言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

中傷ではない場合もある

2009-10-24 | 日記
la_causette」 の 「1億総役立たずを目指すのか

過去の事例をみると、被害者の現実社会での言動が、匿名さんによるネットでの執拗な中傷の原動力となっている場合が多いので、ネットでは実名を名乗らないというのはネットでの中傷を受けないための方法論としてはそれほど効果的ではないようです。

「問題のある言動」をしなければ大丈夫なのかといえばそうでもなくて、


 ネットでの中傷の原動力は、被害者の現実社会での言動である場合が多い、と書かれています。



 これはつまり、小倉先生が書かれているように ( 認めておられるように ) 、

   「被害者」 が 「問題のある言動」 をしたから、ネットでの 「中傷」 が生じている、

と考えられます。こういう場合、

   本当に、「被害者」 は被害者なのか?

   本当に、「中傷」 は中傷なのか?

が問題になると思います。つまり、

   小倉先生のいう「匿名さんによるネットでの執拗な中傷」 は、
   じつは、「匿名さんによる正義の実現を求める行為」 である可能性が高い

と考えるのが、自然だと思われます。すくなくとも、

   匿名さんの動機は、「正義の実現を求める」 ところにある、

と考えるべきでしょう。



 ここで、小倉先生は 「問題のある言動」 と、鍵括弧で括って表現されていますので、小倉先生は、「一見、『問題のある言動』 であるかに見えるが、じつは 『問題のある言動』 ではない」 と示唆しておられます。すくなくとも、「本当に 『問題のある言動』 なのか」 という含みをもたせてあるのは、まず、間違いのないところだと思います。

 この解釈は、小倉先生の文章の次の部分 (↓) からも、正しい解釈である、と考えてよいと思います。





「問題のある言動」をしなければ大丈夫なのかといえばそうでもなくて、弁護士が患者側の訴訟代理人になって患者側を勝訴に導くとそれだけで執拗かつ膨大な量の中傷に晒されます。電通に就職するとか、プロの麻雀士や声優になるというのも世間的には悪いこととされていませんし、ボクシングの試合を見て感動するというのも人格を否定される話ではありません。




 しかし、ここで私が考えたいのは、あきらかに問題のない言動ではなく、問題のある言動の場合 ( あるいは、問題のある言動である蓋然性が高い場合 ) です。

 この場合、匿名さんの言動は、

  1. ( 不当な ) 中傷ではなく、「正当な行為・批判」 と考えられないのか ( 客観面 ) 、
  2. かりに違法性が認められるとしても、責任を問えないのではないか ( 主観面 ) 、

が問題になるかと思います。私としては、「正当な行為・批判」 である場合や、「責任を問えない」 場合もあるのではないか、と思いますが、



 小倉先生はこの問題について論じたいと思っておられるのではないか、と思いますので、とりあえず、小倉先生のご見解を伺うべく、トラックバックを送ってみます。私の誤解であれば ( =論じたくなければ ) 、無視してください。

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