野見山暁治(1983~現在)の文章が好きだ。今まで読んだ『四百字のデッサン』『とこしえのお嬢さん』『空のかたち』『アトリエ日記』、どれにも驚き愉快になる。人も景色も空気も頁から立ち上がる。「達意の文」とはこういうものか、高峰秀子氏と志村ふくみ氏の文書(随筆)もそうだ。「言葉使い」の達人は絵も演技も染織も達人。
だが、絵の方はどれもわからない😄実物見たことないが、頭はボーッとなり、身体の方が妙に熱くなる気がする。下の動画は参考で貼り付けたが、画廊の売り絵だからこじんまりしている。それでも火山噴火の兆しぐらいは感じる。絵とは何かを考えさせられる。
「手品師がポケットから鳩を何羽も出してくると不思議でしょう。『今度は富士山を出すよ』と言ってその形の模型が出てくると何でも無い。単なる模造品だもの。でも、ポケットから一瞬にして『あの大きさ』が出てきてごらんなさい。その強さや迫力、宇宙に対してグワッとした存在感が出てきたら、そのときには富士山であろうとなかろうと構わない。だれも『富士山とは違うよ』とは言わない。うわっと驚く。世に言うかたちなんてどうだってよくなる。それがほんとうの`かたち`なんだ。」(野見山暁治著「のこす言葉 人はどこまでいけるか」:平凡社から)
余談だが、山口薫後任の芸大教授が野見山暁治。山口は豪農、野見山は炭坑経営という家の生まれ。芸術に生きるのは今でも大変だが当時はこういう環境で無ければ無理だったのだ。
そういうこともあるのか、二人の画家の、絵が売れないとか、もうすぐ死ぬだろうとかの言葉もどこかのんびりというか、のびのびしている。本業の絵もスタイルは全然違うがそんな感じがどこか共通している。
『陶酔と覚醒』(沢木耕太郎〈訊いて、聴く〉:平凡社)読む。建築家・安藤忠雄、登山家・山野井泰史と妙子が印象に残る一昨日コメントくれた『きたきつね』さん、我が家はママヨさんがルーペで点検したところ異常なしでした。