万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

念仏申さんと思いたつ心のおこる時

2014年01月11日 | Weblog


 この画像は蓮如上人書写の『歎異抄』第一章の御文です。十数年前にご本山から頂いた複製本をコピーいたしました。日本仏教

史上で一般に最もよく読まれている書がこの『歎異抄』であることは大方が首肯するところでしょう。

 『歎異抄』の撰述者については論議されて来たのですが、親鸞聖人の直弟子である河和田の唯円房(ゆいえんぼう)の手になる

とする説がほとんど定説となっております。これにはもう疑う余地のないところだと思います。『歎異抄』の原本については現在

では見ることは出来ず、一番古い写本がこの蓮如上人が筆写され、西本願寺に伝蔵されている歎異抄なのです。

 書の青蓮院流の名手と謳われた蓮如上人の端正な書写本を拝見しておりますと、語られる親鸞聖人の凜としたみ心、それを真摯

に一言も漏らさないように耳を澄まして聞いいて下さった青年唯円さんの心、それから約二百年後、その歎異抄の一字々々を間違

いなく書写される蓮如上人のその心、その希有なる三上人のみ心が凝縮して今の私どもに邂逅下さってある。忝なく、有難しとし

か云いようがありません。

この『歎異抄』と名付けられている紙葉20枚ぐらいからなる語録は書写された蓮如上人が奥書に

「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機に於いては左右なく、之を許すべからざるものなり。」

 と記されたことからであろう、近世に至るまで一般的には読まれることはなかったのですが、明治以降公版されて多くの人々に

読まれ今までなかった一つの思潮が生まれたと云っても過言ではないほどの重要な書となっているのです。

 冒頭の一葉の写真は蓮如上人書写の『歎異抄』の第1章部分です。18章と序文、後序からなっている歎異抄全体の要、すなわ

ち親鸞聖人の信心の内容が筆録されている章と云われて来たヶ所です。

 この『歎異抄』の現代語訳や解説書は多くの諸先生方による各種の刊本を見ることができます。

 『歎異抄』第1章の現代語訳を挙げておきます。訳者は今は故人であられます大衆文学でフアンが多かった、今東光(こんとう

こう)師の訳文を紹介しておきます。東光師は函館のお生まれで作家となられ、ある時忽然としてに出家され天台比叡山の僧にな

られ、八尾の水間寺や陸奥の中尊寺などの住職を務めつつ小説を書いて行かれたのでした。最近、よく知られていることでは女流

作家の瀬戸内寂聴(晴美)さんが出家される時のご相談と戒師に当たられた方です。また、文化庁初代長官になられた今日出海

(こんひでみ)氏は東光師の末弟です。


      その一
 あらゆるものを救はねばおかぬと御誓いなされた弥陀の本願の不思議な御はからいに助けられて、浄土へ参らせていただけると信じて、御念仏を申そうというこころざしの起きたとき、そのときこそ、もはや光明のうちに摂(おさ)めとって、捨てたたまわぬ恵みにあずかっているのである。
 抑(そもそ)も弥陀の本願は、年寄りであろうが若い者であろうが、善人であろうが悪人であろうが、あらゆる人々を少しの分けへだてなく救い給うのである。あらゆる人々を、ありのままに救うて下さるのであるから、善とか悪とかにかかわらずに、ただ本願の救いを糧(かて)にする信心ひとつが肝要なことを知らなければならない。それではどうして悪人でも本願を信ずるだけで助かるかというと、それは罪の深い煩悩の強い私どもをたすけようための本願なればこそである。
 それゆえに本願を信じさえすれば、それ以外の善根をわざと積みかさねる必要はない。なぜならば本願の念仏よりも優れた善根はないからである。
 さればわが身の悪を振りかえって、これでは救われないのではないかと不安を感じて怖れるにも及ばないのである。何故なら弥陀の本願で救われないほどの悪はこの世にないからである。
 ただ、ひたすらに本願を信じ、念仏を申してこそ救われてゆくのであると、聖人は仰せられたのである。
                                 (『しんらん全集』3語録、昭和34年普通社発行)  


 もし、『歎異抄』を読みたい思いの方がおられましたら万福寺の方へお申し越し下さい。ご紹介いたします。
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