熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2019年7月

2019年07月31日 | Weblog

梅原猛『水底の歌 柿野本人麿論』(上下)新潮文庫

柿野本人麻呂がどのような人であろうと、特に関心もないのだが、昨年11月から今年5月にかけて受講していた万葉集講座の縁で「万葉集」をキーワードにして諸々本を読んでいる。本書もそのひとつ。内容には関心がなくても、梅原先生の書きっぷりに圧倒される。「芸術新潮」などに寄稿されていたものは何度も読んでいるが、まとまった作品を通しで読むのは本書が初めて。先生は本書のなかで「この論文では」としばしば書いておられる。え、これって論文なんですか、と驚く。文庫とは言え、上下二巻の構成だが、重複や無駄な部分をそぎ落とすと二巻にするほどのものかどうか。尤も、本書を手にする人は、おそらく、梅原節を期待しているのだろうから、これでよいのだろう。とにかく、読んでいて楽しい。そういう作品だ。

以下、備忘録

一般に幕末になると、学問が専門化すると共にスケールが小さくなり、学者はヒネクリコネクリを弄するようになったと思われる。(上巻 144頁)

日本では、神になる人は、いつも恨みをのんで死んでいった人間ばかりであることを。(上巻 231頁)

日本で火葬が行われたのは文武四年に死んだ道昭(629-700)にはじまるといわれるが、天皇にしてはじめての火葬者は大宝二年(702)に死んだ持統天皇である。(上巻 302頁)

もしも人が死して灰になり煙になるとすれば、もはや巨大な墳墓や新しい石室は必要がなくなる。そしてそれと共に、見事な挽歌によってその死を荘厳することすら必要でなくなる。詩人の役割はすでに終わろうとしていたのである。(上巻 328-329頁)

万葉集にせよ、『古今集』にせよ、それぞれひそかな政治的配慮をその背景にもっている歌集である。(上巻 459頁)

1. 天皇の誕生は、持統帝の時代、早くとも天武帝の時代をさかのぼることはできないのではないか。
2. 天皇は、政治的概念であるより、宗教的概念であり、天皇はその発生形態において、地上の国を支配するようにはできていず、歴史的偶然によって天皇の国家支配が行われた後も、天皇概念に含むそのような非政治性は、永く日本の天皇に附着していたのではないか。(下巻 69頁)

じっさい、日本の和歌が歴史上、正当な文学として認められるには、勅撰集である『古今集』の出現をまたなければならなかった。それ以前、それは現代における歌謡曲の如き扱いを受けていたのであろう。多少、人気のある歌謡曲作歌・人麿、おそらく人麿のこの歌は、多くの漢詩人たちに何の感興も起こさせなかったにちがいない。彼等は、明治の文化人以上に、だいたい日本のものは馬鹿にしていたのである。人麿の歌と『懐風藻』の詩をならべてみると、漢詩人の間における人麿の孤独さがよく分かるような気がする。(下巻 116頁)

天皇信仰、天照信仰は、まさに持統帝のときできはじめたものではないか。それは道教から多く思想を借りてはくるが、いつの間にか、ちょうど『懐風藻』の詩が万葉集の歌にかわるように、楽国産の神は、いつか日本製の神に変わったのである。聖地が吉野から伊勢へ移ることによって、宗教の日本化が行われるが、その宗教内容は、その原型とそれほども違っていないのではないか。(下巻 121頁)

私は、このごろますます進歩史観というものを信じることができなくなってきている。それは、精神の世界において、進歩というものが、はたしてあるのだろうかという疑問のゆえである。現代は、精神の世界においてはおどろくべき低俗の世界である。おどろくべき卑俗な精神が、わがもの顔にこの世界をのさばり歩いているではないか。(下巻 374頁)

折口信夫は、真淵以来ほとんど忘れられた宗教の意味、死の意味、霊の意味を発見する。そして彼は、今まで単なる叙景の歌と考えられた多くの万葉の歌を、鎮魂の歌と解釈する。(下巻 406頁)

万葉集巻一は、すべて雑歌である。この雑歌は、『古今集』以後の歌集でいうような雑歌ではない。以後の歌集の意味では、四季、恋、賀、離別などに属さない歌という意味である。しかし万葉集での意味は、雑歌という名で、いわば、雄略天皇(生没年、在位未詳)の時代から奈良時代までの、政治的な人間、およびその周辺の人々を登場せしめて、自由に歌を歌わせている。そしてこの歌は、直接、間接に重要な政治的事件に関係している。いわば、万葉集巻一は、壮大な歴史的叙事詩である。(下巻 408頁)

