熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2021年7月

2021年07月31日 | Weblog

『工芸青花 16』 新潮社 / 坂田和實 『ひとりよがりのものさし』 新潮社

今となっては何で知ったのか記憶に無いのだが、1,000部限定で発行されている『工芸青花』という定期刊行物を購読している。記事のほうは何を言っているのか理解できないものが多くてあまり読まない(読めない)が、写真が良く、写真集のようなつもりで目を通している。本号は先月半ばに届いたが、この連休にようやく開いてみた。

著名な古道具屋が次々と店を閉じたそうだ。2019年に麻布十番「さる山」、2020年に西荻「魯山」と目白「坂田」。古道具というのは私には敷居が高くて近寄り難く手の届かない存在だ。「坂田」の店主である坂田和實の「ひとりよがりのものさし」(新潮社)は愛読書のようなもので、折に触れてはパラパラとめくって読んでいる。本書は月刊誌『芸術新潮』の連載をまとめたものだ。『青花』の記事と違って読みやすく、しかも深い。千葉県長南町にある「坂田」の私設美術館「as it is」にはレンタカーで何度か出かけた。自分でも道具屋をやってみようかとも考えて、あれこれ思いついたことを書き殴ったノートの切れ端を捨てられずに手帳のカバーのポケットに挟んでいたりもする。そうした上で、自分にとっては敷居が高いと感じるのである。

茨木のり子の詩に「自分の感受性くらい」というのがある。

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

(『茨木のり子全詩集』花神社 167-168頁)

古道具屋を前にすると、この詩が思い浮かんでしまって、中に入ることができないのである。怠け者で、心身ともにしなやかではなく、なにもかも下手くそで、ひよわな志しかなく、尊厳を簡単に放棄している、ばかものとは私のことだ。骨董だの古道具だのを見る眼など持ち合わせていない、と思ってしまう。

その点、本や雑誌は気楽に手に取ることができる。能書や蘊蓄はちゃんと理解して書いているのか、どこかで聞き齧った受け売りなのか、読めばだいたい伝わってくる。坂田の『ひとりよがりのものさし』は優しそうなタッチだけれど、人としての値打ちを問われているようで、やはり読んでいると「ばかものよ」と怒られているような気分になってしまう。

普段の生活の中で、ちゃんと怒られる機会は滅多にない。怒られたりクレームを受けたりするのは、こちらの不行き届きももちろんあるのだが、相手のエゴに因るところも少なくない、と思っている。茨木の詩や坂田の文章には真摯なものを感じて、怒られているけれど嬉しいのである。

僕とあなたは違う人間。同じものを同じくらい好きということはあり得ない。今の時代、何が好きかを明確にしても切腹させられることはないのだから、一人一人が自分の責任で何が好きなのか、つまりはどんな道を歩きたいのかを声高く言い続けなくてはいけないと僕は思う。
(『ひとりよがりのものさし』15頁)

その通りだとは思うのだけれど、ちょっと「声高く」は言えない。ボソッとなら言えるかもしれないが。おそらく、好きなことを好きと言ったり好きな道を歩いたり、つまり、しあわせに生きることは、それほどむずかしいことではない。ほんのちょっと吹っ切れば良いだけのことだ、とは思う。

 小谷さんは、骨董や道具の美しさは、遊び心を持っていないと感じることが難しく、一旦、その美しい線を自分のものとして会得してしまうと、あとは、たとえ西洋の物であろうと東洋の物であろうと、古代の物でも現代の物でも、又、高価なものでも道端に落ちているものでも、その選択は単に応用問題にすぎないということを、僕達、若い仲間に教えてくれた人。房総の網元の生まれで、仕事の関係上お持ちだった船を、遊びのために次ぎ次ぎと売り払い、最後に残ったものは、一枚の板切、使いこまれたボロ布、サビた鉄金物、シミの入った侘びた陶片。服装も古いアメリカ製ジーンズや、イギリスのヨレヨレのコートなどがお好みで、道具屋をやめた後は、その風貌と着こなしを見込まれて、ファッションのモデルもしていた。
 僕達から見れば、好き嫌いというだけの選択で骨董道楽に生きた、稀な、又羨ましい人だったけれど、ある時「何ともない人生だったな」と、ポツリひとこともらしたことがある。亡くなる一ヶ月前に戴いた手紙は、いつもの太めの朴訥な鉛筆文字で、「永い間、つき合ってくれて有難う。楽しかった。さようなら。」だった。享年七十八歳。
(『ひとりよがりのものさし』27頁)

この小谷伊太郎という人がどのような人なのか全く知らないが、自分も最後にはこんな手紙を出す相手がいたらいいなと思う。

 

犬養孝 『改訂新版 万葉の旅 上・中・下』 平凡社

万葉集の歌に詠まれている土地を訪ねてみよう、と思う人はたいていこの本を手にするらしい。私も以前に受講した「万葉集講座」の参考文献に挙げられていたものの一つとして手にした。ところが、講座期間中は紐解くことを怠り、今頃になって読んだ。もともとは1964年に社会思想社の現代教養文庫として発行されたが、同社の廃業によりしばらく絶版状態となっていたのを、平凡社が2003年に改訂新版として発行した。改訂に際して元の記述や写真を残しながら「国鉄」を「JR」に書き換えるというような中途半端な手の入れ方をしているのは、万葉集所縁の地を歩く人が本書をガイドブックとして使うことを想定してのことだろう。別に「国鉄」のままでよいのではないか、と思うのは私だけだろうか。写真はいかにも素人写真で、それが味わいを深めていてよい、というのは本音であって皮肉ではない。

