えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

:『PERFECT DAY』 ヴィム・ヴェンダース監督 二〇二三年十二月公開

2024年01月13日 | 映画
・清らかな侘しさ

 ヴィム・ヴェンダース監督の映画『PERFECT DAY』はひたむきに静かだ。役所広司演じる渋谷区のトイレ清掃員の一日の過ごし方は緩やかな正確さで定められており、毎日のリズムは根本的に変わらない。けれども退屈はない。「変わらないということはありえない」と主人公の平山が言うとおり、日々は細やかに変化している。誰にでも起こりえるさざ波のような変化は平山の生活を乱すには足らないが、その日の平山の心は揺さぶられる。ほんの僅かの力加減で単調に陥る寸前の静寂が平山という人間像から描き出されていくのだ。

 朝、向かいの神社の門前を掃く箒の音で薄暗い中目を覚まし、仕事着のつなぎに着替えて改造した後部座席いっぱいに清掃用の道具を詰め込んだ紺色の車で出発する。車のサンバイザーからカセットテープを選んでセットし、車の中に流れ込む音楽のリズムのまま朝日の射す高速道路へ乗り込んでいく。トイレでは手早くゴミを拾い、壁に設置された便器の裏の汚れを自撮り棒のような鏡で確かめる。仕事が終わると着替えて自転車で銭湯に行き、湯上がりのまま浅草へ自転車を走らせて地下街の居酒屋でレモンサワーと夕食を済ませ、夜は布団の中で文庫本に読みふける。その日の光景が白黒にちらつく夢を見て箒の音で目を覚ます。仕事には時計を使わないが休日には腕時計をつける。それもお洒落に留まり、休日を過ごす彼が時計に目を留めることはない。彼の居室には時計がなく、彼の一日は彼の生活が物語る。

 それは突然平山の姪が訪ねてくることでも、同僚の若いタカシが惚れているアヤから頬にキスをされても、行きつけの居酒屋のママと元旦那が抱き合う姿を見てしまっても、崩れることはない。姪のニコに部屋を譲って箒の音が聞こえない階下で眠っても、箒の音が鳴る時間にはきちんと体が起き上がり、前の日と同じ一日を始め出す。平山は登場人物にも観客に対しても無口を貫く。黙っていても心の中の声を映像に当てはめて語らせることもせず、表情を極端に形作ることもせず、たとえば居酒屋へ行けなくなってコンビニでハイボールの缶三つとともに「ピース」とたばこを頼む一言の苛つきが強烈に響く。

 平山の生活は生活の生臭さとは無縁だ。たとえば彼の部屋にはゴミ箱がない。畳に濡れ新聞を撒いて箒とちりとりで掃除をしても、汚れを絡め取った新聞紙の棄て場所はない。臭いと汚れしかないトイレに毎日通う仕事着は一着のみで、洗濯も一週間に一度のように見えるが汚さは不思議と覚えない。トイレという現場ながら汚物自体の映像はない。それは理想的な清貧を描くために必要な省略なのだ。過不足のない調和のとれた毎日のための平山の無口なのだ。

 映画の最後に「木漏れ日」という日本語が解説される。日本にしかない表現らしい。そこで強調されるのは同じ影が二度生じることはなく、同じ風景の中にすら変化せざるを得ないという瞬間の儚さだ。その一瞬の輝きを連ねて平山という日々の綴られる速度は緩やかであり、静かな光に満たされている。
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・『翔んで埼玉』 ごとうち哀歌

2019年03月30日 | 映画
 たぶんいくつかは埼玉県在住の方も知らないだろうお話まみれの『翔んで埼玉』は、映画館で何も考えずに笑うことが許される映画だった。諸事情で群馬県に辿り着いた主人公の目にする「秘境」にプテラノドンを飛ばすところは、魔夜峰央の漫画をかたっぱしからめくればどこかにありそうな風景で少し笑みがこぼれた。

