えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・不安の雨

2023年03月25日 | コラム
 朝、カーテンから差し込む光が弱いと目覚めも億劫になり布団の中で目覚まし代わりのスマートフォンに触れるとそのまま、会社に休みの連絡を入れたくなる。無論気分ごとに休みを入れていたら働く日数より布団の中にいる日数が増えてしまうため、朝の光が弱くても布団の中から出て着替え、パソコンを抱えて家を出るのだ。
 人に会う朝もそうだった。花曇りを通り越して満開の花を散らす激しい雨音を聞きながら、四年ぶりに会う友人へどう接してよいかを悶々と連日布団の中で考え続けていた。これも電話一本で休んでしまおうか、そうしたら二度と会えないだろうか、迷うのはコロナの間中一切の連絡が無くともまだ友人たちのことを自分が好いているからだろうかと考えを巡らせるだけ無駄が積み増し、私は布団を出て着替えた。イヤリングをつける。落としたくないので道中耳が痛くなったところで外した。雨は激しい。花見代わりに友人宅で酒盛りをするという話になったので、花見のために用意したあれこれを抱えて友人宅に向かう。学生時代に一度か二度訪れたきりで記憶は淡く、案の定Googleマップを使っても迷った。
 雨の中、朝食を抜いてきたこともあり判断力も精神力も衰えていると考え、立て直そうと手近な蕎麦屋に入ろうとしたら断られて最後の心の骨がぼきりと音を立てて折れた。私はLINEで「迷ったので帰ります」と伝え、それでも目は虚しく住所の書かれた板を探りながら友人宅の番地が書かれた曲がり角を曲がった。ここになければ帰ろうと泣きそうになっていた。
 チャイムを鳴らすと少しだけ心配そうな表情を顔に出した友人が出迎えた。こわばった私の顔は挨拶代わりの笑顔すら作ることが出来ず、温かい床暖房に腰を降ろして酒を少しだけ身体に入れるとようやく心の骨が接がれたように立ち直っていた。
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・【読書感】『グレイスレス』鈴木涼美 文藝春秋 二〇二三年一月

2023年03月11日 | コラム
 前作『ギフテッド』が階段を叩くヒールの反響音を繰返したように、『グレイスレス』は色彩のひらめきが女を運んでいく。ポルノ作品の撮影現場専門の化粧師である主人公の女の目には事あるごとに鮮やかで瑞々しく色が映り込む。実家の壁の白とそこから前の所有者の残した十字架を取り外す母のスカートの黒の対照を皮切りに、「声の小さい女優の水色の背中」や「生え際の黒を、白色近くまで脱色した毛先の金髪の間にも、幾重にも染め直した色」が、彼女の職場と家との往復から取り出され、ビスのように印象を記憶へ留める。

 大学を辞めた主人公の通うポルノ撮影現場では彼女に化粧を施される女達が常に控えており、帰る家には母の代わりに祖母がいる。まったく関わらないということはないが、男の干渉は最小限に控えられており、女達同士の関係も距離がほどよく開いておりやはりこちらもお互いの心に押し入るような干渉はない。性に纏わる事柄から感傷は的確に抜き出され、劣情を煽る場面の撮影を眺めていても主人公の目は色を追いかけている。帰宅してもたとえば出前のピザに散らされた具材の彩りや、主人公の肩揉みの手付きに合わせて伸び縮みする祖母のシャツの柄など、所々に色は現れてその時間を抑えていく。
匂いや感触は余分なものとして省かれ、具体的な単語が散らばるにも関わらず行間の空気の通りは良い。ポルノ女優たちの顔へ指先で触れることも、撮影で化粧が崩れることも、家の花壇で花の咲くのを見かけることも、一連の世界の中のこととして箱庭のように淡い手触りで書かれている。

 自他ともに化粧を施すときだけ、彼女の指先は感触を味わいに動く。そのために彼女は化粧を続けてポルノ撮影の現場に赴く。

「彼女のように仕事を始めたあとに大きく雰囲気を変えたり、メスを入れて線を足したりする女優もいるが、そうでなくとも女優たちの顔は変わっていく。表情が柔らかくなっていくとか、目に光が少なくなっていくとか、そんなことであれば私はその変化にすぐに飽きてしまっていたように思う。彼女たちの顔はもっと奥の筋肉や骨の位置を司るところから時間をかけて作り変えられていく。」

 彼女の指先が施す化粧は壊されて派手に崩れることを求められる化粧であるためか、彼女の心情も顔を美しく整えたい技術の喜びとそれを壊された姿を見たいという相反する欲望が矛盾のまま落ち着いている。一人だけ変わらずに眺められる立場だからこそ抱くことの出来る贅沢を、存分に味わうために仕事を続ける彼女は淡々と描かれていく。その背景に油彩で淡彩を描くような繊細な筆致の基、唯一彼女の指が顔に触れることのない祖母との生活が精密に浮き出される技術が心地よい。
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