えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・あからさまな喉

2020年02月22日 | コラム
 新型コロナウイルスの奇禍とインフルエンザと、暖かくなり始めた二月終わりの花粉とで、マスク姿にああだこうだと言われることはなくなった。信号待ちの間に、声が喉元でかすれたようなきつい咳をすると、近くにいた白人の男が驚いたように体をびくりとさせて、あからさまに私を避けようと距離を取った。水を飲むと顎と首の間に腫物ができたかのようなひっかかりがあった。先月も似たような風邪を喉から引いて、その時も痛みは喉の付け根から来ていたので、誰にも何も言わずにマスクで顔の下半分を隠したまま一日を過ごした。龍角散ののど飴は夕方になるころには食べきっていた。喉がいがらっぽい。
 悲しくなるほど走ると胸から咳をするようになって久しいが、その日も駅まで乗りたい電車に乗るために走って咳が出た。席をするたびに周囲の態度がさざ波のように引く。こちらを見つめる人も、目を逸らしつつ身体をじりじりと遠ざける人もいる。コロナウイルスの症状自体は、重篤になればウイルス性の肺炎まで至るとのことだが、初期症状は風邪やインフルエンザと大差ないらしく、熱が出なければ病院に行ってもほったらかしらしい。
思い当たることが明らかにある人は隔離されて検査されるそうだが、三次感染を過ぎて四次、五次とパスワークが順調な以上、朝のぎゅう詰めの列車に乗って通勤する人の大半は「お仲間」の可能性があるともいえる。ウイルスがどこに散って誰の体の中に入ってゆくか見ることが出来ないのは幸いだ。中国からやってきたそれが蔓延しているさまがもし目に見えたら、おそらくそれなりに東京という街は未曽有の停止を迎えるだろう。個人的にはそれでもかまわないと思っているし、一つの国家並みの予算を使いこなす巨大な街が、意図せずに動きを止めるという壮大な姿は見て見たくもある。不謹慎だが。
 とにかく誰かにうつさないため、自分がそれに感染しているかもしれないという、ある種謙虚な心持で人は都内にマスクをして出かける。大勢の人とすれ違う。私は喉が痛い。帰りに「リンクルアイビー」の錠剤を買った。いつもの薬剤師から教わって以来、疑わしい時はこれを使うようにしている。帰宅して服用し、体を休めた次の朝は少しだけ喉の痛みが取れたようだ。
 だが、これを書いている今もまだ喉に引っかかりは感じている。「本物」でないことを願いながら、連休の始まりを半ば眠りながら過ごしている。明日は出かけなければいけない。マスクの減りを横目に外へ出なければならない。うつさないためか、うつらないためかのものかはわからない。
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・なくなるところ

2020年02月08日 | コラム
 ビルが老朽化して、と、それだけの話だった。街の薬局で薬を出してもらった後、軽く街並みを眺めながら雑談する流れが自然なものになってから長い。薬剤師の初老の男性と小柄な奥さんのさばさばとした話しぶりと、気さくで端的に市販薬の効能を教えてくれるありがたい店だった。3月末で店を閉じると聞いたのは今日だった。仕事もまだ探せていないんですよね、と、いつもの口調で店主は言った。
 話自体は昨年末に聞かされたのだという。建物の老朽化と近くの駅の改装に合わせてビルのおとり潰しが決定し、代わりのビルが建つのは十年後とお役所的な大型のプロジェクトに巻き込まれたかたちだった。十年後など気長に待てないので代わりの場所を探してもらってはいたものの、場所柄の家賃の高さに圧倒されるばかりだったという。家賃がないからここで店が出来たのだけど、と、頭の上からさらっと言葉が落ちる。自動ドアが開いて近くの医者からもらった処方箋をひらひらとさせて客が入ってきた。奥さんが受け取り、奥の調剤室へ入っていった。それを見ながら、一番は患者さんを置いていくことなのだけれど、と、それまでよりも少しだけ感情のこもったことばが入り口のほうへ飛んで行った。
「マスク売り切れました」と無造作に印刷したA4の紙もものともせず中国語なまりの英語で客が品物をほしがっていた。No、で追い返された彼女はバス通りの方へ曲がる。大きな店ではないが、近くにホテルがあるので外国人の客の多い変わった店だった。品ぞろえも他の薬局ではなかなか見かけない、キップパイロールの軟膏を置いていたり、山田養蜂場ののど飴がレジの傍にそっと置かれていたり、タイガーバームがザルにこんもりと盛られていたり、と、市販薬へのひそやかなこだわりが店のあちこちに潜んでいる。
 そういう店は2019年の増税前後から街を問わず地方を問わず唐突なスピードでなくなり、知るだけでも紅茶店が二件、かばん屋が一件と行きつけの店が消えた。これで四月には薬局が一つ消えて、私は同じ居場所を探すこともなく椅子に座って処方箋を待つ、退屈な薬局を探すことになる。
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