 冒頭で魔夜峰央本人が登場し、本作が必ずしも特定の県を悪くいうものではないといった注意とともに映像が始まった。美少年役を演じる二階堂ふみが「埼玉県民は草でも食っていろ」と顔をゆがめて叫ぶシーンは意外と少なくて、もっと罵るところは見たかった。顔をゆがめるアップはさすがに女性のものやわらかい顔の線があらわになるものの、怒鳴るという表情を作るために動く眉根や頬の筋肉のおかげでうまくごまかされていた。主人公のパートナーのGAGTOと、その父親役の京本政樹については突っ込む言葉が見当たらない。二人が真顔で見つめあい、親指と人差し指で丸を作った手を交差させる「さいたまのポーズ」で意思を疎通させる場面でほぼ説明は完了してしまう。はまりすぎていて笑いをこらえている周囲の空気が重かった。

 基本的に埼玉県を全方向から攻撃するスタンスで、パンフレットにも埼玉県の人に頭を下げる二階堂ふみとGAGTOが登場しているが、一通り見るとあやまるべき対象はどっちかといえば東京都ではないかと思う。二階堂ふみの本拠地である白鵬学園のクラス分けは23区とその他大勢に分けられ、八王子と田無がきっちり差別されていたのに対し三鷹と吉祥寺にはノータッチである。最終的に埼玉県の民たちは東京都庁目掛け一揆を起こすが、武蔵野市に青梅市や奥多摩、桧原村に小笠原諸島もついでに加わってもおかしくない「他県から見た東京は23区と三鷹と吉祥寺」を象徴するような東京の使われ方だった。ついでに西葛西が東京都内ということはこの映画で初めて知った。

 こうして文章をものしてしまうことで映画としては十分に効果があったわけだが、ご当地話とともに魔夜峰央の漫画の表現を実写にした時のシュールさは原作を読みながら楽しみたい。中心人物がきらびやかすぎる服装で登場するジャブとともに、いじめられる埼玉県をもんぺや国民服、野暮ったいセーターとスカートで象徴してしまうところはあっさりとしながら見どころだと思う。とりあえず関西以西には間違いなく通じづらいせせこましい格差だが、「ごとうち」に狂気的になるさまを他山の石にする心持で映画館に向かえばほほえましい気持ちになれるかもしれない。そのほうがむしろうらやましい。


※新しい一万円札の柄が渋沢栄一に変わった。『パタリロ!』映画版の後はこれを受けた続編を見てみたい気もしなくはない。
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いろんな意味で夏の陣だった

2009年08月18日 | 映画
コミックマーケットの三日目をぶらついた後の
涼やかな映画でした。

やっぱり今回も「感想文」です。

:「サマーウォーズ」細田守監督 

2006年「時をかける少女」のアニメ映画を撮った監督の
第二段の作品です。
前回と同様、とっつきやすいアニメ映画だと思います。
家族で見ても、親も一緒に楽しめるような。

現実世界と仮想世界が、密接に生活へリンクした中での、
仮想世界のトラブルに立ち向かう、というストーリーですが、
総勢30名近くの、ある一族の中身を描くことに表現が
集中されています。

子供はこどもらしいし、
大人は子供も年下のものもしっかり受け止めてあげられる、
心からのおとなたちで、変な子供っぽさや、こまっしゃくれた
ものからは無縁です。

リモコンを取り上げようとする主人公の男の子をからかって、
リモコンを持ってちゃぶ台の周りをくるくる走り回る男の子たちは、
なまいきざかりでむかつくクソがき具合がちょうどいいです。

家をずっと離れていた親戚が、もめごとを起こしてそれでも
もう一度帰ってきたとき、まず迎え入れて一緒にご飯食べよう、と
言ったのは、彼が始め戻ってきたときまっさきに彼を迎え入れるのに
反発した人でした。
それも情をかけたような迎え入れ方ではなくて、さらっと
「ごあいさつしてらっしゃい。その後、ごはんたべましょう」
と言葉も声も流してくれるのです。
ここで感慨深くものを言うのは簡単ですが、
毎日帰ってくる人と同じように、遠く離れていて帰ってきた人へ、
これをスッと言えるのは、やっぱり「家族」だからこそです。

