えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・身近な企て明日のゆるやか

2019年12月31日 | コラム
 あまりにも毎年の協調性がないため、仕事のできるきょうだいがリビングの伝言板に家族全員分の掃除の予定表を書き込んでいた。担当者と場所割と掃除の順番は厳密に決められている。朝にきょうだい全員を集合させる予定を詰め込んで逃げ場と糾弾の場を作ったのはうまい工夫だと思う。自発的に起床した面々は粛々と持ち場について、配布された雑巾やビニール手袋や軍手を装備した。朝一番に冷たい水で雑巾を絞り上げ、デッキブラシや放水ホースをかいくぐって玄関の埃を拭いていると、夜中の四時まで夜更かしをした調子っぱずれの体の部品が元の所へ戻っていくようだった。十二月にしては暖かいせいか、水道から直接出した水もまだあたりが柔らかかった。
 その調子で玄関が済むと配布された水入りのバケツに車用布巾にゴム手袋と液体洗剤を渡されて窓拭きを始めた。背が届かないとぼやきをアピールしても「頭を使え」「頭がなければ踏み台を使え」と使い古しの返答をもらうばかりで、脱衣所に転がっていたミッフィーちゃん柄のプラスチックの踏み台を掴みとぼとぼと窓の外に出た。踏み台に上るとどうにかガラス窓のてっぺんに手が届く。これも使い古しの車用布巾はフロントガラスやサイドミラーといった命に係わるガラスや鏡を拭く都合上、洗剤がなくとも水だけで十分に窓はきれいになった。足場のない二階の窓はどうすればよいか、ときょうだいに尋ねると「工夫しろ」と荷物の整理まぎれに何ら物事の解決しないあいまいな回答をいただいたので、窓枠に腰掛ける形で半身を出していると「ばかやろう」と叱られた。宅のガラス越しに磁石で張り付く窓拭きの道具は先年お役御免となり処分場のほうにあり、腕もあいにく短いのでやむを得ないと判断しての行動だがやはりおかしかったらしい。ほどほどにせよとのお達しをいただいたのでこれ幸いと、もっと危ない出窓の方は内側を拭くだけで勘弁していただいた。
 お昼を皆でいただいた後の惨事は文字通りの惨状で、一日ではカタがつかず次の日も現在もカタが就くどころか収集車はとうに休みをいただいているため、本格的にきれいになるのは年明けの見込みになる。それでも各自体力を使い切った満足感にひたり、加齢とともにやってくる疲労をスウェットと布団で癒しながら、居城である台所を掃除する母を生暖かく皆で見守る大晦日の夜が近づいている。

 本年も拙ブログにお付き合いをいただきまして、誠にありがとうございました。
 文字による発信が年々簡便になるにつれて、発信者の数が読者よりも上回り、おそらくはアクセスの数もよほど有名人やブログの書き方を心得ている方でなければ、検索エンジンのためにウェブを探るロボットだと思われます。その中で人間の読者の方がいらっしゃることはまことにありがたいことで、言葉を連ねる必要もないでしょう。
 十年前から大きく様変わりしたメディアのありかたを見つめながら、今年の仕舞の雑文とさせていただきます。来年も時々、文字の多めな拙ブログへ足をお運びいただけましたら何よりのひそやかな喜びです。どうぞよろしくお願いいたします。
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・羽子板送り

