真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

内田 勝 元少年マガジン編集長が逝く

2008年06月02日 11時11分08秒 | Weblog
 W3事件と言うのがある、(あったというべきか)
少年マガジンに連載した手塚治虫の「W3](ワンダースリー)が突然打ち切りとなりその、少年サンデーに連載された経緯。
この打ち切り事件で少年サンデーと手塚治虫の関係は、1969年と1970年に短編1作ずつを別冊少年マガジンに執筆したが、1974年に読切『おけさのひょう六』や『三つ目がとおる』までの、9年間に手塚作品が週刊少年マガジンに掲載されなかった。
この頃の週刊少年マガジンは週刊少年サンデーの部数50万部に対して、週刊少年マガジンは30万部と大差をつけられていた。その責任を取る形で、マガジンの井岡秀次編集長は辞任した。
それまで手塚治虫はサンデーの中心的存在であり、『W3』は手塚の週刊少年マガジン初登場作品だった。この連載開始は、手塚治虫の獲得が創刊以来の悲願だったマガジン編集部の要請に応えたものだったが、締め切りを守らない手塚番の編集者が手塚治虫にられておらず、その手配に閉口したのにも一因はあったが語られていない。

井岡さんの後を継いでマガジン編集長に就任したのが内田勝さんで、劇画路線を推進。さいとう・たかを、水木しげるといった貸本劇画で活動していた作家を積極的に起用した。さらに1966年開始の『巨人の星』で梶原一騎を看板作家に掲げた以後の週刊少年マガジンは、青年向け路線で劇画ブームを巻き起こしてた。

その後も、『おそ松くん』でサンデーの看板だった赤塚不二夫の『天才バカボン』をマガジンに連載させ、大ヒットさせた。

 そんな人がW3事件についても語っていたが、当時はまだ編集長ではなかったと思う、その頃の編集者たちが手塚治虫に対して「こんなに遅れるなら、落としてしまえ(連載を)とか切ってしまえとか言っていたと言う噂を聞いていた、いつかはそんな話も聞きたいと思っていた方であったが、当時10歳も年上だと随分大人の人と思っていた画、まだ70歳代前半(やはり73歳)ご冥福をお祈りいたします。
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