 

宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫

心洗われる思いがした。人の暮らしとは本来こういうものだと思う。私が駄文を連ねるより、引用を並べたほうがいいだろう。

ところが六十歳を過ぎた老人が、知人に「人間一人一人をとって見れば、正しいことばかりはしておらん。人間三代の間には必ずわるい事をしているものです。お互いにゆずりあうところがなくてはいけぬ」と話してくれた。(村の寄りあい 37頁)

他人の非をあばくことは容易だが、あばいた後、村の中の人間関係は非を持つ人が悔悟するだけでは解決しきれない問題が含まれている。(村の寄りあい 39頁)

稗は凶作の年にも割合よくできたし、虫もつかず、何年おいても味がかわらぬので、郷倉の貯蓄は稗でやりました。(中略)まァ百姓というもんはヒネからヒネへくいつなぐのがよい百姓とされた。それだから、一生うまい米を食うことはなかった。そうしないと飢饉年がしのげなかった。(名倉談義 70-71頁)

おやじにくらべたら半分も働きゃァしません。おやじにくらべたら道楽もんです。しかしそれでも食えるんじゃから、昔より楽に食えるんじゃから、わたしは文句をいいません。(名倉談義 82頁)

村の中というものはみんなが仲ようせねばならんものじゃとよく親から言いきかされたものであります。まじめに働いておりさえすれば、いつの間にかまたよくなるものであります。この村は昔はひどく貧乏したものだそうであります。この村の土地の半分から上は大平の沢田さんのものになておりました。いつそうなったのか、飢饉の年にでも、米をかりて土地をとられたのでありましょうが、沢田さんの家が半つぶれになったとき、土地はまたもとの持主にみなもどって来ました。大久保にはまた百石五兵衛という家がありました。高を百石も持っている大百姓でありましたが、それが何一つ悪いことをしたのでもなければ、なまけものが出たというのでもないのに、自然とまた百姓の手に戻って、その家はつぶれました。(名倉談義 91-92頁)

村の中が仲ようするというても、そりゃけんかもあればわる口のいいあいもあります。貧乏人同士がいがみあうて見ても金持ちにはなりませんで。それよりはみな工夫がだいじであります。(名倉談義 96頁)

この村に言いごとのすくないのは、昔から村が貧乏であったおかげでありましょう。とびぬけた金持はなかった。それに名主は一軒一軒が順番にやっております。小作人でも名主をしたものであります。それはいまもってつづいております。今も区長は順番にやることになっております。このあたりの村はみなそうでありました。そういう風でありますから、嫁どりもそれほど家柄をやかましく言う者はいなかったのであります。まァ親類中に年頃の娘があればそれをもらう事にしておりました。それはなるべく費用がかからんようにということからでありました。そうでないものでも、本人同士が心安うなるのが多くて、親は大ていあとから承諾したものであります。(中略)知らん娘を嫁にもらうようになったのは明治の終頃からでありましょう。その頃になると遠い村と嫁のやりとりをするようになります。おのずと、家の格式とか財産とかをやかましく言うようになりました。それから結婚式がはでになって来たので…。それはどこもおなじことではありませんかのう。(名倉談義 97-98頁)

子供がいたとわかると、さがしにいってくれた人々がもどってきて喜びの挨拶をしていく。その人たちの言葉をきいておどろいたのである。Aは山畑の小屋へ。Bは池や川のほとりを。Cは子どもの友だちの家を、Dは隣へという風に、子どもの行きはしないかと思われるところへ、それぞれさがしにいってくれている。これは指揮者があって、手わけしてそうしてもらったのでもなければ申しあわせてそうなったのでもない。それぞれ放送をきいて、かってにさがしにいってくれたのである。警防団員以外の人々はそれぞれの心当りをさがしてくれたのであるが、あとで気がついて見ると実に計画的に捜査がなされている。ということは村の人たちが、子どもの家の事情やその暮らし方をすっかり知りつくしているということであろう。もう村落共同体的なものはすっかりこわれ去ったと思っていた。それほど近代化し、選挙の時は親子夫婦の間でも票のわれるようなところであるが、そういうところにも目に見えぬ村の意志のようなものが動いていて、だれに命令せられると言うことでなしに、ひとりひとりの行動におのずから統一ができているようである。ところがそうして村人が真剣にさがしまわっている最中、道にたむろして、子のいなくなったことを中心にうわさ話に熱中している人たちがいた。子どもの家の批評をしたり、海へでもはまって、もう死んでしまっただろうなどと言っている。村人ではあるが、近頃よそから来てこの土地に住みついた人々である。日ごろの交際は、古くからの村人と何のこだわりもなしにおこなわれており、通婚もなされている。しかし、こういうときには決して捜査に参加しようともしなければ、まったく他人ごとで、しようのないことをしでかしたものだとうわさだけしている。ある意味で村の意志以外の人々であった。いざというときには村人にとっては役にたたない人であるともいえる。(子供をさがす 102-103頁)

