えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・思い出さないという選択(映画『返校』)

2021年07月31日 | コラム
※本編とゲームのネタバレがあります。未見、未プレイの方はご注意ください。

 2017年に台湾のRed Candle Gamesから発売されて以来順調に展開を広げ、今年の2月にはNetflixで連続ドラマも放映されたゲーム『返校』の映画がようやく日本で公開となった。台湾では2019年に放映され、パンフレットの解説に拠れば台湾の総統選挙にも影響を及ぼしたほどの大ヒットとなったそうだ。ただ、それは当然のことかもしれない。映画では原作よりも多くの固有名詞や事物を使い、この映画の出来事が国民党の支配に置かれていた時代であることを何度も認識させられる。たとえば私たちが「台湾の旗」と記憶しがちな「中華民国」の国旗を、主人公の一人であるウェイ・ジョンティンが無表情に見上げながら掲揚する場面など。

 気になっていた話の大筋にはほぼ変更がない。禁書を読む「読書会」を主催する教師のチャンに恋をしたファン・レイシンが、同じく会で生徒を導く女性教師のインに嫉妬し、彼女さえいなくなればと「読書会」の存在を国民党の党員であるバイ教官に密告する。目論見通りイン先生は逮捕されたが、チャン先生と「読書会」の生徒も連座して逮捕され、主催していたチャン先生は極刑に処されてしまう。自責の念と後悔に駆られたファン・レイシンは自ら命を絶ち、まるで永遠に居残り授業を続けているように翠華高校へと縛り付けられた地縛霊と化してしまった。

 本作の白眉はファン・レイシンを演じる王淨の、少女と女の微妙に複雑な表情の使い分けの見事さだと思う。パンフレットのファン・レイシンの紹介に「ずるさ」とある通り、本作の彼女は一癖も二癖もある人物として描かれている。ゲームではウェイ・ジョンティンを元気づけるためにバイ教官の真似をして笑わせたり、不安や動揺を隠さなかったりする率直な少女だが、本作では自分の感情を表に出さずどこか冷たい一線を他人との間に引いている。それでいて、密告の証拠とするためウェイ・ジョンティンから禁書を手に入れるため、彼の「一緒に本を読んでください」という純情な願いに「いいわ」と答える笑顔を用いることをためらわない。彼女の密告のおかげで命を落とした生徒たちの亡霊に囲まれながら「二人を別れさせたかっただけ」と初めて感情的に本心を叫ぶ彼女には良い意味で意表を突かれた。

 映画では何度も「忘れない」という言葉が繰り返し登場する。登場人物たちは起きてしまったことを忘れてしまったために何度も学校の中で不気味な夢を繰り返させられる。そこから脱出するためには自分の犯した行為と向き合い、「忘れない」ことなのだ。無論鑑賞者にも彼らがいた時代の雰囲気を「忘れない」ことが求められているが、それ以上に印象に残るのはファン・レイシンとその母の願いである「いなくなってしまえばいい」の恐ろしさだった。暴力を振るい愛人を作り酒に呑まれる夫は「いなくなってしまえばいい」。頼るもののいない自分が唯一頼る事のできるチャン先生を奪うイン先生は「いなくなってしまえばいい」。この単純すぎるほど単純な願いを叶えるために二人が使った手段が死を招く「密告」であることのこわさが、より時代を物語っているように感じられた。
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・炎暑のもとで

