普通のおっさんの溜め息

戦前派から若い世代の人たちへの申し送りです。政治、社会、教育など批判だけでなく、「前向きの提案」も聞いて下さい。

秋葉原の通り魔事件

2008-06-10 10:25:19 | 政策、社会情勢

 また凄惨な通り魔事件が起こった。
 これについて新聞やテレビで犯人の加藤智大容疑者(25)の人となりを分析している。

この種の事件の犯人で目立った点
 そしてこの種の事件の犯人のように、彼の場合も中学、高校の成績はトップクラス、人づきあいは余りなく目立たないが、友達や近所の評判は悪くないと言う何時も似たような分析結果が出ている。

 この分析結果は生来の不勉強で学校の成績はそこそこだったのを除けば、若いとときの私に余りにも似ているので人ごとではない気持ちだ。

この種事件続発の原因の一つ
 この件については昨夜の定例の「英字新聞輪読会」でも話題になった。
 そしてその種の事件続発の原因として今の若い人達は漫画、ゲーム、テレビなどで物事を短絡的、瞬間的に捉える傾向が強いのではないか。
 そして、昔はそれらの娯楽はないため、それに代わるものとしての読書の習慣で培われた、その文章を深読みし、その場面を頭の中に思い浮かべることで、想像力が養われたのだ、そして犯人は被害者やその家族についての想像力がないのが犯罪の根底にあるのだと言う話になった。

25歳前後の私
 私はその話の輪に加わりながら、犯人の人柄に良く似ている私が彼と同じ25歳のころのことを思い出していた。
 私は二十歳過ぎに終戦で復員して直ぐに元の会社に復職し結婚するまでの間、趣味の登山を再開し、夜学の工業専門学校と英語の短大に行った。
 登山も夜学も何も殊勝な気持ちで行ったのではなくて、昼間の会社勤めだけでは余った精力の吐け口をそれに求めたと言う単純な理由だった。
 詰まり他の若い人達のようにテニス、野球などの運動やアフターファィブの飲み会に出かけたのと同じ理由だ。

[犯人と彼と同年代時代の私]
 報道によると犯人は自動車工場の派遣社員だったそうなので、徹底的に合理化された凄惨システムに組み込まれ、ロボット同様にマニュアル通りの仕事をさせられていたのだろう。
 帰宅しても近隣との付き合いがまったくない単身者用のアパートの個室に閉じ籠もる。
 そしてやることは漫画やゲーム、インターネット?

私の若かったころの生活環境
 私の場合は学校卒業後、直ぐに職員として採用され、年上の作業員に仕事を依頼すると言うストレスの多い仕事だった。
 中には職人肌の工員や、やくざと繋がりがあると噂されていた鳶職のボスなどがいて、新卒のスタッフには思いもよらない理由で、思いも寄らぬ反応をされ、それでも何とか仕事を進めねばならない苦労を味わされていた。

 それでも当時は合理化の今ほど進んでおらず、忙しいときでなれけば登山のための休暇を取ったり、夜学通学のための定時あがりも出来る余裕もあり、規定作業時間中でも自分で勉強できる時間なども取れた。
 帰宅すれば親や兄弟がいたし、当時の狭い家では否応なしに親や兄弟と顔を突き合わせるなど今で言うプライバシーなど全く無かった。
 当時は結婚前はまだ親と同居し、親に給料を全て渡しそれから小遣いをもらうのが普通のやり方だったからだ。

犯人の生活環境
 加藤容疑者は場合は報道によれば合理化されたシステムの中で働くストレスもあっただろうが、月給30万円をそっくり使え、アパートに帰れば完全に自由な暮らしをエンジョイできた。

若い人のエネルギーの発散
  私は前に書いたように、登山、夜学通学で余ったエネルギーを発散させていたが 、犯人は合理化されたシステムの中で、
・就業後に昔の私たちのようにまだ自分のために使えるエネルギーが残っていたかどうか
・残っているとしたらそのエネルギーをどう発散したのか、
・またはそれを発散しきれずに却ってそれがストレスを増す原因になったのかどうかは問題が大きいが推測するしかない。

 
犯罪の抑止力
 加藤容疑者と昔の私たちのどちらが幸福だったのかは、私は私たちの方が幸福だったと思うが、人によりとり方が違うのだろう。
 然し、彼のような突発的な凶悪犯罪の抑止力から言えば、昔の方が大きいと思う。
 何故なら私のような人づきあいの悪い人でも帰れば親や兄弟にに抱えている悩みを聞いて貰えるからだ。(実際には仕事の悩みを話した記憶はないが聞いて貰える人がいるだけてもストレス発散になる筈だ)

良い人を演じるためのストレス
 もう一つの違いはこれも報道によれば、彼は他人に対して良い人を演じていたそうだが、私は天然のお人好し(悪い意味で)まる出しで過ごしたのでこの点のストレスが溜まることは無かったが、彼が 良い人を演じるのがストレスになったかも知れない。

自己責任の考え方
・昔人間の考え方
 もう一つの決定的な違いは彼が馘になった(と彼が思い込んだ?)ときの考え方だ。
 私は幸いにこのようなことは経験せずに済んだが、このような事態になったとき、昔人間の考え方では会社や他人を恨むこともあるだろうが、私自身も何か悪いことがあったのかも知れないと言う反省も浮かぶと思う。
 つまり日本人の直ぐ「済みません」と言う考え方からきている。
 これが犯人が冒した犯罪の抑止力として働くと思う。
(「済みません」は国内では互いに譲り合うことで対人関係をスムーズにさせるが、慰安婦問題の謝罪のように、外国では全くの逆効果で、このような発言が-で更に攻撃の対象となるので一概に日本の美風とは言えない。)
参照:「済みません」の国日本

・犯人の考え方
 加藤容疑者の場合は馘首の原因は全て会社、また社会が悪いのだと考える。
 それが今回のような「誰でもよい」発言に繋がっているように思える。
 こう言う考え方は欧米流に責任を全て他人にかぶせる考え方が日本人に浸透してきているような気がする。
 それと私の持論だが、戦後の権利重視、義務、責任の軽視の教育の結果、自分の責任は棚に上げて権利ばかり主張し、何でも他人の所為にする風潮が次第に強くなっているのも大きな原因と思う。

[念のために言って置きたいこと]
犯人はあくまでも例外
・但し念のために言って置きたいのは、犯人と同じような境遇にいてしかも犯罪を犯すどころか、会社や世間からも愛され尊敬される人がこの種の犯罪人より圧倒的の大多数を占めていることで、彼は非常に僅かな例外に過ぎないことだ。 

日本として考えねばならぬこと
・然し今回の事件は外国のメディアに大きくとり上げられ、日本の安全神話が崩れ始めた象徴のように報道されている。
・日本として日本人としては、彼の今回の殺傷事件を例外と考えずに、今後の企業や家庭などの社会のあり方、そしてその基本となる倫理観や教育のあり方を充分な考え直す必要があると思う。

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