真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

2011年2月19日 土曜日

2011年02月19日 23時55分02秒 | アニメーション
5,648位 / 1,539,592
昨日 :482歩 起床時間 :8時10分
血圧 :113  75 脈拍 :63 体温 :35.7℃  体重 :68.6㎏

 階段を上がり降りする音で、目を覚ましテレビをつける。今日は長男が休めたので、寝坊すると言っていたのに、もう洗濯物でも干しているのであろうか。体温と血圧とを計りお勝手に行って見る、誰も居らず、ストーブもついていない。次男に聞いてみるとどうも長男が起きていたようだとの事。体重を計り、新聞を取り込み、チラシを見て、部屋に戻り、冷えてしまった体で、布団にもぐりこむ。
 9時30分からテレビを見ている、11時テレビを見終わり、着替えて下に行く。さすがに妻も起きていて洗濯が終わった所。8枚切りで、朝食を済ませる。エアコンのスイッチを入れパソコンの電源を入れる。

 東久留米図書館友の会プライベートページを作り直す作業を始める。どうもすぐに気が移ってしまい、そのたび初めから作り直したりするので、やたら時間ばかりが経過する、まだどんなレイアウトにするか決まらないうちの、13時少し前、妻が上がってきて「お昼に使用か」と言いに来る。前に後援会のお礼で頂いたうどんの残り、3人分ぐらいを3人で分かてたベルのではやはり少し物足りない、菓子パンを食べてしまう。14時部屋に戻るが、妻と次男とで出かけていった。
 気休めに東久留米中央図書館の時計塔の絵を書いてみる。やはり絵心は無い様である。
          
 16時30分「夕焼け小焼け」がなっている。しばらくして外を見る、曇っているのかな、洗濯物を取り込んでお勝手に持って行く。長男は、テレビをつけゲームをやっていたのか、そのまま寝てしまっている。部屋に戻り作業の続き、何とかページを作り出す。
17時30分、ドアの警報チャイムのスイッチを入れておいた、その音が聞こえ、妻たちが帰ってきたようだ、下に行く。菓子パンを半分貰う。そして部屋に戻り作業を続ける。

 19時45分妻が上がってきて「ご飯にしよう」と言いに来る。下に行き、テレビを見ながら夕飯を食べる。長男はまだ寝ていた、お昼も食べていなかった、との事。20時45分部屋に戻る。

 クララに色を付けてみた、ウサギ年なのでこの絵を使おうかなと思っていたが色を付けるのが間に合わなかった、また、12年後に使おうかな、

    
 すぐに寄り道擦るから、結果を見れば、また何もしていない状態、22時10分風呂が沸いたよ、と呼ばれ、風呂に入り、22時30分風呂から出て、子供らに「出たよ」と言って部屋に戻る。

 もうこんな時間、歩行計からデーターをパソコンに取り込む、hotmailページでエクセルを保存できる、そこで、体重表をコピーしようとして時間をつぶす。これまた寄り道。
23時10分ブログを書き始める。

そしてまた一日が終わろうとしている。

  ↑ 「西の魔女が死んだ」で少女が死について悩むシーンが思い出した。あんな「おばあちゃん」が居らず、未だに気が狂いそうになる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンシェリCoCo

2007年03月02日 21時31分13秒 | アニメーション
モンシェリCoCo

手塚プロを去った私は、スタジオテークの正延宏三さんに乞われ、日本テレビ動画の、「モンシェリココ」を手伝っていた。

9月放送開始
プロデューサー 高橋  貞夫 佐々木 一雄
原作   大和  和紀
演出 正延  宏三
脚本   吉原  幸栄
美術協力  川村   都
音楽  大柿  隆
主題歌 
  作詞   有馬  美恵子
  作曲   川口  真
  歌   中島 まゆこ

