波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

立ち止まる言葉【『コンビニ人間』を巡って】

2020年01月31日 | 読書

聞の文芸時評(1/29朝日新聞)に、偉大な世界文学だと『コンビニ人間』(村田沙耶香著)が取り上げられていてホーッと思った。去年夏の読書会で話題になり、その後、波風氏含めて参加者全員が読んだ本だった。読書会最初の「これは読んでみたい本」第1号なのだ。
時評では「日本が舞台でも、無媒介的に〈人間〉そのものを掴み取っている・・・・・そんなことが出来る作家は他に知らない。彼女が書いているのは〈偉大なる世界文学〉だ。」と小野正嗣氏。この方は、NHK日曜美術館の司会をされている小説家だが、テレビ(NHK「100分de名著」)で『燃え上がる緑の樹』の解説をされ、この方の書いたNHK出版のテキストが手元に無ければ読み通すことは無理だったと思う。難解なことを親切に説明してくれたから、この方の本も「いつか時間が出来たら」読みたいと思っていた。
家族3人で時評を読み、そこにあった『無媒介的』というが話題になった。直接的でないという解釈で決着したが、3人とも『コンビニ~』を読んでいたから珍しく高尚な会話になったのだろう。

                  

の時評に、「(作者の偉大さは)一度は感じたはずの社会や他者や自己への疑念をちょっぴり増幅させた不思議な人物たちを通して、誰にでも届くシンプルな言葉で、現実の見え方を変えてくれる」ことだ、とあった。そうか、登場人物に感じ続けた違和感は、自分自身が前から持っている「疑念」を引っ張り出された不安と怖れで、読み進める中で登場人物が自分を肯定し常に堂々としていることに驚ろき続けたのを思い出した。読後、「マニュアル通りに仕事できる誇りの自分が悪い、全体を動かす一部品としての役割の何が悪い」と思った。だから、「平成時代の典型的な人間像を描いている」みたいな作品評には合点していたが、この作品だけではまだ〈偉大なる世界文学〉に連なるとは思えない。

この小説を読んで、笑ったことは覚えている。そこは、全く笑えなかった世界的文学の『燃え上がる~』と違う。あの時の笑いは、とても説明しずらいのだが、薄々気づいているが口に出すのは恥ずかしいところを笑い飛ばすまでにはいかず、そうかといって見て見ない振りも出来ない感じに近い気がする。。


見たかった映画『新聞記者』、賃料500円払って見る。現実政治は抜群に面白い表現材料になるのだ、と思った。

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立ち止まる言葉【小説など】(上)

2020年01月30日 | 読書

 

書館から借りてきて『哀愁の街に霧が降るのだ』(椎名誠著)を読んでいる。昭和40年代の作者のリアルな青春体験、何とも馬鹿馬鹿しく騒々しい小説とエッセーの分類不可的散文。最初から声を出して笑い、そのうち何とも言えない切なさ感じいつの間にか悲しさ漂う。これと同じく「いつか時間が出来たら読む」と決めていた『燃え上がる緑の樹』(大江健三郎著)をついに4ヶ月かかって読み終えた。こんなにかかった理由やなぜこの本だったのかは、表裏のブログで書いているので略。この本の感想を一つだけ言うと、笑うところが1ヶ所も無かった、かな。「存在しない神に祈る」(解説の題名)といった類いの世界的文学とはそういう本なのだ。良かったことは、何はともあれ読み終えたという屁の突っ張りにもならない自信と、ずうっと適当にやってきた「祈る」とは実はどういうことなのかを考えるきっかけにはなった。

辞苑で「募集」と「募る」を急いでひく。国会中継を見ていて「?」と思ったからだが、言い間違いではなく、正しい意味を知らないで使っていることを馬鹿にできず、どういうわけかこちら側が恥ずかしくなった。我が国首相の無知ぶりは旧知の事実だが、こういうのは笑えないし、笑いたくない。この失態、嘘が明るみにでた瞬間だつたが、たぶん、質問した野党議員も、「?」と思いつつ、間違いを教えることに恥ずかしさというか、面はゆさを感じていたと思う。いや、是非そうであって欲しい。そうでなければ、政治は庶民からますます遠い。 (次回の下に続く)


開架式本棚には無い『哀愁の~』全3巻、閉架式の方にあった。開と閉それぞれに10万冊前後所蔵と図書館の方。図書館は偉い(笑)。昭和58年発刊だと有名本でも借りる人は希なのかな。 間違いを教えて貰った首相が、「ありがとうございました」と言えば大したものだが・・・・ギゾウ・ネツゾウ・アベシンゾウ・・・ありえないね。

