みどりの野原

野原の便り

9月13日 奈良 史跡めぐり ならまち 漢国神社・林神社 徳融寺 52段 菩提院 なら仏像館 首輪鹿 

2017年09月13日 | Weblog
ならまちあたりを歩く。

漢国神社(かんごじんじゃ)
初めて来た。
木津の戦いで真田幸村に大敗して奈良へ逃げ込んだ徳川家康が、漢国神社の前で修理していた桶に隠れて助かった話。
奈良には他にも徳川家康のエピソードがあるらしい。

  
三間社流造り檜皮葺きの本殿は桃山時代の建造 県指定有形文化財

 
境内社の林神社 饅頭の祖、林浄因や子孫が祀られている。毎年4月15日に饅頭祭りがあるそうだ。
                       右) 饅頭塚

 
「ぜいたく豆」の建物をそのまま生かしてコンビニに生まれ変わった。
   右)料理店「江戸川」この建物は築140年元は呉服商だった建物。糸格子もそのまま。
ならまちには他にも、昔の建物を壊さずにうまく転用しているところがある。

隼神社 
中には入らなかったが、「元の黙阿弥」ということわざの語源の話を聞いた。
筒井順慶が2歳の時、父順照が病死した。順照が死んだことを敵に知られないように、順照と声や容貌や背格好や年齢も近く、隼神社の近くに住んでいた盲目の僧「黙阿弥」を代わりとして、敵方に生きているように装った。
3年後、やっと死を公表し、黙阿弥に暇を出した。それで「元の黙阿弥」に戻ったという。


徳融寺(元は高林院とも号し、少し離れたところにあったらしい)

 
初めて来た。藤原豊成邸跡と伝わり、「豊成・中将姫の旧蹟」とされている。
豊成と中将姫の供養塔があったらしいが、肝心なところを見逃した。
その供養塔(石塔)を松永久秀が多聞城を築くにあたり建材として持っていこうとした時、高林院の法師が「曳き残す花や秋咲く石の竹」と詠んで、石塔は残された。

 
    高林寺と高坊旧跡 ここも「中将姫修道霊場」とのことで同じような話が伝わる。
伝説とはいえ、頭がくらくらしてきた。


通りかかった「花園新温泉」という風呂屋。一度入ってみたい。

花園町という町名は、元興寺の諸仏に供える花を栽培していたところからの命名。
昔は寺は花畑を持っていたらしい。 今はその面影さえもない。

お昼は猿沢池周辺で弁当を食べた。


率川の川中にある率川地蔵尊(尾花谷地蔵尊)

午後


「52段」を登る。52とは仏門に入る修行の段階を意味するらしい。1段1段登った。

「三作石子詰」の伝説地へ。

菩提院


菩提院は 僧・玄昉により天平5年に創建された日本最初の本堂とのこと。現在の建物は火災の後再建されたもの。

ここに「三作石子詰・13鐘」の伝説が残る。
『昔、ここにあった寺子屋で三作が習字の練習をしていると、庭に入ってきた鹿が紙をくわえたため、脅かすつもりで文鎮を投げたところ、当たりどころが悪く鹿は死んでしまった。
そのころ、鹿は春日明神の使いといわれ、人の命より大切にされていて、鹿を殺すと、鹿と一緒に生き埋め(石子詰)にされた。
13歳の三作も「石子詰の刑」に処された。後醍院のお坊さんは供養のために明けの七つ(午前4時)と暮れの六つ(午後6時)三作の年齢と同じ十三の鐘をつくようになり、この鐘を十三鐘と呼ぶようになった』(資料より。端折っている)

その後、仏像の見方などの説明を受けて、なら仏像館へ入館


なら仏像館 奈良で最初の本格的洋風建築 明治27(1894)完成

たくさんの仏像が展示されていた。
先ほど教えてもらった如来や菩薩の特徴などを確かめながら回った。如来さん 菩薩さん なるほど・・
修理を終え、特別公開されている 「降三世明王座像」もあった。

帰り道

 
まだ表面に毛が生えた1本角の若い鹿        あれっ。鹿が首輪してる。
帰って調べると、何頭かに発信機をつけて鹿の行動範囲を調査しているらしい。

「ならまち」という狭い範囲であったが、行ったことのないところ、初めて聞く話も多かった。
徳川家康の足跡や中将姫に因む伝説がたくさんあることにびっくりした。
町名にも歴史的な由来があることも知った。
コメント
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