わるい、しようもない牛を追うていって、「この牛はええ牛じゃ」いうておいて来る。そうしてものの半年もたっていって見ると、百姓というものはそのわるい牛をちゃんとええ牛にしておる。そりゃええ百姓ちうもんは神さまのようなもんで、石ころでも自分の力で金にかえよる。そいう者から見れば、わしら人間のかすじゃ。(土佐源氏 139頁)

ところどころで人情風俗はかわっているが、土地のやせて生活のくるしいところが人情はよくない。(世間師(2) 256頁)

 

本居宣長(全訳注:白石良夫)『うひ山ぶみ』講談社学術文庫

「うひ山ぶみ」とは「うひ」=「初」=初めて+「山ぶみ」=「山踏み」=「登山」、「はじめての山登り」の意だ。学問を登山に見立てて、その手引きをする書である。具体的な方法論を述べているのではなく、心構えを語っている。

古い本を読んでいつも思うのは人の世が変わっていないということだ。確かに知識は増えただろう。しかし、人の性とか業といったものは一向変化が感じられない。もちろん、生物誕生の歴史を振り返れば生物は環境に適応しながら様々に姿を変え、分化したり消滅したりしながら今日に至っている。しかし、それは反応であって変化というほどのものではないような気がするのである。

毎度同じ話になってしまうが、生命の営みは「わたし」と「あなた」の関係が基本だと思う。人間は知能があるから自意識が強くて、というようなことはなく、バクテリアだろうが人間だろうが、それを構成する細胞の根底にある「私」が神羅万象の基本にあるのではないか。その「私」の個体差が相互の交渉と反応を生み、それが別の交渉と反応に連鎖していくことで世界が成り立っている、というイメージだ。当然、「私」の認識は生物種によって、そのなかの個体によって、ほぼ同じように括れることもあるだろうし、「個性」とされるところもあるだろう。そして、そうした括りはその時々の環境の変化に反応して微妙に揺れるものだろう。

「私」の捉え方が生き方を規定することになる。「私」とは何かを思いめぐらす、その思考実験を登山に例えるというのはわからないでもない。登山は山頂を極めることではなく、登って下りて何かを感得することを言うのだろう。とすれば、そこに際限はない。同じ山でも日によって時によって同じ山とは思えないほどの変化を見せるだろうし、どういう状況に出会うかによって同じ山に対する見方も自ずと違うはずだ。既存の山道を往くのか、新たな道を切り開くのか、同道する者がいるのか単独なのか、前を往く人がいるのか、先頭を切っているのか、対向する人がいるのか、それは無数の状況設定があり、そういうなかで軽々しく「この山は」云々とできないはずだ。つまり、正解がない。安易に成否を問うのは思考を停止することである。問い続けることが、すなわち生きるということだと思う。


仏塔と温泉

2019年07月22日 | Weblog

別所温泉の北向観音は厄除観音として有名なのだそうだ。同じ信州の善光寺が南向きで、南北でセットになっているらしい。だから、参詣するなら長野の善光寺と別所温泉の北向観音を両方お参りしないと御利益はないという。長野の善光寺にお参りしたのは2012年なのでそれが期限切れでなければ、今日でお参り完結だ。北向観音は常楽寺の一部だそうだ。

北向観音の参道商店街で店先に高麗人参をたくさん並べている土産物屋があった。店の人といろいろ話をしているうちに、昨日届いたばかりの掘りたての7年物があるというので見せていただくことにした。あまり高麗人参というものを意志的に見たことはないのだが、たいへん立派なものに見えたので1本買い求めた。

参道を後にして安楽寺へ向かう。ここは八角三重塔で有名なのだそうだ。鎌倉時代のものだが、中国の宋の様式なので、元の支配下になった中国から逃げてきた人々の手によって建てられたものではないかと言われているらしい。埼玉の高麗神社も調布の深大寺も大陸からやってきた人々は比較的奥地に足跡を残している。日本と大陸との間に外交関係があって、表立って旧政権関係者を庇い立てすることができずに奥地へ導いたというような事情があったのかもしれない。

