えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・『食前方丈 八百善ものがたり』 雑感

2020年05月30日 | 読書
 東京の料亭「玉川」の建物が解体されるニュースを聞きながら、江戸時代から続く料亭「八尾善」の九代目女将のものした『食前方丈 八百善ものがたり』を眺めていると、そこで動かされていた金額の莫大さという太い柱が見え隠れする。創業者の初代栗山善四郎が没した一七〇八年には既に店があったという老舗で、現在は著者の孫の十一代目栗山善四郎が跡を継いでいる。年代を見ればすぐわかることだが、江戸の始まりから三百年以上東京の真ん中で時代を見続けている生き字引のような店だ。

 とても控えめな本だ。「八百善」が保管し続けていた書画や文書などの史料の紹介を中心に、江戸時代から明治時代を駆け抜けた四代目から七代目が料亭というしょうばいを通して関わった時代を淡々と語る。享保の改革のあおりをうけて豪勢を売りとする料亭しょうばいの緊縮を潜り抜け、跡継ぎたちの死を乗り越え、名物とも揶揄された火災をも潜り抜けて史料は「八百善」という店が「栗山善四郎」という人の手を通って生き続けてきたことを示し続けている。特に文化文政時代に文人たちの高級サロンとして蜀山人や酒井抱一に愛好された四代目の時代に多く筆が割かれている。その華やかさは川柳にも記されている。

詩は五山 役者は杜若 傾はかの
芸者はおかつ 料理八百善

 あまりにも水が悪すぎて、おいしいお茶漬けを作るために飛脚を鳥越から玉川上水までかっとばしたので現代の価格に直すと一杯六万近く費用がかかったり、食事券に記された金額分を使いきれなければ差額を現在の価格で四十万近くも払い出したり、と、上方とはまた違った堂々とした奢侈の気風が江戸らしい。料理の研究のために日本中を旅した四代目善四郎が、何故か京阪の料理については一切触れていないところには引け目じみた親近感を覚える。思うところがあったのか、書くこともしたくない何かが起きたのだろうか。

 惜しむらくは史料に敬意を払った結果、現在の「八百善」に繋げる「ものがたり」が薄いことだ。たとえば上方の料理に対して江戸の料理は地方色が薄く、「非常に豪奢なもので、一般庶民の口に入るものではなかったので、これのみが江戸料理と決め込むことはできないが、関西料理とは違った江戸特有の料理」の、差異の部分は詳述されない。また、「八百善」のしょうばいの仕方については折詰が古くから売り物である以外はほとんど触れられていない。それでも献立表や当時の書簡などをめくっているだけで漂う老舗の古格が、一種妙味を醸し出している。
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・『配膳さんという仕事 なぜ京都はもてなし上手なのか』 雑感

2020年05月26日 | コラム
 地元で長く店を続けている喫茶店の店主から「昔と比べて世知辛くなった」「バスに乗れない」「日本人がさっぱり来なくなった」といった、外国人観光客の増加に比例して増えるどちらかといえば負の方向が多い変化をここ十年で京都は急速に遂げている。『配膳さんという仕事 なぜ京都はもてなし上手なのか』をめくっていると、一九九六年の本に加筆修正した内容とはわかっていてもことばとまちの落差に慄然とする。「配膳さん」という、京都だけに育まれた接客業務全般のプロ集団は、彼らの髪の毛の先まで凝らした細かいサービスを感受できる客無しでは成り立たない。そういう客は、京都の表面である観光業へ徐々に押されて影が薄くなりつつあるのだろうか。

 山鉾巡行など大きな行事から個々人の宴会まで、「配膳さん」が面倒を見る現場は京都の文化の多岐に渡る。紋付袴で客の前に現れ「行き届く」という言葉が生ぬるいほどの、無粋な関東人の目から見れば過剰な気遣いで初めから終わりまでが滞りなく済む。たとえば名前通り客の前へお膳を配ったり、客の食事を見守り厨房へ料理の出すタイミングを伝えたり、茶会に使う窯の湯加減を見続けたり、儀式の衣装を子供に着つけたり、と状況に応じて自在に活躍する。雑駁に言うと雑用の専門家だ。ただし、その「雑用」は「京都人の中華思想」に裏打ちされた高度な教養や繊細過ぎる文化が求める「雑」である。徹底的に内心を薄紙で何重にも押し隠すような「気遣い」における「雑」が、関東人の考える「雑」であるわけはない。当然ながら本書には安易な考えで茶の湯の礼儀を取り入れたしつけを仲居に施して失敗した料亭などが比較対象として用意されている。無粋な関東人としてはせせら笑われているような指先を常に紙の裏から読書の間感じていた。