ここに出てくる人は、距離の取り方がうまくて、ちゃんとかまってくれることも、
ちゃんとほうっておいてくれることも出来る人たちばかりです。
だから、視ていて押し付けがましくはならないし、メッセージも強くないから、
誰でも見られる懐の深さがあるのではないでしょうか。



そんなに難しいことでは、無いと思うんだけどなあ。


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庵野秀明監督:「エヴァンゲリヲン新劇場版:破」鑑賞

2009年06月28日 | 映画
注意書き:

ここの書き手は「知識がまったくないまま新劇場版を見る」という
ある意味稀なケースの人間です。
ただの雑感をかきます。


あと、
ごめんなさいなこと:

滝平次郎⇒滝平二郎

ひっどい体たらくです。


――

エンターテイメントとしてはやっぱりすごい、と感じました。
女の子の見せ方、声のえらびかた、戦いの盛り上げ方、音楽の使い方、
隅々まで神経の行き届いた、繊細な作品だと思います。
リメイクでも差異がファンサービス程度ではなく、きっちり話ごと
構成しなおされており、人をひっぱる力は「さすが」のひと言です。

ただ、時々

「それはギャグで言っているのか」(by魁!クロマティ高校)

の顔になっていたのはしょーがなかったです。理解度が足りませんね。

現実がエヴァに追いついちゃったせいか、前回も今回も、初めて見て
衝撃!!ということがなかったのがちょっぴり残念でした。
年齢をひしひし感じます。何か新しい感性をズバーともらえることを
期待していたのかも知れませんが、特にそういうこともなく、
わりとすんなりエンタメはエンタメとして楽しめたところが、
なんとなくもやもやと心底に残りました。
病的で有名な作品が、やけに健康的に人々を描いていたのがかえって、
扱う側の無表情を感じて気味悪かったなあー、という印象です。
特に綾波レイの微笑みの多さ、これはけっこうぞくっときます。


最先端をゆくのかなあ、と思っていたらどこか回帰を感じさせる描写が
(田舎とか、ヒグラシの声とか)多いのも、
現実の反映として最先端、なのかも知れませんけど、これからそこを
また超えてゆくのにはちょっと体力不足なのか……ナーンダという気がしました。
こうした戯言もがつーんとフッ飛ばしてくれればそれが一番シアワセなの
ですが。

説教くさいアニメやなあー、とか思っちゃうのはどうしてなのだろう。
何かソンをしている気がするいっぽうで、心は直球勝負で熱い訴えを投げる
斉藤隆介の童話に深くうたれる。あんまり気にはしていないですけど。
ともあれノーミソのキャパシティに限界を感じた映画でした。
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チェン・カイコー監督『花の生涯――梅蘭芳』鑑賞

2009年03月08日 | 映画
民芸運動の本を熱く語る予定が(予定があったのか)、
すっかりこちらに気を飲まれていました。
宮城谷昌光の「花の歳月」と名前を混同するアホーにも、
ピカデリーの受付嬢は冷静に対応してくれました。
パンフレットを買い記念品をもらって映画館です。

『花の生涯――梅蘭芳』09年公開 チェン・カイコー監督 新宿ピカデリーにて先行公開

『さらば、わが愛――覇王別姫』という映画をご存知でしょうか。
もう15年以上前の映画となりますが、やはりチェン・カイコー監督の、
京劇役者をテーマにした作品です。
本作は、この「覇王別姫」という演目を十八番とした実在の名花旦、
梅蘭芳(めい・らんふぁん)の限りなくノンフィクションに近いドラマを
描いたものです。

梅蘭芳は、「覇王別姫」の演目自体が彼の実力を最大限に引き出すため
製作されたり、彼の演じ方が敬愛され、「梅派」と呼ばれる新風を
伝統芸能である京劇の世界に吹かせたほど、実力と華のある名優でした。

