの街にじきに響き渡るジングル
ベルが鳴れば狂騒に踊りだす人々
バイブルも手に取らぬにわかキリスト教徒
一頃シスターの教えをうけると
容易にはなりきれぬ似非ブッディスト
灰色だとか黒だとか
しけた色が占めるこの電車内で
味気ないリアリティ感じ取った
もっと色が欲しい音が欲しいこの社会に
大徹頭徹尾まで あと2週間 確実な入場のためには、前売り券のお求めを