ある日ふと思いついて近郊の新興住宅団地を歩いてみた。
最新の洒落た色々な建物、必ず付いている、駐車スペース、庭で咲き誇っている春の花。
これが今の言葉で言う勝ち組だ。
とすればホームレスは負け組で、その予備軍になるかも知れないニート族といろいろ考えながら、歩くうちに私自身のことについて思い当たった。
私にも長い80数年の間に人並みに人生の転機が何回かあった。
1回目は、夜学を出たとき。その時は結局今まで貧乏な中から私を育ててくれた、父母を楽にさせるため。
2回目は、中東長期出張要員として、関連会社出向の話が出た時は、妻と3人の子供のため。
いずれも安全サイドの当時の会社勤めの続行する道を選んだ。
その結果は、勝ち組にも負け組にも入らない年金暮らしを続けている。
今になって考えると、私の決定は今の若い人達からは軽蔑されるかも知らないが、凡庸な私が少なくとも苦しくない生活を送れているのは、父母や家族に対する責任を負う方を選んだお蔭だと思っている。
これに関して、今も心に引っ掛かっていることがある。
私の属している英字新聞輪読会で出た、
Being able to exercise one's rights is fundamental to democracy.
(権利を行使できるということは,民主主義 にとって基本的なことだ。)
の言葉だ。
戦後間もなく私の経験した次のことをブログ
息子が学校から持って帰った試験の答案を見ました。
「お母さんからお菓子を二つ貰いました。弟がそれを見て一つ呉れと言いました。貴方はどうしますか」と言った問題でした。
息子の解答は「弟に一つ別けてやると」書いていましたが、[×]がついていました。つまり二つ貰ったのはその子の権利だから、それを主張すべきだと言うのです。
私は驚いて、学校がそう言うのならそう覚えるしか仕方がないが、うちの家だけは権利より兄弟への思いやりの方が大切なので、 息子の書いた通りにしなさいと言いました。
を紹介したところ、「そんな嘘を書くのは止めろ。」とコメントが来たことがある。
つまり今の人が嘘だと思うような教育が行われていた例だ。
また昭和50年ころデパートで見た、「憲法には権利の記述はあるが、義務の記述は全くないのである」書かれた中学の社会の教師用の指導書などから考えて見ると、戦後間もなくは学校で、民主主義の基本的な権利重視の教育が行われていたのだろう。
その時権利に伴う義務や責任についての教育がどれだ行われたのだろうか。
少子化の若い人の責任
責任を問うこと
政府、官庁、企業の責任を問う報道が多いは良く判る。
しかし、自分の子供のことは棚に上げて学校の責任を問う父兄と、その対応のストレスで悩む教師。
給食費の費用負担は国の責任だと支払いを拒否する父兄。
などどう考えてもおかしい。
責任を負うこと
幼児の育児放棄や虐待、
子供達から皆離れた老人の孤独死、
「子育てよりも自分の生活優先」と考える若いカップルの増加
など、家族としての責任、まして社会に対する責任感の希薄さが際立っている。
自己責任
これは、イラクで日本人三人が拉致されたときから盛んに言い出された言葉だ。
つまり、左派の特定グループに支援された彼らの家族が好き勝手なことを言って政府の責任を問う ていたのにたいして、政府の要人が個人責任と言った途端に一部のマスコミや一部のへんてこな評論家が色々とクレームを付けてからだ。
ニートの問題
私がホームレスから連想した、ニートの人達も批判されれば、自己責任だと言うかもしれない。
然し、彼らはいずれ衰えてくる父母の支える責任、有形無形の恩恵を受けている社会を支えていく責任を忘れているような気がする。
日本の進む方向
責任、義務など言い出すと、直ぐそれを軍国主義化と結びつけて批判される風潮から、日本が義務、責任の教育をおろそかにしてきた付けを今払わされているような気がしてならない。
そして、この傾向は残念ながら、一部の政党、マスコミと批評家のお蔭でまだまだ続き、社会の劣化がますます進んで行くのだろう。
あとは強いリーダーシップを持った首相と良心的なマスコミの支援を待つしか無いのだろうか。
そうは言っても第二のヒットラーが出ても、御用新聞ができても困る。
戦後50年、社会劣化に限って言えば、日本は本当に困った国になったものだ。
結局は誰かが言ったように、権利と、義務、責任の重要さバランスよく取り扱う教育を子供のころから教えて、その成長するまで今後二十数年間待つしか無いのだろうか。
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最新の洒落た色々な建物、必ず付いている、駐車スペース、庭で咲き誇っている春の花。
これが今の言葉で言う勝ち組だ。
とすればホームレスは負け組で、その予備軍になるかも知れないニート族といろいろ考えながら、歩くうちに私自身のことについて思い当たった。
私にも長い80数年の間に人並みに人生の転機が何回かあった。
1回目は、夜学を出たとき。その時は結局今まで貧乏な中から私を育ててくれた、父母を楽にさせるため。
2回目は、中東長期出張要員として、関連会社出向の話が出た時は、妻と3人の子供のため。
いずれも安全サイドの当時の会社勤めの続行する道を選んだ。
その結果は、勝ち組にも負け組にも入らない年金暮らしを続けている。
今になって考えると、私の決定は今の若い人達からは軽蔑されるかも知らないが、凡庸な私が少なくとも苦しくない生活を送れているのは、父母や家族に対する責任を負う方を選んだお蔭だと思っている。
これに関して、今も心に引っ掛かっていることがある。
私の属している英字新聞輪読会で出た、
Being able to exercise one's rights is fundamental to democracy.