製作協力 スタディオ テイク
製作    日本テレビ動画
      TBS

第 1話 かわいいあの子

パリ ノートルダム セーヌのほとり

 「やっときたんだわ
マロニエの花咲く ロマンの夢香る
 憧れのパリ   夢の都パリ
  ウフフ
うれしくなちゃって  ぞくぞくしちゃう
でも内緒      あたしには秘密があるのよ
 だからパパには ないしょ ナイショ
だって せっかく夢を探しに パリに来たんですもの
わたしはただ ちょっと気まぐれで ちょっと冒険好きで
そして夢を追いすぎるだけなの
ほら あなたの お友達の あのこのこと
思い出してくださらない
 ウフフ
うれしくなっちゃって つい おしゃべり」

ココのこんなおしゃべりから 第1話 かわいいあの子は始まります。

ハンカチを落としておまわりさんに追われるココは カメラマンのジェロームと出会う



これからの行き先をコインで占うココとジェロームは 食べ放題のケーキ屋さんと出会う
そして売れないケーキのデザインをココは説得して任せて貰うことになる。

ココ 気まぐれなへんなこだけど 君の中には はっとするような キラキラするやさしさがある
ココって名乗っている君は いったい だれなんだい

と言うジェロームのナレーションで1話は終わり2話へと続く。

---------------------------------------------------
ココ 広川  あけみ
ナタリー つかせ のりこ
ジェローム 森   功至
シェリル 北浜  晴子
クロード 富田  耕生
父 ラサレフ 勝田  久
アンジェリカ少年 松島  みのり
女の子  A 菊池  絋子
     B 吉田  理保子
手下 男 A 中曽根 雅夫
     B 山田  俊司
--------------------------------
スタッフ
作画監督 大坂 竹志,鈴木 満
美術監督 井岡 雅宏
撮影監督 菅谷 正昭
音響監督 山崎 宏
効果 片岡 陽三
作曲 宮下 滋
音響制作 E&Mプランニングセンター
録音 東京テレビセンター
現像 東洋現像所
----------------------
原画 曽木 豊海, 金子 當行
動画 秋山 恵美子,江部 敏春
背景 アトリエ 69
仕上 小出 カオル
編集 鶴淵 允寿

絵コンテ 小室 富士夫
演出助手 伊藤 幸松
進行 小西 正夫
----------------------
第 2話 ココのケーキやさん
第 3話 わたしはデザイナー
第 4話 わすれられないひと
第 5話 泣きたい時は泣こう
第 6話 チャンス到来
第 7話 いじわるなファッションショー
第 8話 もう一度さようなら
第 9話 ピンチだアタック!
第10話 もう子どもじゃない
第11話 じゃまをするなら 変身作戦
第12話 母をたずねて 日本へ
第13話 しあわせは京都からパリへ プロデューサー    
スタッフにメルモの時の人がかぶっているのはわかる。
作画はスタジオテークの人の名前が、演出助手の伊藤 幸松さんは、あしたのジョーで進行をなされていた方、スタジオテークに移って、作画の勉強をしていた。

小さなプロダクションでも作品を作ることが、出来ることを証明したかったのだが、思わぬところに落とし穴があり、8月末、私が途中で降りたので、当初の予定2クールのところ、1クールで、打ち切りざるを得なくなった。
 そして11月私の結婚式の日に放送が終わった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メールの返事が来た

2006年11月04日 15時40分17秒 | アニメーション
 今日の午後2時過ぎ 杉並アニメーションミュージアム 事務局から、「誕生日トークショーの件:杉並アニメーションミュージアム」の件名で、昨日抗議したメールの返事が来た。
その内容は
 この度は「誕生日トークショー」にご参加いただき誠にありがとうございました。
当日、当館の対応に不行き届きがあり、ご心痛をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。
手塚先生の奥様への対応は、真佐美様のご指摘の通り礼に欠けたものでありました。

真佐美様のご意見を深く心に受け止め、スタッフ一同今後この様な事が無いように運営して参りたいと存じます。
どうぞこれからもご指導、ご鞭撻くださいますよう宜しくお願い申し上げます。