安楽寺からさるすべり小道を通って常楽寺へお参りする。常楽寺の近くに「そば久」という蕎麦屋の看板が出ていて、そこに行ってみる。昨日の道の駅で食べた蕎麦は田舎蕎麦だったが、ここは蕎麦切だ。たいへん美味しい蕎麦で、実は人気店らしい。

昼食を済ませてから電車で上田へ向かう。駅前のみすゞ飴本店で土産を買う。立派な構えの店舗で、客よりも店員の数が多い。それくらい手厚い応対をしてくれるのである。店を出て、古本屋カフェのNABOを覗いてみる。神保町にあるような古本屋ではないのだが、それなりに主義主張の感じられる棚だ。店舗が立地しているのは所謂商店街ではないのだが、店内は外の様子とは違って結構な数の客で賑わっている。雰囲気の良い、いいお店だなと思う。

上田城のほうにも足を延ばすが、雨が降ってきたので、雨宿りを兼ねて市立博物館に入る。展示のテーマは郷土史だ。上田は農民一揆が5回あったが、これは日本で一番多いのだそうだ。昨日訪れた青木村のゆるキャラの背に「義民」と書いてあったのは、そういう事情によることがわかった。今はゆるキャラだが、一揆を起こすというのはよほどのことのはずだ。仏様がはっきりとした笑顔だったことも、農民一揆が多かったこととつながっている。笑顔というのはよほど気を付けないといけない。


義民の里

2019年07月21日 | Weblog

信州青木村にやって来た。地方に出かけて驚くのは、経済が維持できていることだ。もちろん、行政の財政は補助金頼りだろうし、日ごとに状況は悪化しているかもしれない。結局、付加価値を生む産業しか村おこしとか町おこしができない。今日訪れた場所はどこも静かだった。上田駅前、青木村の美術館、道の駅、修那羅峠、前山寺、無言館。日曜日でこれほど静かなら、平日はどうなのだろう。

大法寺では桑の実と御守を買った。ここのかつての産業は養蚕だ。米の取れない多くの地域で養蚕が経済を支えた。桑を植え、蚕を飼い、糸を取り、糸の終わった蚕は鯉の餌になった。鯉は食用にも観賞用にもなり、地域の収入となった。桑の実や蚕が食べ残した葉を人間が食べた。無駄がない。

道の駅の看板メニューが蕎麦だ。信州の蕎麦は有名だ。最近できたタチアカネという新種の蕎麦がイチオシなのだそうだ。せっかくなので、その蕎麦をいただく。普通に美味しい。

修那羅峠の石仏は一時話題になったそうだ。今はブームが去って静かになったが、ブームのときに山道が舗装されて歩きやすくなった。ブームというとあまり良い印象は受けないが、悪い事ばかりではない。石仏を筆頭に、ここの仏様ははっきりとした笑顔が多い。仏が笑顔というのは何を意味しているのだろうか。せめて仏様のお顔くらいは笑っていただこうということだろうか。はっきりした笑顔の陰には、はっきりした泣き顔があるということか。豊かな土地というのは本来、穏やかで、なにかがはっきりしているということはないものだ。

無言館については何も言うことはない。笑顔の仏様と同じような悲しみが感じられた。

夜は別所温泉に宿をとった。古いけれどよく手入れの行き届いた立派な宿だ。ここの従業員の笑顔も少し怖い感じがした。


気仙沼 最終日 一ノ関

2019年07月08日 | Weblog

宿の近くの店で土産物を買い、ほかの荷物と一緒にまとめて宅配便で自宅へ送る。身軽になって宿をチェックアウトして、大船渡線で一ノ関へ行く。

宿から気仙沼駅までは宿の送迎車を利用。駅では、どのような事情なのか知らないが、地元の幼稚園児が列車の発車時間に合わせてかわいらしい踊りを披露してくれた。音楽の機材の調子が悪いところがあって踊りの時間が延びてしまい、少しハラハラしたが、一ノ関行きの列車の発車時刻までには無事に終わり、発車のときにはホームに整列して見送ってくれた。なんだか嬉しい。

一ノ関に着いたのが昼過ぎ。駅を出てまっすぐ駅前の観光案内所に行き、飲食店を教えてもらう。近頃は携帯端末で検索したり、ネットで話題になっているところに出かけてみたりすることが当たり前のような時世だが、わからないことは人に尋ねるに限ると思う。殊に「餅は餅屋」などというように、土地のことは土地の人に尋ねるのが間違いないと思うのである。案内所の人は蕎麦屋と郷土料理の店を教えてくれたので、郷土料理のほうを目指して歩きだす。