2021年07月24日 | コラム
 風ばかりが涼しい朝、窓を開けてうたた寝をしていればあっというまに体温が上がり、夢から醒めると薄汗の滲んだ腕が熱く発熱している。空調がなければ読書も出来ない。本棚を眺めに出かけるのも一苦労ではなく命がけだ。かといって草木のほうは夜半に降る雨のおかげで人間よりは生き生きと葉の先端が切れ味良くぴんと伸びて青い。刈りたての草とまだ乾ききっていない土の匂いが混ざり合う朝にはランニングシャツやスポーツウェアの歴々が快適そうに走っている。走る人から遠ざかり、鋭さを増す日差しを避けて屋根の下に入る。どの店も朝は遅い。十二時から開く店も珍しくなくなった。どの店も暑さの頂点に差し掛かる頃ようやっと店を開ける。そこに出かけようと迷う頃には日光を吸いきったアスファルトや建物が熱を吐き出して、40度の中を歩く羽目になる。何事も「昔」と比べる年代に差し掛かってなお暑さは年々厳しさを増す。
 暑さにも情というものがあるのならば今年の暑さも薄情だ。人どころか身体の小さな鳥や動物すら日陰の外に出ようとしない。ゆるい薄着に団扇を扇いで暑い暑いと言葉にする余裕すらなく、何かから逃げ回るように冷房の効いた建物を縫って目的地に行く。日差しの鋭さだけは日が暮れるとともに鈍くなり、夕暮れになるとひぐらしの声が似合う明暗が生まれる。日陰は暗く、日向は突き刺さるような白から橙色がかったランプのようなまろやかな光へと優しくなる。それでも毎日少しずつ溜まって吐き出される場のない熱気の塊がそこここに溜まり明日そこを歩く人を待ち伏せている。
 秋の先駆けの風を夕暮れに感じてもなお、喉を詰まらせるような熱気があちこちの曲がり角に凝っている。閉め切った窓からは音ひとつこぼれず、靴音だけが朝と同じように歩道を決まったリズムで蹴っていた。
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・梅雨の終わりに

2021年07月17日 | コラム
 雨が続いた。ビニール傘を電車へ置き去りにしないように気を遣いながらの外出は気の緩む暇もないほど一歩一歩が濡れている。雨が降っていた。しとしとという擬音もなく雲が千切れて落ちるような大雨は土を穿ち隙あらば雨道を作って側溝に土を詰まらせる。一度土が流れるととめどなく何もかも押し流す。家の庭と公園には雨の流れる道が決まっており、晴れた日には轍のような跡が高台から道路にかけて続いているのがわかる。雨に打たれる植物は猫背のように体を曲げているが、雨が止んで雨粒が自然にそのカーブから流れ落ちるとまた元の通り真っ直ぐに立つことが出来る。そうした眺めを日替わりで見ていた。
 雨が続いても冷えるどころか蒸し暑い霧に覆われたように息苦しい。冷房を欠かさずに閉め切った薄暗い部屋の中でディスプレイの光に目を細め、丸まった背中を伸ばしては天井に向かって溜息を吐き出していると、窓も何もかも開いて上から落ちてくる雨音で大地に釘付けにされてしまいたくなるような思いに駆られる。濡れても人間はあまり簡単には崩折れない。体が冷えても屋根の下の乾いた部屋に入りさえすれば温まる。その体熱が煩わしい。暑い時期が苦手なのはどこに対しても煩わしさを感じずに過ごすことが難しいためだ。『八月の炎暑』の水木しげる版で暑熱の真下、真っ盛りの太陽の明るい光の中で、語り部の名前を墓石へ一心不乱に刻んでいる男に訪れる熱よりも陰湿に梅雨の暑さは体を蝕む。
 外から光が差し込み雨が止んだ。窓を開けて空気を入れ替えていると、公園の欅の木から凱旋ラッパのようなアブラゼミの嗄声が湿気を取り払うようにからからと部屋を通り過ぎてゆく。
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・万年筆の話

2021年07月04日 | 雑記
『ロリータ』の冒頭でハンバート・ハンバートが舌先で玩弄する発音のように、万年筆の筆先から走るインクはノートの繊維を潰さずに滑って文字を形作る。船腹の骨組みのような機構の曲げ伸ばしが金属のペン先を支えつつインクをペン先へと運び、筆圧に応じた量のインクが定められた幅に従い流れ出す。単純に美しい道具だと思う。人から貰い受けてペリカン製の吸引式を一本手に入れて数ヶ月経つが、小さな玉の回転でインクを吐き出すボールペンよりもペン先という金具で書いているような手触りがする。

 ペン先を折り曲げたりペン先を修理したりという描写を小説で見かけているせいか、プラスチック製の本体のこの万年筆でもペン先は修理してもらえるのか、吸引の仕組み部分を修理してもらえるのか、という不安は拭えない。筆圧が強すぎると折れてしまいそうな反発が返ってきたら、その日の書きものはやめている。

 気がつけば筆記用具は貰い物で溢れているが、この万年筆に慣れたらもう一本を誂えてもよいかとも考えている。生き物のように手入れが必要なだけに、書きものをする人の愛着が道具から見える思いがする。なくなる鉛筆よりも、メーカーの機嫌次第で替芯がなくなるボールペンよりも、この道具は長くそのままでいてくれるだろうと信じて。
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