 でありました。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手塚先生 誕生日記念トークショー

2006年11月03日 15時07分56秒 | アニメーション
杉並アニメーションミュージアムで開かれた、手塚先生の誕生日記念トークショー
「僕の手塚治虫」~上海の手塚治虫-1988年・秋~ へ行って来た。これは<手塚治虫先生が病をおして出かけられた最後の海外旅行の地、上海での知られざるエピソードをアニメーション界の豪華メンバーが語る。二度とない貴重な証言から、不世出のクリエーター手塚治虫の素顔に迫る!> とうたっていて、どうにも興味が会った。
出席者は 川本喜八郎(人形アニメーション作家 人形美術家 日本アニメーション協会会長)
鈴木伸一 (杉並アニメーションミュージアム館長 日本アニメーション協会副会長)
松谷孝征 ((株)手塚プロダクション代表取締役 日本動画協会理事長)
南 正時 (鉄道写真家 日本アニメーション協会会員)
 司会進行役 片山雅博 (多摩美術大学教授 日本アニメーション協会常任理事・事務局長)で13時30分から開始であった。50ccバイクで昼には家を出た、気温がずいぶんと涼しくなったなど感じながらゆっくり行ったが、早めについてしまった、そこで、なにか本でも呼んでいようかと、視聴覚室で本を探し、前から読もうとしていた本、手塚先生の奥様、手塚悦子さんの「夫・手塚治虫とともに」が目に付き、それを読み始めた、新婚旅行で手塚先生が、下痢をしたという、くだりを呼んでいるころ、トークショーの受付開始アナウンサーがあり、この次にはゆっくり読もうと会場へ入った。1時から受け付けて1時半からの開始、ふと、後ろを見ると、今読んでいた本の作者、奥様がいらしていた。虫プロの同窓会以来のご無沙汰であったので、ご挨拶を申し上げた。今読んでいた本を書いたご本人と、久しぶりに会えるとはまったく想像できないことで、なにか縁ということばが浮かんだ。
会の中では、松谷社長が1回だけ「後ろに先生の奥様も見えています」と言ったきりで紹介もなかった。終わって、すぐに奥様の横へ行き見守ったが、ゲストの人が、簡単に挨拶しただけで、松谷社長が言葉を交わしていたが、ゲストのドアから控え室へさがられてしまった、奥様一人取り残されていたのでお話を伺うと、「手塚先生のお墓参りに行った帰りで、この会のことを知ったので、寄ってみました」とのことで、見守っていると、一般の人のドアから会場を出てエレベーターを待っていた、お帰りになるのですかと尋ねると「そうです」と答えられた、受付の人たちとは顔なじみらしく、言葉をかけられたりしていたので、私は帰るため、階段で下へ降り、バイクのそばで帰り支度をしていた。すると手塚先生の奥様が一人で玄関を出てきた、まさかお一人では、お見送りの人はと、建物の中を見たが、誰もお見送りしていなかった。また挨拶をしてわかれたが、てっきり車でおいでで、誰かがついているのかと思ったら、まったくのお一人であるいて行かれた。交差点でまさかのバス停で待っている奥様を見かけた。
 帰り道、次第に怒りがこみ上げてきた、なんと言う失礼な人たちなんだろうか、わざわざ立ち寄られたのに、お茶の一杯も差し上げないのであろうか、そのうえお見送りもしないとは、私の想定の範囲をはるかに超えた、礼儀を知らない行為ではないか。手塚先生の講演をしておきながら、わざわざお寄りになってくださった、先生の奥様に対する、これが態度であろうか。不義理をしている私が、「そんなことを言う資格は無い」、と言われるかもしれないが、とても許せる態度ではない。帰宅してから、ますます腹がたって来て、杉並アニメーションミュージアムへ抗議のメールを出した 。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メルモの武藤 礼子さんが逝く

2006年10月31日 09時12分47秒 | アニメーション
 武藤 礼子(むとう・れいこ)さんが29日、心不全でお亡くなりになっていた71歳だったという。お通夜は31日午後6時、告別式は11月1日午前11時から東京都世田谷区砧7の12の22の耕雲寺で、喪主は夫の明さん。アニメ「ふしぎなメルモ」のメルモの声など、主に声優として活躍していました。