地方都市の駅前は、どこも似ている。かつて商店であった痕跡のある建物が広めの道路に並び、妙に広く感じられる空が広がる。今でも多くの人々が暮らしているはずなのに、この旧商店街で買い物をしていた人たちはどこへ消えてしまったのだろうと、不思議に思うのである。空き店舗が並んでいても、街が荒廃しているというわけではない。人の暮らしはあるので、そこそこにきれいになっている。そういう静かで清潔な街を歩いて15分ほどのところに駅前で教えてもらった郷土料理の店があった。敷地は広く、石造りの蔵のような建物が中庭を囲むように4棟ある。売店、カフェ(改装工事中)、資料館・郷土料理店、ビール工場・イベントホール。ここの郷土料理は餅料理だそうだ。

餅料理というのは、椀ごとに異なる餡をかけた餅が入っていて、それが複数供されるもので、一関・平泉には約300種類のこうした餅があるのだそうだ。たいへん贅沢なものだと思う。食べ方には作法があって、それが冊子になって店のテーブルにある。こうした餅の文化というのは知らなかった。餅はそうたくさん食べることはできないものだが、そういうものをたらふく用意するというところに何か意味があるような気がする。

入口が別になっているが、料理店と同じ建物に資料館がある。酒造についての展示と地元発の文学についての展示だ。酒造については他の土地でも同じようなものを見学したことがある。文学のほうは、人と土地の結びつきのようなものがあるような気がして面白い。井上ひさしの作品で、一関近くの架空の町を舞台にした『吉里吉里人』という作品があるが、彼が中学生のころ、ここの土蔵で暮らしていたという。

この料理屋の近くに旧沼田家武家住宅というものがある。一関藩の家老職の住宅だが、一関藩は独立した藩ではなく仙台藩の支藩であったという。家老職の屋敷というものを他で見たことがないので、比較のしようがないのだが、そうした藩の位置づけの所為もあるのか思いの外質素なものと感じた。この住宅が建てられた当時の建築技術のことは全く知らないのだが、柱や床が手斧で加工されている。鉋で平らになったものに慣れた感覚からすると、リズミカルな凹凸が心地よく、家屋という物理的空間とイエという心的空間との重なり具合が良い感じがする。家老の屋敷として使われていた頃は敷地がもっと広く、屋敷にも別棟や蔵などが付随していたのだろうが、今こうして保存されている範囲のものが自分が考える当たり前の暮らしにはちょうどよい印象だ。生まれてこのかた、ちょうどいい塩梅の家というもので暮らしたことがない。死ぬまでに、せめて5年くらいはそう思える家で暮らしてみたいものだと思うのだが、こういう家が理想だ。

旧沼田家住宅から駅へ向かう途中、図書館の脇に蒸気機関車が展示されているのを見つけた。C58103で、昭和13年に大阪の汽車製造で製造され、主に東北で使用され、最後は一関機関区で大船渡線で運用されたそうだ。昭和47年に永久保存機として国鉄から一関市に移管されたとある。なぜなのか知らないが、蒸気機関車がこのように唐突な感じ保存されているのを時々見かける。蒸気以外の機関車や車両が公共施設の片隅になんとなく置いてあるというのはあまり見かけないが、なぜ蒸気機関車は特別なのだろう?

 


気仙沼 2日目 大島・唐桑

2019年07月07日 | Weblog

レンタカーで大島と唐桑へ行く。

先月の読書月記にある網野善彦の『古文書返却の旅』の8章が「陸前への旅―気仙沼・唐桑」だ。この本を手にしたのは今回の旅行のためではなく、昨年11月以来の個人的な万葉集ブームのなかで、当然に「日本」とは、という問題意識が生じたなかで巡り合った。本書に登場するのは「大島村の村上茂夫家、鹿折村の尾形忠行家」、唐桑村の「鮪立の古館、鈴木国雄家文書」である。家の蔵に古文書が残っていることの意味はここでは触れないが、地域の歴史のなかでその家が重要な役回りを演じていたということは確かである。本書によると「唐桑が太平洋の海の道を通じて、中世以来、江戸初期までに南は紀伊の熊野や讃岐、北は松前と交流し、紀伊から新しい漁法を導入、松前からは金や昆布がもたらされるような港であったこと、また鈴木家も紀伊からこの地に移ったとされ、実際、江戸初期に紀州の太地などと密接な関係を持ち、金山の経営にも関わっていたと見られることなども知った。そして、漁撈による海産物、鰹節、塩、さらに金、銅、漆、茶、材木などが船を通じて各地に運ばれており、唐桑は都市的な色彩の濃い地であることを確認」(125頁)とある。

