えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・迷子の一杯

2019年09月28日 | コラム
「最初は迷いましたよ。ん?タイの人かなって」
 ご朱印帖に書かれたメニューをめくりながら、外国人かどうかを迷う相手のことばを何とはなしに聞いていた。そんなに間違われるの、と、隣の老人が目をむいて驚く反応が新鮮だった。

 同じ区画を何度も行き来して、目印の「みずほ銀行」の看板が街路樹と絶妙な下り坂で死角となっていたことに気づいたのは一時間ほど後だった。まだ夜は蒸し暑く背中のシャツがじっとり汗で重い。案内されたカウンター席の三つ隣では、色黒の細身の男がカウンター越しに作務衣姿の男と手慣れた英語でやりとりを交わしている。たった今私が勘違いされかけたタイの出身のような色黒の男は、相槌を打っては笑い、長い手足をカウンターへうまく折り曲げて収納しつつ大仰な身振りで歓談している。私の右側のカウンターの端には、一つ席を空けて開店から老人が座っていた。後ろのテーブル席からこぼれるかしましい会話と英語を耳にするともなく黙って酒を口に運ぶ。私と老人の話し相手になっていた坊さんは注文を受けて、軽快にシェイカーを振った。私はよく外国人に間違われる身の上話を老人に向けて続けることにした。

 四谷三丁目の「VOWZ BAL」は現役の僧侶が経営する酒場で、世界中からのつっこみ「僧侶が酒を売っていいのか」を追い風に物珍しさから多くの国から客が訪れるそうだ。私が行った日も色黒の東洋人を始め、白人の若い女性の二人連れにドレッドヘアを頭のてっぺんで結んだ黒人男の二人組と、時間が経つごとに外国人の客が増えて行った。「国際色豊かですね」「ええ、海外からいらっしゃるお客さん多いんですよ」シェイカーを振っていたお坊さんの宗派を尋ねると予想通り浄土真宗だった。総本山のある京都には市内をちょっと歩けば一般家屋に紛れて「〇×寺」といった表札を掲げる在野のお寺に出くわすほど馴染んでいる宗派も、関東から東北にかけては寺院が少なくそれが悩みの種だそうだ。

「お寺が少ないんですよね、こっちは」「いや、あれだけ関西にお寺があるんですから十分では」「それはそうなのですが」さわやかな笑顔の含みは見なかったことにして、私は酒をすすった。隣の老人は勘定を済ませ、ありがとね、とニカッと笑うと階段を降りて帰って行った。八時頃だった。

 アパートの一室を改装した酒場は細長く、大通りに面した窓辺と出入り口側に一つずつ黒塗りの仏壇が祀られている。営業時間中に二度「おつとめ」があるそうだが、仏壇同士がカウンターとテーブル席を行き来する動線の対角線となるかたちで向かい合わせにされているため、ないはずの視線を感じて落ち着かない。後ろの四人掛けの席では初老の女性三人が若い男の語りにうっとりと耳を澄ませている。いつの間にか推奨の数珠を幾重にも両手首に巻いた、目の光が目立つ男が私の隣に座る。夜が更けるにつれて、空気は澱のような渦を巻いて床へと沈んでゆくようだった。

 私が会計を終えて時計を見ると、あと三分で説法が始まるところだった。「御朱印もあるんだね」「朱印帖、持ってくればよかったな」と明るく交わされる女性二人の声を後にして、秋めいて涼しくなった街路には、お稲荷さんのお社が街頭にぼうっと照らされていた。勘定は安かった。
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・通りすがりのはだおもい

2019年09月14日 | コラム
「買えませんよ」
 苦笑いをしても「こちらへどうぞ」と白いTシャツに黒いジーンズのお嬢さんに引率されている時点で、販売員である先方の目論見には半分ほど引っかかっている。ワインレッドの地に白抜きで「SK- Ⅱ」と記された看板に囲まれた引率先は喫茶店ではなく、百貨店同士を結ぶ大きな通路の途中で、建物を支える一メートル四方の柱を壁代わりに設けられたカウンターだ。向かって右手に小型の炊飯器のような丸い機械を据え、正面には薄型のノートパソコンがタッチパネルモードで置かれていた。

「肌年齢を測りますね」一通り洗顔から化粧水の使い方まで白状させられ、画面に表示された「肌のお悩み」をタッチペンで選択してしばし雑談のち、色白で細面のお嬢さんはこれもワインレッドの機械の上部を持ち上げた。磯を観察するときに使う箱眼鏡のように曲面のレンズが底に嵌っている。箱眼鏡の覗き込む側が数秒ほど右の頬に押し当てられた。計測の結果はすぐに目前の画面に表示され、よく深夜番組やCSテレビのCMで流れる「毛穴の開いた人」のような赤と薄い褐色の入り混じったぶつぶつがハコフグのような横顔にきわだっていた。肌年齢自体は実年齢より一つ下だった。

 五角形のグラフとともにパーセンテージで「スコア」なるものが表示されている。49%のこれは何だと伺うと、同年代の肌の状態の平均値をスコア化したものだ、とわかるようでわからない返事をいただいた。聞いた限りではスコアではなく偏差値のほうが数字の意味に近そうだが、説明が厄介なので平易な表現にしたのだろうか。同年代の平均的な肌の状態だと聞かされても、それが果たして良い状態なのか悪い状態なのか、はたまた避けられない運命なのか、意図したいところはわからない。伝えたいことはむしろ、傍のお嬢さんがこの化粧品をとても気に入っていて、半ば上気したような頬と笑顔でしょうばいを楽しんでいるという体験だろう。