武藤 礼子さんは佐武と市捕物控の みどりの役で知り合い「ふしぎなメルモ」でメルモの声をしていただきました。
メルモでは、すぐにスケジュールがなくなり、トレスの上がった状態でのアフレコ、そして絵コンテの絵を撮影したフィルムでのアフレコ、しまいには、まったくの映像がなく、白みのフィルムにしるしをつけての状態で、アフレコをしていただくことが多くなりました。テレビを見た人は、あれは何にもない状態でアフレコした作品だったとは、信じてもらえないと思います。そんな貴重な作品も今は、リニューアルされてしまい、見る機会がなくなってしまい寂しいです。
 最近お名前を見かけることがなくなっており、心配していましたが、まさかこんなにも早く、旅立ってしまわられると、思いもしおりませんでした。
 いつかは、またお会いして、「メルモ」のときの事を、お詫びしたいと思っておりましたが、それも叶わなくなってしまいました。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴木館長が語るアトム ミドロが沼

2006年10月09日 14時43分46秒 | アニメーション
午後から杉並アニメーションミュージアムへ行く
 講演会があったからで、レクチャーアニメ「鈴木館長が語るアトム」へ言ってきたのであった。

 鈴木伸一館長が、演出として関わった『鉄腕アトム(1963年-1966年)』第34話「ミドロが沼」について思い出を語ります。
第34話「ミドロが沼」は、トキワ荘出身者で作られた「スタジオゼロ」によって制作されました。石ノ森章太郎、つのだじろう、藤子・F・不二雄、藤子不二雄(A)(50音順)といった壮々たるメンバーで作られた作品です。

と言うことで、早目に杉並アニメーションミュージアムに付く、資料の部屋で展覧会の絵の入っているDVDに、オーケストラの実写版が入っていることをスタッフに教えてもらって知った。DVDは直されていたりするので、ビデオのほうが良いのではと勝手な先入観で考えわざわざビデオの「展覧会の絵」を購入したが、結果的にはDVDのほうが、たくさんの作品が入っているので、価格的には安く、良いことになるにだ。時間まで、オーケストラ場面のDVDを見させてもらった。
30分前に会場へのアナウンサーがあり会場へ入る。そこは、上映している会場であった。
 ゲストに辻真先さんと声優の勝田久さん(御茶ノ水博士)がお見えになっていた。
聞きたいことがたくさんあっていったのであるが、質問はあらかじめメールでの質問だけに答える形であった、メールで申し込みをしたときの私の質問に対するお答えが、最初で、丁寧に長くお答えになって下さったのがせめてもの慰め。
 メモをしたのだが、整理するには、まだ時間がかかりそう、そのうちなんとかなるだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ふしぎなメルモ』の リニューアル版

2006年10月02日 16時00分01秒 | アニメーション
 10月2日から『ふしぎなメルモ』の リニューアル版が毎週月曜日~金曜日 午前8:30~9:00 TOKYO MXにて放送されはじめました。
1998年WOWOW「手塚治虫劇場」のために、音楽と声優さんを新たにしてリニューアル(新装)したものです。
メルモ 武藤 礼子さんが   川村 万梨阿さん
トトオ 松島 みのりさんが  松本 さちさん
ママ  北浜 晴子さんが   石井 直子さん
ワレガラス 北村 弘一さんが 西村 知道さん
など変わってしまっていました。

1話を見ただけの感想ですが、音楽(BG)と声優さんを変える必要があったのか疑問に思いました。メルモを作った者としての、贔屓目を差し引いても、これは、リニューアク(悪)になってしまっていますね。