映画は、パンフレットの写真にもありますが、非常に華やかな前半と、
戦火やアメリカ公演の大舞台に際する梅蘭芳の穏やかな抵抗の後半と、
まったく色が異なるつくりとなっています。
そのつなぎに、梅蘭芳をバックアップするオリジナルキャラクター、
邱如白(スン・ホンレイ)を上手く狂言回しとして入れることで、
前半と後半で役者が変わることを(当然似た人物を使っているのですが)、
抑えており見やすい印象を受けました。

往年の梅蘭芳を演じる、レオン・ライの無表情がよいです。
「芸を極めるものは孤独でなければならない」
という、(おそらく)作品のテーマに沿って、舞台を降りてもキャピキャピ
していた若年から、「舞台を降りたら一人の男」に、変化してゆく過程、
階段の上から見下ろすシーンがいくらかあるのですが、どれも口の端があまり
動かず、目の色も変わらず、映画が進むにつれてどんどん孤高になる空気を、
こまやかに演じている気遣いが感じられました。

本作は『覇王~』に比べるとハードな恋愛など感情の動きが乏しく、
宣伝媒体の美しさに比べて通してみれば一見、地味な出来に仕上がっているかと思います。
ですが、意識しているのかしていないのかは分かりませんが、『覇王~』と
同様、梅蘭芳と対象の位置に邱如白を置いた構成として捉えると、そこには
かなり激しい動きがあると思います。
梅蘭芳が動から静へと心が静まってゆくのに対し、人生をかけて彼を支え、
手段を問わず冷徹な判断をくだしながらも最後には、
憤り、悩み、絶望する動的な変化を見せる邱如白という人物の姿は、
カメラこそ梅蘭芳に向っているけれどもその影としていつも傍にある、
二人を同時に見ることで改めて、名優・梅蘭芳の生涯が浮かび上がる構造に
なっているのではないでしょうか。

歳をすこしとったせいか、丸メガネのインテリ・邱如白という人物の見せる
人間臭さを好もしく思います。「ダメな文化人」そのものの見かけですし
ほんとうはそこまで強くないのに、壮絶な喧嘩別れをしながらも、義兄として
手を差し伸べた梅蘭芳を拒絶した時の目、まったく強くないんですね。
とても弱っちい往年の姿です。ひどく情けない老いの姿です。
でも弱い彼がいるからこそ、梅蘭芳の強さが分かるのだと思います。

日本人として見なければいけないところは当然あるのですけれども、
まずそっちへ目を向けてしまう、これは人間を濃密に考えて作っているから
出来ることなのかな、と思いました。
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美術展や映画とか

2009年02月26日 | 映画
まったく狙ったことではないのですが、
本日「真・三国無双マルチレイド」の販売日にあわせたように
『三国志』
(原題:Three Kingdoms Resurrection of the Dragon ダニエル・リー監督)
を観てきました。
こちらはまた後日、コラムの形で所見をお話したいと思いますが、
軽く感想を述べますと、本作は某赤壁に比べ、
まったく主人公の軸がぶれていないので、
1時間42分の短い時間にまとめた手腕が冴えた一本だと思います。

あしたはもっとわかりいいように書きます。今晩はお許しを。


さて。

ここ数日はずっと旅日記を記しておりましたが、書かなかったことが
山盛りあります。まとめ切れない手腕がもろに露呈しました。

旅日記に書かなかった所に、「河井寛次郎記念館」があります。
河井寛次郎は、柳宗悦らとともに昭和初期の民芸運動に尽力した陶芸家です。
民芸運動というのは、イギリスで起こったアーツ・アンド・クラフツ運動に
端を欲して……と書くとお察しの方もいらっしゃるかも知れません。
京都から帰って直後、東京都美術館の「アーツ・アンド・クラフツ展」に
行ってまいりました。とってもタイムリー。

簡単に説明しますと、どちらの動きも、今まで芸術運動の中で生まれた
ものに対して「美」を認めてきた流れに対し、普段使いの道具を作る
無名の工人たちの技に「美」を見出し、ひとつの価値として認めようという
運動です。とっても適当な説明ー。