現在、唐桑には「唐桑御殿」と呼ばれる大きな屋敷がたくさんある。これは当地の主産業である遠洋漁業に従事する人が、誇りと心意気を表現するべく豪華な自宅を建てる習慣によるもの、という説明が案内のチラシなどに書かれている。おそらく、遠洋漁業が産業として成り立つ以前から、この地には豪華な屋敷が並んでいたのではないだろうか。だからこそ、世帯主たるものは立派な屋敷を構えてこそ一人前という価値観が醸成されていたのではないか。遠洋漁業で経済的に恵まれたからというだけではなく、歴史に培われた土地の価値観が大きな屋敷の建設を生むのではないかと思った。『古文書返却の旅』には大島も登場する。「大要害の旦那さん」こと村上茂次氏のお宅では「二箱ほどの長持には、ぎっしりと古い書籍がつまっていた」のと遭遇。この島も同じ文化圏なのだろう。

レンタカーを借り、まずは大島を目指す。この4月7日に気仙沼大島大橋が開通、橋に続く前後の道路がきれいに整備されている。橋そのものが観光の対象でもあるようで、橋の袂に駐車場があり、そこに車を停めて歩いて橋を渡っている人の姿がある。この橋は宿からも見えるが、美しいアーチ橋だ。聞くところによると東日本最長のものらしい。しかし、借りた車のカーナビの地図データにはまだ記録されていないようで、目的地を大島の中にあるものに設定するとフェリーを使うルートが表示される。橋の開通に伴い、フェリーの運行はなくなってしまったので、今となっては幻のルートだ。大島に渡るまでは道路標識やあちこちに掲げられている案内の看板を頼りに運転する。

大島も初めての土地なので、まずは島で一番高い亀山の中腹にある大嶋神社に参拝。手入れが行き届いている様子で、手水も階段も境内もきれいだ。あちこちの神社にお参りしているが、なかには由緒ある構えの立派なところでも手水が汚れていたりするところもある。それは神社を管理している人の責任であるが、氏子や地域の人々の世界観の破綻の一端を表しているということでもある。その地域を代表するような神社のありようというのは、実はとても大事なことだと私は思っている。そういうこともあって、初めての土地ではそこの神社にお参りすることにしている。

亀山の山頂からは気仙沼が一望に眺望できるらしい。山頂に行くには、神社の手前の駐車場に車を置いて、そこからシャトルバスに乗らないといけない。そこまではしなくていいだろうと思い、参拝の後は車で島の南端にある龍舞崎へ行く。気仙沼市街に比べると交通量は各段に少ない。それでも龍舞崎の第一駐車場のほうは満車に近い状態だ。とは言っても静かなものである。遊歩道で岬の先端までいく。駐車場付近は紫陽花が咲いていて、ちょうど盛りのようだ。

今日はこの後、唐桑へ向かう。どこに行くにも大橋を渡らないといけない。橋に向かう途中でみちびき地蔵を拝む。このお地蔵様は古いものだったらしいが、震災で被災し、今拝むことができるのは再建されたお地蔵様だ。道路から外れたところにある、かつての日本の田舎ならどこにでも見られたようなお地蔵様だ。その所為か、なぜか懐かしい気分になる。

カーナビに従って山道を通って唐桑へ。地図ではこの道の北側に国道45号線があり、そちらのほうが走りやすいだろうと思うのだが、敢えてナビに逆らうだけの土地勘があろうはずもなく、「え~この道なのぉ?」と思いながら対向車が来ないことを祈りたくなるような県道を往く。

唐桑に向かう道中、カーラジオで木村拓哉がMCの番組が流れていて、ゲストが糸井重里だった。こじつけといえばこじつけだが、今、自分が気仙沼にいるそもそものきっかけは「ほぼ日」である。東日本の震災からしばらくして「ほぼ日」で気仙沼の斉吉のことが紹介されていて、『おかみのさんま』を読み、「金のさんま」などを買うようになったのである。そしていつか気仙沼というところを訪れてみたいと思っていて、今回の旅行がある。このラジオも私にとっては珍しいことだ。レンタカーを利用するときは、たいていラジオはかかっていない。今回はレンタカーの事務所の人が気を利かせたのか、整備をしながらかけていて切り忘れたのか、車のエンジンを入れたときからラジオがかかっていた。なしにろ、年に数えるほどしか車を運転しないので、ラジオの切り方がわからない。それで、そのままにして運転していたら糸井重里がゲストに出ている番組になったのである。おもしろいものである。