1話で先生が力を入れて作画した(動画までですよ)継母のしゃべりのシーン。声優の麻生 美代子さんが、命を賭けて生命を吹き込んだ あのシーンが、台無しになっておりました。
先生が描いた、動画のイメージを無駄に出来ないと、口の止めに合わせるため、何度も、何度も、一人で、リハーサルして、とった、 私たちにとって、宝のようなシーンでした が、今回、リニューアル版では、そんな心が、感じられないどころか、さっと流して、アフレコしてしまったようです。
 今は知りませんが、当時は、1話ごとにアフレコ、音作り、音入れ、ダビングと丁寧に時間をかけてしていました。GBMも大変な量の資料や、作曲の宇野 誠一郎先生のご努力で作られたものです。それが、まったく感じられず、取って付けたまるで素人のような仕事です。
 私が、なおしたいと思っておりましたのは、当時、スケジュールが無くなり、泣く泣く我慢したカットが多くありました、同じお金をかけるなら、それらをなおしていただきたかったです。
 背景も明石 貞一さんが、スケジュールの許す限り、貫徹してでも、妥協を許さず、1枚1枚描いてくれました。スポンジを使った、独特の背景も最新の注意を払って書いてくれました。ですから今回、入れ替わっていたカットの背景は、異質に感じられました、作品としてつながりが無く、ばらばらになってしまっています。
 撮影で使った、波ガラスもそうです、市販の波ガラスではイメージが出ないと、撮影監督の菅谷 正昭さんは大セルを持ってこさせて、火にあぶり、セルをわざと波だたせ、カメラを何度も覗き込み、気に入るまで作り直して、撮った、そんなシーンでした。本来なら菅谷さんのスタジオ珊瑚礁は外注さんでした。お金のためならそんな面倒な苦労をすることはありません、一文の得にもならないからです。
 ほかの皆がそうでした。お金のためではなく、手塚先生の作品をぎりぎりまで、良い作品に作り上げようとして作ったのが、このメルモのでした。
 ほんの、少しの人にでも良い、わかって貰いたい、そんな気持ちで、書きました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピノキオ

2006年04月20日 16時51分41秒 | アニメーション
東部図書館でディズニーの「ピノキオ」DVDを見つけた。早速借りて見た。今見てもとても1940年に作られた作品にはとても、見えない。何度も見ているが、新たな、感銘を受ける。「ピノキオ」(Pinocchio)は1940年に公開されたディズニーの長編アニメーション作品。ゼペットじいさんによって造られた木彫りの人形ピノキオが、人間になりたいと、「星に願いを」する、昔のテレビ番組「デズニーランド」のテーマ曲はこの、「星に願いを」であった。正直で勇敢で優しくなれれば、妖精ブルー・フェアリーによって、本当の人間の子供にしてもらえる、そのために冒険をするお話。
ピノキオ原作は、『ピノッキオの冒険』(Le Avventure di Pinocchio)で、イタリアの作家・カルロ・コッローディの童話作品。1883年に最初の本が出版されて以来だから、すでに100年以上も経っている。お話は、意志を持って話をする丸太が、木の人形にされ、ピノッキオと名付けられた。ところがこのピノッキオは勉強と努力が嫌いで、すぐに騙され悪の道に入る。いつの世も「善は施し難く、悪は走り易し」である。(誰の言葉?今適当に作ったのでわからない)青い髪の妖精や、コオロギなどの忠告にも耳を貸さない、ピノッキオは嘘をつくと鼻が伸びてしまう。途中何度も悪い道にそれてしまったり、幾度となく焼かれそうになったり、殺されそうになったりもする。しかし最後には病気になったジェッペットさんを助けるため仕事を一生懸命にやり、猛勉強もした。そんな苦難を乗り越えて人間の少年になるまでの物語がが書かれている。
漫画と原作はジャングル大帝の時と同じで、登場するキャラクターの名前が変えてある。
ピノッキオは、ピノキオ。  ジェッペットはゼペット。 コーロギは ジミニー・クリケット 。この名前は西部の英雄デビー・クロケットを思い浮かべたのは私だけであろうか。 横道にそれたが 青い髪の妖精は  ブルー・フェアリー。 キツネさんがJ・ワシントン・ファウルフェロー。 ネコちゃんが ギデオン。 ロメーオが  ランプウィック。 サメが  クジラの王様モンストロ などである。 実写版のピノキオも1996年、ヨーロッパの何カ国かの合作で作られたが、原作に近く面白かった。日本ではタツノコプロがフジテレビで1972年に放送した、樫の木モック や1976年大阪ABCで放送した、「ピコリーノの冒険」の原作がピノキオであると言うことを聞いた。