 カウンセラーを名乗る売り子のお嬢さんは勧められた「ふき取り化粧水」をしみこませて私の右手をぬぐい、定番の化粧水が一滴落とした。化粧水は肌に落ちた形のまま手の甲に広がり、お嬢さんの言葉通りに皮膚へ沁みとおる。ふき取らなかった左手に落ちた液はしずくのまま甲にとどまっていた。半ばプラシーボに近い自分への言い聞かせで騙し騙し使う薬局の千円台とは明らかに違う、薬品の感覚があった。それは皮膚科で処方される薬のほぼ確実な効果に近い実際的な触覚だった。

 お嬢さん一押しのCCクリームの実演や化粧水の効果を雑談交じりに伺いながら、とうとう最後の時が来た。商品の販売である。何とはなしに流し聞いていたが、一か月おためしセットで税込み九千円。目の前に無造作に置かれているボトルは一本二万。肌を保ちたい、若々しくいたいという遠い過去からの欲求を保つためには妥当な費用だと思う。とりあえず四十分近く付き合わせてしまったお嬢さんのために公式SNSを目の前で登録した。本体の購入は、SNS登録でいただいた試供品を使い終わってから考えることにした。なんだかんだ気に入ってしまった悔しさが、宙ぶらりんになって背中に取りついているようだった。
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・ほかありきのわたし(『Serial experiments lain』DVD版)

2019年09月07日 | コラム
 その問いかけの簡潔さに比していまだに誰もが明確な解を出していない。たとえば面接のある受験であったり、就職活動であったり、「自分とはなにか」「何者なのか」という疑問は案外にして身近なものだ。ただしそこで問われる己というものは、他者と共有できる形で示されるものであり、必ずしも問いの答えではない。昨年二十周年を迎え、今年より商業二次創作を期間限定で許可したマルチメディアコンテンツ『Serial experiments lain』を形作る軸のひとつが、「わたしとはなにか」という答えのない問いであったことは、ひっそりと生き延び続けられた数多くの理由の一つであると思う。

 現代と似通った端末やネットワークサービスが人を囲う、一九九八年にとっては未来の世界で生きる中学二年生の少女「岩倉玲音」を中心に、できごとは雑誌とアニメ、プレイステーションのゲームという三つの媒体で描かれる。アニメと雑誌はある程度話が連関しているが、ゲームは全く話が違うらしい。主人公の精神科医と岩倉玲音の会話をひたすら聞き、プレイヤーの干渉の届かない世界をその言葉からくみ上げて考察するという、話だけでも人を選ぶ内容であったため、アニメのように再販やバーチャルコンソール配信というわけにもいかなかったようだ。アニメ自体も岩倉玲音を通じて描かれている世界観や、そこで問われている数々の複雑なことは奇妙に人を惹きつけるのだが、視覚的に見づらい演出もあり、とぎれとぎれの映像を頭で組みなおしてみる必要があったりと、素直に人へ勧めるのは難しい。けれど、小首をかしげたショートカットの少女の夢見るようにうつろな瞳は、そこに引き寄せられるには十分すぎる魅力がある。

 アニメの主人公である岩倉玲音は、感情の起伏が乏しく周囲への関心が薄い。ませた友人たちからは野暮ったく大人しい、幼さが目立つほかは普通の女の子だと思われている。玲音自身もその定義を否定されることなく、学校と家との往復を過ごしていた。それが「ナビ」と作中で呼ばれる端末に届いたメールをきっかけに転じてゆく。渋谷か新宿と思われる繁華街の薄暗いビルから飛び降りた、同じ学校の同学年の少女から届いたメールは、玲音をネットワークの世界へと誘い出す。死んだ彼女はネットワーク上に生きていると自分を主張するが、その存在を信じたのは玲音ただ一人だった。電子上の彼女とやり取りを続けるために、玲音は機能の高いナビを父にねだって手に入れる。その道具は徐々に玲音の手で拡張され、玲音は機械を通してとてつもない量の情報と人に接続する。それは当初のメールから離れて、彼女と瓜二つだがまったく性格も性質も違いあちこちで見かけられる「レイン」という存在と、岩倉玲音である自分との区別のために使われてゆく。

 出来事の起きる場所はあくまで玲音の訪れる行動の範疇にとどまり、限られた空間の中で肥大したナビを通して接続するネットワークが一瞬だけ世界の広さを垣間見せる。けれども常にそれは玲音という女の子の実体と主観に戻り、ネットワークに接続する彼女の思考は内へ内へと自分の奥底へ沈む。けれどもそれは自発的な思索ではなく、他者から得たもので自分の核になるものを構築しようとするもろい試みだった。端子をくちびるに繋いでコードで自分をがんじがらめにしても、ネットワークには届くが自分の奥底には届かない。

 最後に彼女が下す決断のきっかけは、彼女と同じくらいの年頃なら大抵誰でも経験があり、早くて次の日くらいにはどうにでもなる程度のささやかな他人との行き違いだ。だが、「自分とはなにか」という問いの答えの基準を他者の視点へ過剰に依存していた玲音にとって、一度の行き違いは深刻なエラーとなり組み立てていた「自分像」は崩れる結果をもたらす。そこから彼女が「自分」をやり直せたか、どのようにやり直せたかは詳述されないが、最終回では何かを納得したかのような、顔の下に心の詰まった少女の顔になっていた。その顔つきの確からしさが、岩倉玲音という女の子にとって、物語にとっての一区切りをつけているのだと思う。
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