山道を抜けて唐桑半島に入って、交通量がやや増えるが、それも一時のことで、静かな道で半島先端のビジターセンターを目指す。

ビジターセンターは静かだ。ちょうど子猫が迷い込んできたところで、その静けさがほんの少し揺らいでいた。津波と震災についての展示が多く、ここでも8年前の震災の様々な意味での大きさを感じる。ビジターセンターの裏から遊歩道が海岸や御崎神社へ通じている。最寄りの御崎神社に参拝する。

昼時だったので、ビジターセンターで食事処をいくつか教えてもらう。唐桑は気仙沼市街とは違って商店なども少なく、この地域の幹線である気仙沼唐桑線沿いの寿司屋はなんとなく通過。漁協や郵便局のあるエリアに立地する店を比べてみて、民家風の店のほうにお邪魔する。とにかく人の気配のあまりないところなので、午後2時近いとはいえ、他に客はない。家族で経営しているらしく、小さな男の子が水などを出してくれる。そんな風なので、自然に気持ちも和んで店の人といろいろ会話も弾む。ここに店を構えるようになった経緯、震災前のこと、震災後の復興事業について思うこと、などなど興味深いことをたくさん伺った。「気仙沼」とひとくくりにはできない、それぞれの地域の事情もあるようだ。それは当然だろう。

食事の後、せっかくなので巨釜へ行ってジオパークっぽい風景を眺めてから気仙沼市街方面へ戻る。復路でもカーナビが選んだ道は、あの峠道だった。気仙沼港を通り過ぎ、リアス・アーク美術館を訪れる。

立派な建物だが、我々以外に客がいないことに驚く。意図せず貸し切り状態だ。しかも、展示が興味深いものばかり。尤も、民俗資料は地元の人たちにとっては当たり前のものだろうから、敢えてこういう施設で見学しようとは思わないだろう、とも思う。圧巻は津波の被害の痕跡物だ。車とか家屋の構造物とかプロパンガスボンベといった頑強なものがこんな姿になるのかと、ただ唖然とした。


気仙沼 初日

2019年07月06日 | Weblog

初めて気仙沼を訪れる。東京から新幹線で一ノ関へ、そこから大船渡線で気仙沼まで約4時間。気仙沼を訪れたのは、特に理由はないのだが、ここの会社が扱っている海産物加工品をときどき食べているので、どのような土地なのか素朴な好奇心から訪れた。

震災から8年4か月。気仙沼駅に着いたとき、線路を覆うように整備されたBRT用の道路に目が行く。形の上では鉄道だが、実体は廃線してバス路線に転換したということだ。気仙沼は大船渡線と気仙沼線の分岐点でもあるが、どちらも気仙沼以東はBRTになった。駅までは宿泊する宿に送迎をお願いしておいた。駅前の風景はもはや震災を思わせるものはない。しかし、宿のある港のほうへ進むと港周辺はいまだに工事中の道路と更地が広がっている。ネットの動画で見た津波の映像も衝撃的だったが、8年を経て更地のままの港周辺の風景も別の意味で衝撃的だ。

まだチェックインのできる時間ではなかったので、とりあえず荷物を宿に預かってもらい、お昼ご飯を食べにいく。今日の昼は、その海産物加工品を扱っている会社が経営しているレストランで食べることに決めていた。満席であったが、ちょうど会計を済ませて店を出た人と入れ違いになったので、5分ほど待っただけで席につくことができた。煮魚と御造りの定食をいただく。煮魚はメカジキ。ここの港の代表的な魚だ。食後に甘味をいただく。店の人が、「ここの80歳のおばあちゃんが作ったアズキです」と説明してくれて、「おぉぉ」と思う、が、次の瞬間、自分たちは1週間おきに実家に顔を出して82歳の母が作る料理を食べていることを思い出す。

80代といえば、このレストランの隣に手編みのセーターをオーダーで作る店がある。毛糸を取る羊の飼育状況からこだわって、もちろんその毛糸にもこだわって、店に登録している80数名の編み手さんたちが一着一着手編みで作るセーターを販売している。物によっては2年待ちだそうだ。品質もさることながら、毛糸からこだわったとか編み手の想いとかこの店の設立のいきさつといった、セーターにまつわるストーリーに値打ちがあるのだろう。レストランもセーターの店も林に埋もれているような上品な建物だ。どちらも京都の三角屋という建築事務所が手掛けたものである。