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇宙少年ソラン

2006年03月27日 15時21分24秒 | アニメーション
『宇宙少年ソラン』
1965年5月4日から1967年3月28日にTBS系で全96話で放送されたTCJ製作のSFアニメ。宮腰義勝による漫画版は週刊少年マガジンに1965年5月9日号から連載されていた。提供は森永製菓。
ストーリー
地球の15倍の重力を持つソラン星でサイボーグ化された地球の少年・立花ソランが、生き別れの姉を探しながら、その脅威のパワーで悪と闘う。
スタッフ原作 福本 和也 宮腰 義勝 脚本 福本 和也 豊田有恒 辻 真先 演出 河内 功 瀬古 常時 鳥居 宥之 作画 菰岡 静子 芦田 豊雄 矢沢 則夫  主題歌 「宇宙少年ソラン」作詞 安井 かずみ いずみたく 作曲 いずみたく 歌 上高田少年合唱団   声優 立花ソラン 朝井 ゆかり チャッピー 菅谷 政子  古月ミカ 松尾 佳子  古月博士 桑山 正一  立花博士 納谷 悟朗  ワイラー 小林 昭一  さくら 前田 敏子  グリーン 緒方 敏也  ナレーター 作間 伊佐夫
W3(ワンダースリー)との確執 豊田 有恒氏の冤罪疑惑など、ワンダースリーで進行として虫プロへ入社したが、その後社長室に配属されてもスタッフや、手塚 治虫先生から、そのようなことが会ったということを聞かされることは無く、W3が少年マガジンから、少年サンデーになったのは、W3の原稿が遅れてばかりいて、怒った編集長が、手塚治虫を切ったのだろう、編集者の原稿待ちの現状を、目の当たりに見て、気がおかしくなった(精神がおかしくなってくる)編集者がうそとも正気とも思えず「手塚を殺してやる」という言葉を、幾度と無く聴いているので、そのように、手塚が、マガジンを下ろされたのだろうと、思っていた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇宙パトロール ホッパ

2006年03月16日 10時43分07秒 | アニメーション
宇宙パトロール ホッパ
1965年 2月 1日から1965年 7月26日毎週月曜日の午後7時から7時半までNET(現テレビ朝日)で放送された27話から最終回44話までは 「パトロール・ホッパ 宇宙っ子ジュン」と改題された
企画が原徹 原作 深川鉄次 脚本 藪下泰次 津平小平 神波史男 竹内一夫 (敬称略 )など 演出には藪下泰次さん山本寛巳さん 田中亮三さん 小山礼司さん (小山礼司という人は、芸大の日本画家を出て東映動画にアニメーターとして入社し、東映の劇場マンガ映画である「少年猿飛佐助」「わんぱく王子の大蛇退治」などの美術設定を担当し、後年、東京ムービー制作の「巨人の星」でも美術デザインを担当され人。)
音楽は菊池俊輔 氏
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スーパージェッター

2006年03月14日 10時14分15秒 | アニメーション
未来からきた少年 スーパージェッター
1965年1月7日から1966年1月20日まで木曜日午後6時から6時半 TBS で52話が放送された、TCJ製作のSFアニメ。その後海外輸出向けとして26本がカラーでリメイクされ、日本では再放送をした時にカラー、リメイク版が使用された。提供は丸美屋食品工業で『エイトマン』の後番組としてエイトマン放送後、同じ時間帯に再放送をした。
TBSの「エイトマン」や「ビッグX」は商品化権を出版社や原作者がもっていた。スーパージェッターはTBSが企画し、漫画版を雑誌に久松文雄の漫画で連載させ商品化権をTBSが持つことができた。また1話はパイロットフィルムとして制作されたものであった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビッグX

2006年03月12日 22時38分46秒 | アニメーション
ビッグX
制作が東京ムービー1964年8月3日から1965年9月27日までの毎週月曜日の午後7時から7時30分TBS系で放送全59話しかしなぜ手塚治虫の原作ビッグXが、虫プロではなく、東京ムービーの第1作として作られたのか、その経緯(いきさつ)は今のところ分からない.ご存知の方が居たら、ぜひ教えていただきたい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「0戦はやと」と「少年忍者風のフジ丸」