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言葉のケイコ【その拾捌(じゅうはち)】

2020年01月28日 | 【保管】言葉のケイコ

うちのともちゃん(優しい成人式編)

年も成人式の季節。思い出すのは、ともちゃんが小学校4年生、10歳のとき、クラスで「二分の一成人式」というものが行われたこと。ここ何年か流行している行事の1つで、大々的に行う小学校もあるときく。ともちゃんのクラスでは「二分の一成人式の誓い」や、自分の将来に向けた「決意表明」などを保護者の前で、という内容。私も仕事の合間を縫って参加。ああもう10歳になったんだなぁと感慨深く我が子を見つめる。クラス全員で元気に誓いを読み上げた後、個人の決意表明へ。将来こんな人間になりたいということをそれぞれがしっかりと述べる。「消防士になりたい」「助産師になりたい」「サッカー選手になりたい」など、みんないい顔。我が子ではなくとも、涙が自然とあふれてくる。そうしていよいよともちゃんの番になった。ともちゃんは「将来これになりたい」という明確な目標を言わない子どもだったので、何を言うのかドキドキ。10歳のともちゃんはまっすぐ前を向き、はっきりとした大きな声でこう言った。

「ぼくは、お母さんのような優しい人になりたいです」
ともちゃんが見ていたのは、家にいる私だけではない。ちゃんと仕事をしている私のことも見ていた。そして、私を肯定してくれた。環境が変わった今でも私はこの言葉を糧に、日々を過ごす。10歳の時点でとっくに私を超えた、優しい我が子とともに。

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コメの学習帳25頁目

2020年01月26日 | 【保管】こめの学習帳

(前回からの続き)

「暮らす」論への研究ノート(2)

日々をどう暮らすかを考えるときに、どういう生活をするのが「カッコいいのか」を考えてしまうのは、モデルが着ている服を着たいと思うのと似ているだろうか。無数の参考事例がネット上にある時代だから、モデルには困らない。困るのは、そうやって暮らし方を決めると物が増え、混乱することだ。

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ちょっと気になっているのが「ミニマリスト」と言われる人たち。家具や服などを極端に減らして生活している。ふとんもベッドも使わず寝袋で寝る人もいるし、鍋やフライパンを使わずキャンプ用の鍋1つで自炊する人もいる。そこまで極端でなくていいのだが、イメージはホテルの部屋。そこに自分の物が少しあったらどうだろう。自分の持っている数少ない大切な物に集中できるだろうか。

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19頁目の「黒い塊」とも関係するのだろうが、自分は自宅で落ち着いて過ごしたい、1つのことを終わらせてから次のことをしたい、でも自分の性格に任せていてはできない、だから集中できる環境にしたい、と思っているようだ。今のところそのような環境下にあったことはない。ぜひ試してみたいが、やろうと思うたびに物の多さに途方に暮れる。「暮らす」論の確立への道は長い。


【波風氏談】コメ氏の『暮らす論』、波風氏にも大きな課題。「もの」を持たない暮らしと、「こと」を最小限にする暮らしは両立できない。それをわかった上で、シンプルに暮らしたいとずーっと思い続けている。

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立ち止まる言葉【温もりの広告】

2020年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

元紙掲載の眼鏡屋さんの広告、というかお知らせ。そろそろ出る頃かなあと思っていたから、メガネのロゴマーク付きの囲み広告を目にして嬉しかった。いつもより少ない字数の文章は、あれこれ想像する余地をいつもより提供してくれた。

母さんがお一人で暮らしておられるのかとか、あの修行中の息子さんはどうされたのかなどと思った。そして、この評判の良い眼鏡屋さんは、こんな形でお客さんと地域に実直で心優しい姿勢と覚悟を休業連絡の形で発信し、それがそのまま広告になっていることに感心する。大資本チェーン店に負けない家族経営店のあり方、マスコミに対するミニコミの活用、立ち止まらせる言葉の使い方に。

※関連するブログ記事・・・・「息子よ、ガンバレ」(18.11.7)、「臨時休業のお知らせ」(19.1.29)、「臨時休業のお知らせ【19春】」(19.4.8)


明日、今年最初の読書会(第16回 ほんのおつきあい)。いつも通り14:00から波風宅で。参加費200円(昨年まで100円でしたが増額分100円を「子ども食堂」カンパに)します。参加希望者は、準備の都合もあり可能ならこちらへご連絡下さい → namikazetateo@gmail.com 

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