 彼らの関わる仕事の舞台は粋で優雅だ。料亭の中でも政府高官が接待に利用するような高級に位置するところや能舞台、大徳寺や建仁寺等々古刹と並みの人間ならば息が止まりそうな現場の、最も気難しい人たちを彼らは「もてなす」。もちろんそのサービスには心の温かみを覚える気遣いや人格は存在しているのだろうが、どちらかといえば「あしらう」「手玉に取る」という、ライン作業のように機械的で正確な手さばきのほうが相応しいように思う。もちろんそれではならないのだと書かれてはいるものの、それをされて打ち寛げる人物やそれに得心して悦に入る人間を行間に想像することはそこそこ難しい。

 その感性の乏しさが「配膳さん」という仕事が継承されない理由ではなかろうかと自虐的になるのは、この本に対して間違った態度ではないと思う。大正生まれの吉崎潤治郎のいた平成三年から令和にかけて、「配膳さん」が役割として働く場はあまりにも少なく、独立した仕事はばらばらに解体されて時代に溶けているようだった。
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・車番組聞き流し

2020年05月16日 | コラム
 有料チャンネルのテレビをコンピュータゲームの代わりに観るようになってから一年ほど経つ。残念ながら昨年の今頃に放映していた武器づくり番組『マスター・オブ・アームズ』のシーズン2や再放送の機会はなく、定期的に放映されている車を取り扱った番組をぼんやり流している。日本で例えるならば『劇的ビフォーアフター』などだろうか。ほとんどの番組が車を改造したりレストアする過程が中心となる。ものを作る過程を中心に放送するコンセプトは『マスター・オブ・アームズ』も同じだとは思うが、飾り物の武器と日用品の車とでは愛着も違うのだろう。タレントも出ず、若い女性が騒ぎに来ることもなく、どの番組も趣旨は違うが基本的にはまじめに仕事をしている。
 現在「モータートレンド」シリーズとしてまとめられている『名車再生!クラシックカー・ディーラーズ』『カー・SOS』『廃車復活!スクラップヤードチャレンジ』『カスタムカー』『スーパーカー改造』『ファスト&ラウド』、あとは『ミリタリー・モーターズ』がよく流れている。イギリスの番組とアメリカの番組が程よく入り混じり、廃車にされた軍用車両を扱うのが目玉の『ミリタリー・モーターズ』以外は誰でも聞き覚えのある車メーカーの車をずらりと取り扱う。
今年から放映の始まった『廃車復活!スクラップヤードチャレンジ』は少々毛色が違い、廃車の車庫から使えるものを組み立ててスーパーカーとのタイムアタックに勝利するという趣向だ。第3回目では45度の坂道をスーパーカーの出した10秒以内に駆け上るというチャレンジで、脱落チームが出たものの、最終的にはほぼフレームだけの小型の車の後ろ半分を切り落としてスズキのバイクを二台合体させたスチームパンクな一台が4秒の記録を叩きだして勝利した。文字に落としているだけでも面白いので再放送の視聴を周囲に勧めているがなかなか理解していただけない。
たとえば『名車再生!』で、ボンネットを押すとぶかぶかと沈むシトロエン2CVをメカニックのエド・チャイナが「では、この車のサスペンションは本来よりもなぜ柔らかいのでしょうか。それをこれから分解して確かめてゆきます。」とオレンジの手袋をはめた手で部品を外してゆく立て板に水の口上は聞いていて快いし、錆びついた部品が黒いオイルをこぼしながら銀色に磨かれる映像はすっきりする。余分な苦渋の表情を省き、砥がれた牛刀のように修理も転売もストンストンと決めてシンプルにまとめるところは『カー・SOS』と同じお国柄を感じさせる内容だ。
 とりあえず『カー・SOS』のティム・ショーが「リチャード・ハモンドです」と自称するせりふが十二分に「車番組ネタ」だと分かる程度には見慣れてきたとは思う。もう少し車以外の番組で興味を惹くものが出てくれるとありがたいのだが。
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・ヤフオク体験