ともかく、この展覧会で初めてイギリスの民芸運動の作品を見たのですが、
椅子や陶器とか、ちょっとしたものの一つ一つが河井寛次郎に与えた
影響はほんとうにすさまじいです。
記念館の家具の大半は、河井寛次郎が自身で作成したものなのですが、
椅子のカーブや材質、また壺の形などが本展覧会で展示されている器物と
非常に類似していました。

「用の美」ということばがあります。
その美を誰よりも感じながらも、のちに縄文土器を髣髴とさせる奔放な作品を
完成させた河井寛次郎は、工人ではなくやはり芸術家なのでしょうが、
民芸と言う感覚は誰よりも持っていたと思います。
すばらしい感性の人です。
このタイミングで「アーツ・アンド・クラフツ」の展示会にいけたことは
僥倖でした。


にしても、もう「真・三国無双」のタイトルについて「5」以前は
「なかったこと」になりそうですね。ムリですね。「Z」が出るから。
(まとめがこれかい!!)
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マキノ雅彦監督「旭山動物園物語」鑑賞

2009年02月12日 | 映画
すみません、ちょっとだけ叫ばせてください。

「泉鏡花萌えええええ!」

『生意気にもかかわらず、親雀がスーッと来て叱るような顔をすると、
喧嘩の嘴も、生意気な羽も、忽ちぐにゃぐにゃになって、(中略)
うまうま(餌)を頂戴と、口を張開いて胸毛をふわふわとして待構える。』
(カッコ部分筆者)

うあああああ、も、萌えー!!!(落ち着け)

:角川映画「旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ」マキノ雅彦監督 2009年

「誰も知らない泣ける歌」という番組での、涙の安売りぶりがこびりついた
後での映画公開はなかなか不運なことだと思います。前作、前々作で主演を
つとめた中井貴一ではなく、新たに西田敏行を据えて製作した本作は、
のっけからパステルカラーとかわいいフォントの表題とペンギンを飛ばして
前作からのファンには不安たっぷりに始まりました。
「旭山動物園」自体は、もう知らない方はいないと思います。
動物の行動展示、という新たな試みを成功させ、日本一の動物園の名を
上野から奪い取ったすばらしい動物園です。
この動物園が成功するまで、動物園の人々になにがあったか、に視点を当てた
の本マキノ雅彦監督の最新作です。

今回光っているのは、第一作目からマキノ監督の映画に出演している
笹野高史だと思います。旭川の市役所に勤める、園長の西田敏行の上司と言う役を
当てられた笹野は、チョビ髭を口の下に付けて蝶ネクタイもくっきりと、
典型的な「小物」スタイルに身を包んで唇を尖らせる、そのぽんぽんとした
切り口は北海道の人間とはちょっと思いづらい軽快さですが、西田敏行の
まったりした味とよくあっていました。
市役所の食堂で二人向かい合わせのやり取りが軽妙。

特に昼食を取っている時、興奮して身を乗り出し、
笹野に喰ってかかる西田敏行。周囲のざわめきに笹野が
「おい!見世物じゃないよ、このマウンテンゴリラは!」
ぽんときりつけて、周りはすっと背を向ける。
それから向き合う二人は、それまでに見せられる類人猿のカットよりも
チンパンジーVSマウンテンゴリラなのです。

マキノ監督は、いつもおっさんをだんごにしていちゃいちゃさせるのが
とても上手なのですが、本作はいつものメンバー(笹野高史、長門博之、
岸辺一徳など)どうしもさながら、前田愛や中村靖日ら若手から柄本明など
ベテランまで、種類問わずいちゃつく(あえてそう言いたい)、ビンタ張られた
直後、時間の経過をカットして仲良しになるシーンを差し込んでもまあ
納得が行く程度に人と人とのつながりをもたせているこのことは、
マキノ監督の得意技だともう確定してもよいと思います。
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あかいがけの曹操

2008年11月05日 | 映画
ものを書くことについてうつうつと考えるときりがなくなってきました。
ブログだから好き勝手書く、というのもあんまり好きじゃないのですが、
今回だけは相当に私情入りです。ケッコウ読んでいて不快かもです。
ご注意。

