えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・総崩れ

2023年09月23日 | コラム
 まず母の咳が止まらなくなった。それは喘息だと分かって胸を撫で下ろしたが大事を取って母と同じ部屋で寝ていた父は床の間で寝るようになった。父の咳は毎晩のことなので
放っていたがそれはコロナの咳だった。とうとう宅にもコロナウイルスの魔手が伸び、
診療が自費になり強制隔離が終わったタイミングで一斉に家族はコロナに侵された。
 私も咳が酷くなったがこちらは秋の花粉症らしく、鼻が詰まってぼんやりと頭が動かず何かをする気力もなく過ごしていたがコロナウイルスに比べれば軽微の範囲である。
そのうち次から次へと40℃近くの熱を皆が出し、食事は隔離された部屋へひっそりと持ち込まれ、洗濯物はビニール袋に入れて出されと何だかホテルの清掃業者になったように働いている。
 熱は下がってそれぞれ今は好き放題過ごしているようだが部屋の中は分からない。父から呼び出されてパソコンの世話をするよう申しつけられた時に覗いた部屋の中には漫画本やら小説本やらベッドサイド用のライトやらが転がっていた。
 夜になるとまだ咳をしている。
 家の中のほうがマスクを手放せなくなり、ゴミ箱に入れ忘れた誰かのマスクが侘しく廊下に転がっている。今また犬のような咳が聞こえた。咳をしても一人よりは自分の世話をする誰かがいるほうが気が楽なのだろうが、ゴム手袋をはめてビニール袋を集めて夜中に洗濯機を回し部屋部屋へルームサービスを運んでいると少なからずホテルの苦労が分かる気がした。

私は寝しなに解熱剤を飲むようになった。会社の年休が足りないので休めないという切実がある。
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・【読書感】『花怪壇』最東対地 光文社 二〇二三年八月

2023年09月09日 | コラム
 作品内でも触れられているが「ホラー小説」と「怪談小説」は似て非なるもので、言葉を古くすれば「恐怖小説」と「怪談小説」の違いとしてわかりやすくなるかもしれない。「恐怖小説」で恐怖を与える原因は怪異ではなくとも良いし、「怪談小説」は必ずしも怖い話である必要はない。そう考えると「ホラー小説」は改めて「恐怖小説」とも「怪談小説」とも分類できないものなのだろうか、と『花怪壇』を閉じて思った。

 著者の最東対地が主人公となるモキュメンタリー風味の連作小説で、『残穢』のように作家が取材対象を追いかけて行く中で客観的に追いかけていたはずの怪異に捕まえられて追いかけられるといった具合だ。舞台は関西を中心とした架空の花街「夜凪」で、いつからそこにいるのかわからない「梅丸」という口元へ傷のある絶世の遊女の怪異譚を企画として追いかけていく。五つの風俗街「夜凪」の街としての特色を各章の扉に起き、作家が「梅丸」にまつわる怪談を集めて訪れる「夜凪」の描写と出来事を間にそこで集めた怪談を最後に置いて章を〆る。美女を追いかけながら何故か視界の端には古めかしいカンカン帽とインバネスの裾が翻り、気がつくと作品内の最東も帽子とマントを自分で気が付かずに身に着けているほど怪異に侵食されていく。問題の「梅丸」本人が何をしたかは怪談として語られず、猟奇事件としてまとめられているが、そこに至るまでの彼女の執心や愛憎といった情味が薄味なので唯一愛したとされる作家の男が実はインバネスとカンカン帽を被っていた、とされても何に巻き込まれたのか、恐ろしさの核のようなものはどうにも掴み所がない。たとえば喋りながら町中でさりげなくコートと帽子を買うとか、事件の端切れを新聞記事に見つけるといったくすぐりはなく、一足飛びに「梅丸」らしき影を主人公はあらゆる女の影に見るようになり外見は愛人の男へと変化した結果が羅列されている。

 結果の集結として作中の最東はスマートフォン越しに「梅丸」と彼女を取り巻く怪異を目にして怯えながらも「梅丸」に惹かれて行方不明になるが、それもまたできあいの惣菜をレストランで出されたような予定調和にオチている。「梅丸」に取り憑かれると男たちは皆彼女の愛人と同じ姿に変じ、いつしか日常から姿を消してしまう。そのまま男たちは「梅丸」に新しい獲物を捧げるため、あちこちの街を徘徊して相応しい人間に近づく怪異となる。要所要所で描写はされるものの、「夜凪」の描写と「梅丸」の描写の塩梅に困ったのか、「夜凪」の印象は残るものの「梅丸」とその愛人が怖いものという印象はどうにも薄い。初秋の夜長の読書始めには軽口でちょうどよいかもしれない。
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