2020年05月09日 | コラム
 邦訳はあるものの全訳はなく、各章の断簡がばらばらに別の著者から訳出された上に書籍の性格から復刊や文庫化も期待できない本をインターネットで探していた。原書は古本市場で見つけたが語学と値段の壁で手が出ない。調べているうちに知っている本以外の訳書が出ていることを知ったので古本屋サイトに目を通すと一万六千円。出せない額ではないが既に他の支払いで遣ったので気軽には出せない。Amazonにでも古書が出ていないかと淡い期待をかけてもう一度検索したところ、ヤフーオークションの出品にその本を見つけた。
 競争相手の見えないオークションという緊張感がどうしても性に合わずに避けていたが、相場の半額の値段に惹かれてサイトを開いた。誰も入札していない上に検索したその日がその本の最終出品日だったこともあり、焦りにまかせて入札した。こうした買い物は大概よろしい結果に終わらないので避けた方が良い。めったに見つからない古書を探している当日に終了するオークションで半値の出品を見つけた偶然のせいにするのも限度がある。
 幸いというべきか案の定というべきか、高額の書籍、それもろくに知られていないジャンルの書籍のセリ落としに参入するもの好きはおらず、本はしばらくすると自動的に入札が〆られて落札できた。支払い後に商品の到着を確認しないと出品者に入金されない仕組みに戸惑ったが、そういえばこのシステムが出始めた当初はお金だけをいただいて商品を送らないという詐欺が横行していた気がする。未到着の場合はオークションサイトがそれなりに面倒を見てくれるらしいので泣き寝入りも減ったのかもしれない。システムはどうでもいい。本が届けばそれでいい。
 競り合いにならず出品者の提示した金額で落札できたのは幸いだったものの、入札が〆切られるまでは緊張でものが手につかなかった。つけっぱなしのテレビから流れる「名車再生!」のマイクの口上もろくに耳には入らず(吹き替えを続けてくれることはありがたい)、メールの文章はめちゃくちゃで、画面の右端の時計の時刻が入札締め切りを過ぎるまで何度も見返す羽目となった。本来の相場を知っている人間が来たらえらいことになる、と腸を握りしめられるような痛みに襲われながらも待つしかない。時刻が来た。セリ落とした。ほっとした。緊張を通り過ぎて二度とやるまいとこみあげる吐き気をこらえた。
 そうした矢先にいつも利用している別の通販サイトが、在庫一掃セールでそれまで掲示していた定価から比較すると破格の値段がつけられている出品を発見してしまうのは、往々にして良くあることだ。こちらにはしっかり競争者がおり、サイトを確認しては腸を撫でおろしながら、ろくに他のことは手の付けられないGW後半を無為に過ごしている。単純に射幸心の煽り方だけを捉えれば、細かく小銭を投入するゲームセンターのクレーンゲームとは差がないかもしれない。
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・手作り競争

2020年05月02日 | コラム
 電気ポットの脇にバニラエッセンスの封を開けられていない小瓶が置かれていた。流しの洗い物置き場にはこの間の旅行土産に持ちかえった澤田屋のプリンの瓶がきれいに洗われて並んでいる。昨日はどんぶり一杯に作っていたプリンを今日は瓶に分けて作るらしいと判断がついた。ひっくり返したプリンの形そっくりの器を使った巨大プリンは、皿にあけるとぺしゃりと重力に従って伸び、台形ののっぺりしたケーキのように広がった。焦げもなく煮詰められたカラメルソースに浸かったプリンを大きなスプーンで崩しながら二人で食べる。電子レンジを使ったから「す」が入ったな、と、ぼやいた。言葉通りプリンの肌にはぷつぷつと細かい穴が空いていた。バニラエッセンスの入っていない「ありあわせ」のプリンは少しだけ固く、素朴な味がした。今日のプリンはバニラエッセンスの匂いを立てながら深い底の鍋で蒸されている。

 複雑な手順で作られているプリンのいいにおいが上から降りてくる。それをかぎながら私はプラスチックのボウルにヨーグルトと牛乳を入れてかき混ぜている。金属の泡だて器が複雑に動き回ってヨーグルトを牛乳に拡販する。塊だったヨーグルトがほどけて牛乳に溶けるのは、元の材料に戻ろうとしているようで白と白は違和感なくなじみあった。甘いものは得意ではないので砂糖は入れなかった。調べるとレモン汁やはちみつを入れるとよいらしいが、材料がないのでやめた。砂糖は二階から取ってきてもよかったが、今はプリンのために二階の台所は使われている。ほとんど火を使われない一階の台所にはラッシーがボウルに出来上がった。これから冷やされるプリンは明日のお楽しみのために、台所の隅で粗熱が取れるのを待っている。とうにラッシーは飲み切ってしまった。
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