2006年03月11日 17時13分25秒 | アニメーション
「0戦はやと」と「少年忍者風のフジ丸」を調べた
「0戦はやと」はフジテレビで 1964年 1月21日から10月17日夕方6時15分から45分に放送された うしお そうじ(牛尾 走児とも、男性、1921年12月4日 - 2004年3月28日)は、漫画家、特撮プロデューサー、演出家。本名は鷺巣 富雄(さぎす とみお)。戦前には円谷英二らと共に東宝の特殊技術課に在籍。その後漫画家となり「どんぐり天狗」「おせんち小町」「ぽっくり物語」「スットコトンちゃん」などを発表。1960年、映像製作会社ピー・プロダクション(通称ピープロ)を設立し、アニメ「ハリスの旋風」「ちびっ子怪獣ヤダモン」、特撮テレビドラマ「マグマ大使」「スペクトルマン」「快傑ライオン丸」「電人ザボーガー」「鉄人タイガーセブン」などの名作を次々と制作。「風雲ライオン丸」では、ピープロ作品としては初めて自ら原作漫画を執筆(若林不二吾名義)。2004年3月28日、急性心不全で死去。享年82。長男はアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のBGMなどを作曲した作曲家・鷺巣詩郎。弟はアニメ制作会社エイケンでプロデューサーを務めた鷺巣政安。政安はうしおの元アシスタントでもあった。などと調べた。そしてサブタイトル38話を調べる。
「少年忍者風のフジ丸」はNETテレビ(日本教育テレビの略、現在のテレビ朝日)で1964年6月7日から1965年8月31日まで全65話放送された  このアニメは白土 三平さん作品の「忍者旋風」(風魔忍風伝)。アニメ 第一作になるが、東映動画がキャラクター権の問題で第29話以降白土 三平さんを原作から外した、この東映動画側の原作無視行動に対して白土 三平さんが怒って、これ以後の白土 三平さんは漫画映画化に対して反応を厳しくしたという噂がささやかれた作品。放映回数65回のうち前半は「忍者旋風」だが、人気が出た後、話を勝手に作り、放映継続され、原作者無視のアニメ作品だったとも言われた。キャラクターデザインは楠部大吉郎氏で、白土氏のものではない。人気がでて、放映中二回劇場アニメ映画化された、久松 文雄さんの漫画も連載された。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドラえもんいんできしぃらんど

2006年03月05日 14時49分36秒 | アニメーション
 ひさしぶりにmvunitさんからメールわいただいた。昨年11月19日以来である。mvunitさんは おおはたさんや、き~ぼ~さん、へ情報を提供しておられたり、またご自身も「記憶のかさブタ」で、信頼できる一級品の資料を書かれている。日記で「ドラえもんいん できしぃらんど」のことを書いたのだが、それを見て、早速ほかの情報と一緒に、歌詞を、送ってくれた。日記でネオ・ユートピア主催の上映会で旧ドラのフィルムを流した事を見て残念がってもいて、上映する機会あったら教えて欲しいとも書いてあった。掲示板に悪質なスパム書き込みが私と同じで、多数来て消すのに時間をとられていることも同じであった。「ドラえもんいん できしぃらんど」のレコードは国立国会図書館のレコード室に保管されていて、借りて視聴することが出来、mvunitさんも何度か視聴室で聞いたとの事。
「日本テレビ動画」の紹介のページを製作しています。と書いてあったので、こちらでも作ろうとしていて、作りかけのページのアドレスを書いて返事を出した。

ドラえもんいんできしぃらんど  歌詞 
 作詞 藤子 不二雄  
 作曲 越部信義  
  歌 コロムビアゆりかご会&劇団NLT 

※ (ドラドラドッタン ドラドラドッタン
      ドラドラドッタン ドラドラドッタン)
1・きたよ きたきた ドラえもん
  未来の国から さっそうと 
  (のびたのためなら エンヤコラ ハ エンヤコラ)
  あ、出た、あ、出た あ、出た、あ、出た、
  ちょいと空とぶヘリトンボ ヘリトンボ
  もぐら顔負け潜地艦 潜地艦 うーん
  ちょっぴりズッコケ ドラえもん
  ドラミファソラシド ドラえもん