万葉集の最初の歌は雄略天皇の御製、とされる歌。万葉集の時代には現在の「ナントカ天皇」という漢風諡号ではなかった。そのあたりのことは別の記事に書いた。

それで筆頭の雄略天皇御製とされる歌だが、実は伝承歌らしい。そんなことはともかく、雄略天皇は万葉集の中では「泊瀬朝倉宮に宇御めたまひし天皇(はつせのあさくらのみやにあめのしたをおさめたまいしすめらのみこと)」(岩波文庫での表記による)となっている。「泊瀬」は現在は「初瀬」と表記されている地域とピタリと重なるわけではないだろうが、だいたいそのあたりだろう。近鉄の駅に「大和朝倉」、「長谷寺」といういかにもそれらしいのがある。現在、この一帯は奈良県桜井市である。かつて、天皇が新たに即位する度に新たに都が造営された。人の命は限りがあるので、それに合わせて大きな都市を建設したら完成が天皇の在位に追いつくはずはないのだが、現在の「都市」のイメージではなく、単に集落のようなものと考えれば、都の造営も儀式の一部と見られたのだろう。

万葉集の成立は詳しくはわかっていないらしい。そもそも原本はなく写本だけが頼りだ。大伴家持が編纂を担当したとの説はかなり有力らしく、8世紀の終わりごろに一応の完成を見たとのこと。ところが、家持は亡くなった後に藤原種継暗殺事件への関与が疑われ、追罰を受け、官籍からも除名された。このため彼の仕事もなかったことにされて万葉集の発表が遅れ、9世紀初頭にようやく公になった、らしい。とはいえ「万葉集」の表記が文献に登場するのは平安中期以降で、つまり、詳細不明なのである。

万葉集に収められている歌は約4,500首(岩波文庫版に収載されているのは4,516首)、うち473首が家持の作とされている。しかも、万葉集のトリを飾るのが、因幡国守として山陰に暮らしていた家持が詠んだ歌だ。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
(あたらしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと)

一見すると新春を寿ぐ歌のように見える。しかし、本当にそうだろうか。確かにこの歌の詞書には正月の宴会で詠んだ歌と書かれている。正月の宴会で詠むのだから、それなりものであろうと思うのは当然だ。しかし、だ。ま、この話はやめよう。

それにしても、当時の日本中から歌を集めた歌集が存在しているのは確かなようで、それがなんのためなのか、現代の者には実感としてわからない。おそらく、国家としての統一体、共同体の存在を公に確認する作業として、そこに属する人間があまねく理解できるようなものが必要であったのだろう。現代であれば、共同体の連帯を象徴するのに、できるだけ多くの構成員が参加をする行事を行うことに相当するのかもしれない。例えば、オリンピックや万国博覧会といった世界中の人々に対して「自国」を意識させるような行事がそうしたものに当たるだろう。奈良時代にあっては、それが歌であり言葉(表記ではなく音として)であったというところに言葉というものの存在の大きさが表れている。

「海ゆかば」は万葉集にある家持の歌が元になっている。「海ゆかば」が軍歌なのか鎮魂歌なのかという議論があるらしいが、1880年に宮内省伶人だった東儀季芳が作曲したものは将官礼式曲として用いられ、1937年に信時潔が作曲したものは、作曲者の意図はどうあれ、実態としては軍歌とされても仕方ないだろう。しかし、元の万葉集の歌は、造営中の東大寺大仏の塗金に不足していた時、陸奥で金鉱が発見されて陸奥国守から金900両が献納された祝いの歌だ。1937年作曲のほうの「海ゆかば」が、当時の政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として作られたということは、万葉集と「総動員」に通じるものがあると考えられていた証左と言えるだろう。言葉の力は大きいのである。

ちなみに、その家持の歌は長歌と三首の反歌から成っている。

陸奥国に金を出だしし詔書を賀びし歌一首 短歌を併せたり

葦原の 瑞穂の国を 天降り 知らしめしける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ 良き事を 始めたまひて 金かも 確けくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 朕が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の男を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みは せじと言立て ますらをの 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言い継げる 言の官そ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我をおきて 人はあらじと いや立てて 思ひし増さる 大君の 命の幸の 聞けば貴み

反歌三首

ますらをの心思ほゆ大君の命の幸を聞けば貴み
大伴の遠つ神祖の奥つ城は著く標立て人の知るべく
天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く

天平感宝元年5月十二日、越中国守の館に於て、大伴宿弥家持の作りしものなり。(岩波文庫版『万葉集(五)』62-68頁)

万葉の時代から下って、10世紀から15世紀にかけて勅撰和歌集の編纂が行われている。16世紀は戦乱の時代。17世紀以降は天下統一の時代。19世紀は門戸開放で世界との付き合いが本格化する時代。そして20世紀、21世紀がどのような時代か、我々一人一人がそれぞれに答えを持っているだろう。いずれにせよ、言葉は連帯の証というよりも分断の武器のようになってしまった、と感じているのは私だけだろうか。改めて、本書を手に万葉所縁の土地を巡ってみたい。