(権利を行使できるということは,民主主義 にとって基本的なことだ。)
の言葉だ。
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息子が学校から持って帰った試験の答案を見ました。
「お母さんからお菓子を二つ貰いました。弟がそれを見て一つ呉れと言いました。貴方はどうしますか」と言った問題でした。
息子の解答は「弟に一つ別けてやると」書いていましたが、[×]がついていました。つまり二つ貰ったのはその子の権利だから、それを主張すべきだと言うのです。
私は驚いて、学校がそう言うのならそう覚えるしか仕方がないが、うちの家だけは権利より兄弟への思いやりの方が大切なので、 息子の書いた通りにしなさいと言いました。
を紹介したところ、「そんな嘘を書くのは止めろ。」とコメントが来たことがある。
つまり今の人が嘘だと思うような教育が行われていた例だ。
また昭和50年ころデパートで見た、「憲法には権利の記述はあるが、義務の記述は全くないのである」書かれた中学の社会の教師用の指導書などから考えて見ると、戦後間もなくは学校で、民主主義の基本的な権利重視の教育が行われていたのだろう。
その時権利に伴う義務や責任についての教育がどれだ行われたのだろうか。
少子化の若い人の責任
責任を問うこと
政府、官庁、企業の責任を問う報道が多いは良く判る。
しかし、自分の子供のことは棚に上げて学校の責任を問う父兄と、その対応のストレスで悩む教師。
給食費の費用負担は国の責任だと支払いを拒否する父兄。
などどう考えてもおかしい。
責任を負うこと
幼児の育児放棄や虐待、
子供達から皆離れた老人の孤独死、
「子育てよりも自分の生活優先」と考える若いカップルの増加
など、家族としての責任、まして社会に対する責任感の希薄さが際立っている。
自己責任
これは、イラクで日本人三人が拉致されたときから盛んに言い出された言葉だ。
つまり、左派の特定グループに支援された彼らの家族が好き勝手なことを言って政府の責任を問う ていたのにたいして、政府の要人が個人責任と言った途端に一部のマスコミや一部のへんてこな評論家が色々とクレームを付けてからだ。
ニートの問題
私がホームレスから連想した、ニートの人達も批判されれば、自己責任だと言うかもしれない。
然し、彼らはいずれ衰えてくる父母の支える責任、有形無形の恩恵を受けている社会を支えていく責任を忘れているような気がする。
日本の進む方向
責任、義務など言い出すと、直ぐそれを軍国主義化と結びつけて批判される風潮から、日本が義務、責任の教育をおろそかにしてきた付けを今払わされているような気がしてならない。
そして、この傾向は残念ながら、一部の政党、マスコミと批評家のお蔭でまだまだ続き、社会の劣化がますます進んで行くのだろう。
あとは強いリーダーシップを持った首相と良心的なマスコミの支援を待つしか無いのだろうか。
そうは言っても第二のヒットラーが出ても、御用新聞ができても困る。
戦後50年、社会劣化に限って言えば、日本は本当に困った国になったものだ。
結局は誰かが言ったように、権利と、義務、責任の重要さバランスよく取り扱う教育を子供のころから教えて、その成長するまで今後二十数年間待つしか無いのだろうか。
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