※ (ドラドラドッタン ドラドラドッタン
      ドラドラドッタン ドラドラドッタン)
2・きたよ きたきた ドラえもん
  おなかのポケット ダテじゃない 
  (タネもシカケもエンヤコラ ハ エンヤコラ)
  あ、それ、あ、それ、 あ、それ、あ、それ、
  おイモかじって ガスライター ガスライター
  くしゃみ一発 月旅行 月旅行 うーん
  ちょっぴりへんてこ ドラえもん
  ドラミファソラシド ドラえもん


※ (ドラドラドッタン ドラドラドッタン
      ドラドラドッタン ドラドラドッタン)
3・きたよ きたきた ドラえもん
  タイムマシンで はるばると 
  (不思議なちからで エンヤコラ ハ エンヤコラ)
  あ、また、あ、また あ、また、あ、また、
  夢もおこのみ ゆめまくら ゆめまくら
  もイチ度見るなら ユメコーダー ユメコーダー うーん
  ちょっぴりおかしな ドラえもん
  ドラミファソラシド ドラえもん


「曲調はスローテンポなジャズ、という感じです。」とのこと。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若い時の思い出にふける

2006年02月10日 09時41分12秒 | アニメーション
よく朝早くに石神井公園へ行った、
吉村君やナベ子さんを誘っていったり、一人で行ったりした.そのうち西の奥に三宝寺池があることを知った、石神井池の北側の池に沿った道を西に向かい道路を渡ってせまい道を入っていくと、そこに三宝寺池があった無理をすれば一周できたが赤土の粘土質の道は滑りやすく容易には回れなかった。橋があって社があった、のちに石神井城落城のとき身を投げた泰経の二女照姫の話を知ったが、のちに石神井城落城のとき身を投げた泰経の二女照姫の話を知ったが、何日も徹夜が続き夜明け前にすこし時間が空くと、眠気覚ましと気分転換に三宝寺池へ行った。そこはまるで大昔に戻ったような別世界があって好きな場所であった。見たものでなければ表現できない、朝もやの中に、ベールに包まれた、霧のカーテンで、乳白色のふしぎな世界の入り口のような霧の中で、など、どんな表現を使っても書き表せない、湧き上がる霧に包まれて、そしてすこしづつ夜が明けてくる、時が止まりかけてゆっくり動いている。寝不足の頭は朦朧として、現実の世界から逃避していく、そんな世界を見ることが出来た。好きな場所であった。
そこには石森章太郎がえがいた、龍神沼の世界がそこにあるように思えていた。
 石森章太郎さんは手塚先生がまだ渋谷区代々木初台539に新婚時代住んでいた頃のお弟子さんで月岡貞夫さんと手塚先生が行けなくなった東映動画の西遊記のころ手塚先生の代理で通ってもらっていたことなど手塚先生から聞いていて名前を知っていた。龍神沼の、漫画を見て好きになりCOMに描かいた実験的な漫画「ジュン」で、ますます好きになった。縦だけのコマ割りや横だけのコマ割り、毎回新鮮な驚きで楽しみにしてみていた。それに龍神沼のときの花火のシーンであったような、(多分アシスタントの人がいたずらしたのだと思うが、)群集のなかで、裸の人に驚く人が気が付かないようにかかれていたりするのを、見つけ出しみんなで面白がったりする、別の楽しみかがあったりたりもした。あの当時、原稿料が1ページいくらであったが、誰だったかが、闇夜のカラスを書いた。(1ページ黒べた)
1ページは1ページ原稿料が入る、それを手塚先生に見せると、大笑いしていたが今度は、2ページにわたって大きなアップの原稿を書いていた。
神井公園の思い出に耽っていたが、脱線して次々と当時のことが思い出される・・・・・。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする