えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・浮気性のゲーム

2022年10月22日 | コラム
 やりたいゲームは古いものばかりで、ゲーム会社が群雄割拠したのちの現在ではなくなってしまった会社も多数あり、権利関係がややこしくなってアーカイブが行われていない、或いはそもそもゲーム自体が当時から現在にかけて設けられた表現規制の網に引っかかって修正をしなければ出られないものもある。このところ浸かっていた『Garage』もAndroid版ではGoogleから修正の要請が入り、一部のグラフィックが差し替えられての販売となった。幸いそれ以外の変更はないが、ビジュアルというものはそれがある限りゲームの印象を左右するものなので、鳥の刷り込みと同じように最初にどのグラフィックでそのイベントへの印象も左右される。当時はなんでも無かった描写が二十年、三十年の間に負の象徴を背負ってしまったり、モチーフとなった道具が現実の世界で大幅な規制を受けてしまったりと、現在に妥協できないゲームは次々と失われたものとして消えていく。データは本よりも強いはずなのに、ゲームは本よりもか弱い。CDやカセットなど精密機器は脆い。ゲームにとって最適な保管環境を家ごと作ってしまう人もいる。
 古典と呼ばれるゲームが増えるにつれて、学校で古典を学ぶよりもゲームの古典を学ぶことは難しいのではないか、と思う。玉石混淆の時代を知る人も少しずつ老いてゲームから離れていき、ゲーム機自体も役目を終えて沈黙してゆく中で、古典を知らない人たちに古典を教えるための教材としても存在のできないゲーム達がデータの奥からじっとこちらを眺めているような、そんな視線を今更PSP本体を購入した身で思う。
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・Android版『Garage』所感 その二

2022年10月08日 | コラム
*ネタバレを一部含みます。未プレイの方はご注意ください。

 結局やり直した。ゲームの中のミニゲーム「釣り」や取り逃したイベントを見るためにもう一度「ガラージュ」へ「ヤン」として入り、胎児のような名無しの機械として目覚める。目覚めた主人公は「ヤン」の一部である。機械に入った「ヤン」はしばらくの間「ヤン」という一個体として「ガラージュ」の作り出した世界に荒々しく変革を齎していたが、「ガラージュ」の影響か「ヤン」の望みであったのか、「ヤン」は「シェン」と主人公に引き裂かれてしまう。或いは自分で自分を引き裂いたのかもしれない。「シェン」も主人公と同様に「ヤン」であった記憶はなく、自分が何者かを求めて世界を探索していた。けれども「シェン」の中には分裂する前の「ヤン」が潜んでおり、いつの間にか「シェン」は「ヤン」に戻ってしまう。「ヤン」は主人公に「自分を破壊してくれ」と頼む。主人公の中には他の登場人物や手記に遺された「ヤン」という人物の人格はない。一見まったくの他人が本来の人格を消滅させるように見えるが、物語の端々で手に入る道具や記録を読むと主人公もまた「ヤン」であることがわかっていく。主人公は「ヤン」が心の奥深くに持っていた大事な記憶を抱いており、それは「ヤン」を苦しめるものでもあり救いでもあった。主人公が破壊する「シェン」は「ヤン」が消滅させたい自分だった。ただ主人公は「シェン」という人格が助けなければそのまま汚水に飲まれて分解消滅していたので、どちらが「ヤン」として残るかは「ヤン」の賭けであったのかもしれない。大体は想像なので悪しからず。

 このゲームには「EGO・順応」というパラメータがある。移動などで消耗する。機械としての「燃料」か「EGO」が無くなると体がばらばらになって消滅しゲームオーバーとなる。これは他の機械たちも同様で「燃料」と「EGO」が失われなければ壊れること無く生きていく。それとは別に幽霊の成仏のように消滅してしまうこともあるが、ただ「消えてしまった」と言われるだけで、その現象の説明はない。ゲーム的には「EGO」と「燃料」の最大値を増やして行動範囲を広げることが求められるが、「EGO」を強化するということは主人公の「自我」が強化されていくということだ。強化された自我は「シェン」が破壊される衝撃にも耐える力を与えてしまう。つまり主人公は自我を強化することで「ガラージュ」に入った時点の「ヤン」とは違う「ヤン」となるのだ。

「ガラージュ」が何をする機械なのかはわからない。「ヤン」が叶えようとした望みもわからない。けれども「ヤン」が自分を引き裂いた理由も、引き裂いた自分がどちらも自分自身を求めて探索することも、片方の自分が都合よく自分を破壊しようとすることも、目的はともかく気持ちは薄っすらと分かるような気もする。永遠に逃れられない自分から逃れられる方法が目の前に提示されたのならば、私もひっそりと「ガラージュ」に入ってしまうだろう。或いは誰かに入れてもらうのかもしれない。その世界が汚れた羊水の中であっても、生まれなおすために胎児の姿を取るのかもしれない。

 肥大化した雌機械の乳房と腹部を求めてしがみつくのは「燃料」補給のためなのか、他に夢を見ていたいのだろうか。その望みの哀しさに触れられるのは、似たような諦めを知った人間なのだろうと雨の暗みに自分を隠しながらまたゲームを起動させている。
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