2019年12月28日 | コラム
 平日の18時を過ぎたとはいえ浅草の街だった。表参道の店はほとんどシャッターを下ろし、伝法院通に軒を連ねる店店は明かりばかりが華やかでとうに店を閉めており、雨上がりの羽子板市に向かう客は疎らだった。雨上がりのアスファルトはまだ湿り気を帯びている。羽子板市の最終日は20時半で店を閉めるので、知人との待ち合わせの空いた時間も惜しく先に下見へ行くことにした。正面から浅草寺の正門が見えるほど人のいない表参道を突っ切る。人出はなく静まっている。先月訪れた新宿の酉の市の賑わいが嘘のように、人形焼き屋を抜けた先にぽつりとようやく羽子板の店が見えた。
 かつては正門の前を埋めるように並んでいた店は左と右へ綺麗に別れ、門から真っすぐに浅草寺の本堂が見える。数年前の並びから間引きをしたような、わびしい店の並びだった。少ない店もすべてが羽子板の店ではなく、染め物の店や前川印伝の屋台や、木工オリジナルの正月飾りといったそれ以外のものが三分の一ほどを占めている。既に店じまいを始めている店もちらほらとあり、法被を着た売り子が呼ぶ相手もなく、閑散とした雨上がりに中年の男女連れが平置きにされた羽子板の店先を覗き込んでいた。
 押し絵羽子板の顔は年々かわり、ほんの5年前ほどは浮世絵や役者絵のような一重に面長の美人のあでやかが、現代の子どもに飛びつくようにと工夫を重ねた結果、十把一絡げに二重の丸い目と丸顔の猫のような顔つきをした少女に変わっていた。興味深そうに見る人はいても、手に取る人はいない。かろうじて歌舞伎の鷺娘や藤娘たちが昔の意匠を残してはいるものの、瞳のかたちは黒目がちな少女に近かった。昔は昔はと内心呟きながら、これもかつては店の背景を飾り人を楽しませていた「今年の有名人」の羽子板もなく、一メートルくらいの「アナと雪の女王」をモチーフにした羽子板が目立つばかりだった。最新作ではない前作の絵柄なのが物悲しい。
 そうして隙間だらけの市をただ歩きながら店先の羽子板の顔を覗いていると、「はいそこのお姉さん」と声をかけられた。「お手を拝借してもいい?」顔を上げると、壮年の法被を着た男が両手を軽く開いてこちらを見ていた。「このお兄さんがね、奥さんに赤ちゃんができたんでね」隣にいた若い男が軽く会釈をする。彼の前には紙で丁寧に包まれた、一抱えほどある大きな羽子板が横たわっていた。「今時えらいよ、奥さんのために羽子板買うなんて」と、店主らしき男はにこっと若い男へ笑いかける。私も店主に倣って手を広げた。
「それではお手を拝借して三本締めで!よーおっ」
 勢いの良い三本締めの拍手は、十二月の浅草の境内にカッキリと響いていった。
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・駅手前通学

2019年12月15日 | コラム
 その親子に注意を向けるきっかけは今年の4月の中頃の朝、子供の泣き声がホームから改札口に続く階段のほうから降ってきたので反射的に顔を上げてしまっただけのことだ。紺色の帽子とジャンパースカートに白いシャツを着た、まだ幼稚園を出て数週間後くらいの小さな女の子が、起き抜けそのままのよれた青いTシャツとスウェットにつっかけサンダルの男へすがりつくように泣きわめいていた。浅黒い男の顔から眼だけがライチのように白く剥きだしていた。

 私立の小学校に通う子供の電車通学はよく見かけるが、通い始めのほとんどは背広を着た父親やスーツの母親に手を引かれ、5月の連休を過ぎるころには友達と待ち合わせたり平然と一人で電車に乗れるようになる。けれどもかの少女は4月に女性専用車両へ置き去りにされて以降、5月には大人が詰まったドアへ突き飛ばされ、6月には同じ学校らしき年上の女の子へ無理やり身柄を預けられ、と、常に涙を伴う騒ぎを父親と共に月に一度演じていた。

 駅へ苦情まがいの注意を入れても、7月にはホームに置き去りにされて泣いている少女を駅員が保護して駅から連絡を受けた学校の教師が迎えに来た、というエスカレートした事案を教えられただけだった。夏休みを挟んで9月、少し背が伸びた少女は変わらぬ大泣きの末にまた父親から突き飛ばされて電車に押し込まれていた。発車準備をしつつそちらを注意する駅員の緊張が痛々しかった。

 ひいき目に見てもこれからの出社先はパチンコ屋の開店行列のような父親に関わるのも怖いが、このまま延々と毎月の愁嘆場を覚悟するのも憂鬱だった。10月に開催された一幕を見届けたその日に私はとうとう児童相談所の電話番号を調べ、巧みに私の氏名を聞き出そうとするきびきびした女性の担当者へ「駅がすべてを知っている」と匿名を貫いてはじめてのつうほうを完遂した。

 電話をしてからひと月、その親子が朝の駅のホームへ現れることはなくなった。
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