やはり話題になっているネギのこの台詞、特にその責任について
どう捉えるべきなのか、ということを少し考察。
父さんなら「全員を救う」と笑って言ってのける、というネギ。
だいぶ父のことが分かってきているようです。
なにしろ何の根拠もない発言の多い人ではあるので。
それでも結構実現してしまうのが凄い、という話で。
そして実は母の方も当然同等の発言をするであろうと思われます。
実際、オスティア崩壊のときにそのような発言をしています。
そしてそれは結果的に不可能でした。
それでその発言の責任はどうなるのか、というと、
少なくともトサカの態度を見る限りでは、「果たした」と受け取れるようです。
なぜなら「言ったことの実現に向けて最大限の努力をした」から。
もちろん人々にとっての受け取り方は様々ですが、基本的に
「責任の無いところに自由は存在せず、自由の無いところに責任は存在しない。」
と考えられているから。「助けられなかった」のは不可抗力なので。
もちろん「結果責任」というものはまた別ですが。
もちろんネギに「全員を助ける」という力があるわけではない。
しかし「可能な限り助けられる人数を増やす」あたりが
ナギ・アリカの選択に近くなるでしょう。
「誰が死ぬか」を自分では選ばない、という感じです。
クルトの選択は、「確実に助けられる人員を選り分ける」なので、
それは「確実に見捨てる集団を選ぶ」事でもあります。
助けられる人数を増やすことで、助けるべき集団の不確実性が増す危険もあるし。
現実問題として、「責任」のことを言うなら
遺族からはともかく死人から糾弾されることはないわけだし・・・
どう捉えるべきなのか、ということを少し考察。
父さんなら「全員を救う」と笑って言ってのける、というネギ。
だいぶ父のことが分かってきているようです。
なにしろ何の根拠もない発言の多い人ではあるので。
それでも結構実現してしまうのが凄い、という話で。
そして実は母の方も当然同等の発言をするであろうと思われます。
実際、オスティア崩壊のときにそのような発言をしています。
そしてそれは結果的に不可能でした。
それでその発言の責任はどうなるのか、というと、
少なくともトサカの態度を見る限りでは、「果たした」と受け取れるようです。
なぜなら「言ったことの実現に向けて最大限の努力をした」から。
もちろん人々にとっての受け取り方は様々ですが、基本的に
「責任の無いところに自由は存在せず、自由の無いところに責任は存在しない。」
と考えられているから。「助けられなかった」のは不可抗力なので。
もちろん「結果責任」というものはまた別ですが。
もちろんネギに「全員を助ける」という力があるわけではない。
しかし「可能な限り助けられる人数を増やす」あたりが
ナギ・アリカの選択に近くなるでしょう。
「誰が死ぬか」を自分では選ばない、という感じです。
クルトの選択は、「確実に助けられる人員を選り分ける」なので、
それは「確実に見捨てる集団を選ぶ」事でもあります。
助けられる人数を増やすことで、助けるべき集団の不確実性が増す危険もあるし。
現実問題として、「責任」のことを言うなら
遺族からはともかく死人から糾弾されることはないわけだし・・・
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