腹ごしらえを終えて、街を歩いてみる。まずは五十鈴神社にご挨拶。初めての土地を訪れたときはなるべくその土地の大きな神社に参拝する。気仙沼はここでいいのかどうなのか知らないが、すぐに目についたのも何かの縁だと思う。その前に、明日はレンタカーを予約してあり、その店舗の場所を確認するべく海に沿った道路を南下。魚市場や海の市がある区画を通りかかったので海の市を覗いてみる。お昼ご飯をいただいたばかりで腹が膨れている所為か、特に目を引かれるようなものもなく、そのままレンタカーの店舗を目指す。公民館を過ぎたあたりでレンタカーの看板が目に入ったので、そこから方向を変えて神社を目指す。

ここまでは海沿いだったが、宿やお昼をいただいたレストランのある高台の内陸側の道を行く。すぐに一階部分がゴミで埋まったままの建物の前に出る。建物とか土地の所有者がどうにかなってしまい、手が付けられないのだろう。復興作業のなかで土木とか建築といった物理的な作業自体はそれほどのことでもないだろうが、権利義務の確定というのは、殊に当事者が亡くなって権利の主体がわからなくなってしまうとどうにもならなくなってしまう。何年か前に東電に勤務していた大学時代の友人に誘われて福島原発周辺を訪れたとき、彼が語っていたのは復興作業のそういう難しさであったことを思い出した。

海に面したところは津波の被害の大きなところでもある。かつてフェリーの発着所のあったあたりは更地が広がり、そのなかに点々と真新しい建物がある。このあたりは「風待ち地区」と呼ばれる地域で、個性ある建物が並んでいたらしい。そのなかで登録文化財の指定を受けていたものが真っ先に再建されているようだ。それで点々なのである。店舗についてはもちろん内部を拝見できないことはないが、冷やかしで入るのも憚られるので、外から拝見するだけだ。ただ三事堂ささ木は店舗に併設されている蔵がギャラリーになっているようなのでお邪魔させていただいた。ギャラリーのほうは備前が並んでいた。店舗のほうは日用使いの陶器が中心だ。店の方と話をするなかで、当然に震災や津波の被害が話題になり、その流れで「裏のほうもご覧になりますか?」と尋ねられる。「え、よろしいんですか?」と言いながらも嬉しさが隠せない。他所の人のお宅などそう簡単に拝見できる機会などない。拝見したのは店に通じる出入口を抜けてすぐ裏手の居間のような部屋だ。印象的なのは高い天井と大きな神棚。商店や作業場に神棚があるのは当然だが、「地元の方からもよく言われる」というくらいに立派なものだ。一般的な家屋の天井くらいの高さのところに細長い光取りの窓が並ぶ。その光取りの窓の少し下の壁が上下で色が分かれていて、上より下が白っぽい。その白っぽいところが津波に洗われた跡だ。「洗濯機の中のように水が渦巻いた」そうだ。それにしても古い木造家屋の柱や梁は頬ずりをしたくなるくらい美しい。このお宅は水に浸かったところも、使えるところはそのまま残して修復したという。気の肌や質感も美しいが、たとえば戸に嵌っているガラスの周囲の装飾であるとか桟の模様であるとか、大正昭和の大工や施主のほうが今よりも余程モダンな感覚だったと思う。

五十鈴神社は海に飛び出した突起のような地形の上にある。あるいは島だったのかもしれない。そこだけが森のようになっていて、いかにもの場所だ。この後、紫神社にも参拝したが、こちらも高いところにある。この紫神社の足元に南町紫神社前商店という複数の商店が入居する建物がある。中庭があり、ちょうどそこでアカペラのコンサートが行われていた。ここから更地の区画を挟んで、かつてのフェリー乗り場に面したところにまち・ひと・しごと交流プラザがあり、そのなかにカフェや遊覧船の切符売り場などもある。まだまだ更地が多いところだ。たいした距離ではないのだが、宿の周りをぐるっと歩いてきて、一服したいところでもあったので、カフェでひとやすみ。店内は子連れの比較的若い女性客が多い。子供がたくさんいる風景というのは今どき本当にほっとする。まして、ここにいる子供たちは一見したところ震災後に生まれた年頃なので、なおさらほっとする。

宿に戻ってチェックインを済ませ、午後6時に夕食。地元の酒も料理もたいへん美味しくいただいた。

本日歩いた地域:柏崎、港町、河原田、南町、魚町

本日訪れた店、場所など:鼎・斉吉、メモリーズ、海の市、風待ち地区建物群(千田家住宅、角星店舗、武山米店店舗、三事堂ささ木店舗及び住宅、他)、五十鈴神社・猪狩神社、紫神社、K-Port