という矢先に記事が全部消えましたとさ。
ぐはぁー。

レッドクリフ』:ジョン=ウー監督 2008年

:趙雲役のフー=ジュンのどつきぶりが輝いていました。
というか、中国側の俳優の顔がプリミティブに泥臭くて素晴らしいです。
さわやかテーマはくどかったです。

こういうことをかいていました。
今日は以上!!デクスター=ゴードンのバートランドの子守唄リピートして
ねます。
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やさしい手

2008年10月08日 | 映画
昨日ぶつくさ言っていた映画は『愛に関する短いフィルム』:クシシュトフ=
キエシロフスキー監督(1988年)でした。
他にも『殺人に関する短いフィルム』という作品がありまして、ざっと
調べた感じだと、『殺人~』のほうが評価がよいみたいですね。

それはともかく、
『宮廷画家ゴヤは見た』(原題:Goya's Ghosts):ミロス=フォアマン監督(2006年)
観てきました。
後でちゃんと書きます。

とりいそぎ

・ハビエル=バルデムのおさわりは中井貴一に似てる
・ゴヤは肖像画をちゃんと見るべし
・ステラン=スカルスガルドにはもっとかわゆいショットがある

とだけいっておきます。
頭の中じんじんしちゃって手につきそうにないですが。
カゼ引いたせいかもしれません(おい)
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パエリアたべたい(まだ言ってる)

2008年09月13日 | 映画
鶏肉、魚、そして蟹』:ホセ=ルイス=ロペス=リナレス監督 
2007年ベルリン国際映画祭、トライベッカ映画祭正式作品
87分
新宿バルト9にて公開中 


:空きっ腹を抱えてバルト9の8番シアターに座り込むと隣から、
意地の強そうな、それでいてふんわりしたスカートをはいた
OLぽい女性の抱えたカップから凶悪なくらいポップコーンの
味のついた油がにおってきた。食べ物の映画を観るまえから
食べ物でトドメ刺されそうだった。

:『鶏肉、魚、そして蟹』は、
世界最高峰の料理コンクール”ボキューズ・ドール”に挑む
スペインのシェフたちを撮ったドキュメンタリーだ。
彼らの苦労のほかにも、他国のシェフに取材した時の話や、
材料の出所云々含め、いろんなカットがうまくまとめられているのに加えて
音楽のセンスが、会話でまったりした身体をほどよくほぐす程度に
明るくて観やすいつくりとなっている。

鶏の産地で、巨大な鶏の像を前に、
「あの像のおかげで町は発展したのよ。
トラックや車も止まって写真を撮るの」
みたいなコトを語るおばあさんの言葉に乗せながら、
おもいっきり前を通り過ぎてゆくトラックのシーンとか、
ちょっとしたひねりもいいが、やはり目を惹くのはコンクール当日の映像だ。

主役のシェフ、ヘスス=アルマグロ氏は当然緊張している。
その緊張がしかたのないものだということは映画を観るうちに
わかる。けれど、料理の手順にかかるショット、わざとコマ送りの
ように一時停止しながら進んでゆくのだが、アップにされる
おでこの後退した彼の顔を、観ていても緊張しない。
あ、たのしいんだな、それだけが押し付けがましくなく伝わってくる。
あとこのヘススというひとは、別に役者ではないのだけれど、
料理について他のシェフの意見を聞いているときの
笑っている形をしながらもぎゅっと結んだ口元が、どんなときもあんまり
動かない眼球が意外とすなおにモノを語ってくれるところが面白い。

:さて肝心の料理だが悲しきかな、美食学に縁のない書き手には
作ってる途中の方がおいしそうに見えてしまった。うーむ。
けどヘススが母親といっしょに食べていた直フライパンのパエリアに
胃袋を射抜かれ、友人と夜中の新宿をさまよったけれど、
スペイン料理が都合よくみつかるはずもなく。
結局、サフランの黄色にだだをこねたくなる夜を迎えた。
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