熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2021年6月

2021年06月30日 | Weblog

古賀史健 『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』 ダイヤモンド社

「人生最後の晩餐には何を食べたいか」などと話題になることがある。今なら、あつあつのご飯と納豆、と即答する。納豆に限らず大豆を使った食材が大好きで、納豆を筆頭に、豆腐、がんもどき、油揚げ、ただ大豆を茹でただけのもの、といったものがすぐに思い浮かぶ。我が家には大豆が数キロ常備してある。大好きな納豆は自家製だ。自家製といっても、発酵のスターターには既製品の納豆を使うので、純粋の自家製ではない。茹でた大豆を紙コップに適量ずつ盛り、各コップ毎に数粒の既製品納豆を置いてラップをかける。それをダンボール箱に並べて蓋を閉め、電気アンカを箱の上に置いて、プチプチシートで包んで、ひとまわり大きな段ボール箱に収めて3日ほど放置するだけのこと。納豆菌というのは大変に強力な菌でそこら辺至るところに浮遊しているのでスターターなしでもできる、という話は聞いたことがある。試してみようかなとは思わないではないのだが、失敗してせっかくの大豆を腐らせるのは忍びないので、いまだに試してはいない。

納豆のほか、我が家では味噌、梅干し、甘酒、などを作っている。味噌は寒の内に仕込む。毎年、使う材料や量を少しずつ変えてみるのだが、都内で作られている麹を使うといい味になる気がする。その土地の麹菌で作るのが風土にあって良いのかもしれない。尤も、大豆も塩も東京から遠く離れた産地のものだし、梅干しの梅は毎年紀州から調達する。甘酒は健康の為、実家に老親を訪ねる時に手土産にする。どれも最後の晩餐にいただきたいものばかりだ。

なぜ最後の晩餐などと考えたかというと、この本を読んだからだ。こういう本が大手を振って書店に並ぶようになるとは世も末だと思ったのである。当たり前のことをうだうだと書き連ね、しかもスカスカのレイアウト。今は総じて印刷物の文字が大きくなっているが、本書も例外ではなく無駄にボリュームを大きく見せている。「この一冊だけでいい。」などと帯がついているが、この一冊ではどうしようもない。「ほぼ日」の記事を読んで、興味を覚えたのだが、今度ばかりはがっかりした。

ふと落語の「寝床」を思い出した。そういえば、落語をはじめ芸事の多くには学校も教科書もない。何故だろうか。

 

ルソー著 今野一雄訳 『エミール(上)(中)(下)』 岩波文庫

先日、高校の同窓会誌が届いた。今年は学校の創立100周年でもあり、自分の代の卒業40周年でもあるらしい。高校時代から続いている人間関係は無い。当然、それ以前からの関係も無い。大学時代から続いている関係がわずかにあるだけだ。それで何の不満もない。さっぱりしたものだ。

一通り学校教育を受けた感想として、あれは何だったのだろう、という疑問しかない。いわゆる偏差値的なレベルが低い地域の公立学校で義務教育を受け、高校受験のときに世間との格差に愕然とした。その衝撃が大きくて、高校時代はいわゆる勉強しかしなかった。

大学に進学したものの、これといって問題意識があるわけもない。何も無いことへの焦りを感じつつも何も無いままの学生時代だった。社会人になって3年目に勤務先の留学制度に応募してイギリスの大学でMBAを取った。2年間の課程だったが、ベッドで寝たことがあまりなかった。英語がわからないこともあって、勉強が追いつかないのである。机でうとうとしてそのまま朝を迎えることが多かった。やはり何も無い学生時代が伸びただけだった。

新卒の就職活動で、学生時代のことがネタになるわけだが、あれは尋ねているほうもろくなものではないので、ネタと割り切らないといけない。そもそも人が人を正当に評価することなどできるものではない。人は経験を超えて発想できない。賃労働で細分化されたことしかしていないのに、他人のことをどうこう言えるはずがない。最近、どこぞの企業で採用担当が就活中の学生に採用をちらつかせてホテルに連れ込んだという事例が報じられたが、氷山の一角だ。同じアホなら踊らにゃソンソン、という歌と踊りがあるが、その通りだ。長く受け継がれている習俗には真実が隠されている。

賃労働というのはアダム・スミス『諸国民の富』に登場する'division of labour'に端を発する考え方かと思っていたが、本書で社会と個人との関係について語られるなかに、人間の分断化と言える見方が窺える。

社会は人間をいっそう無力なものにした。社会は自分の力にたいする人間の権利を奪いさるばかりではなく、なによりも、人間にとってその力を不十分なものにするからだ。だからこそ、人間の欲望はその弱さとともに増大するのであって、大人にくらべたばあいの子どもの弱さもそれにもとづいている。大人が強い存在であり、子どもが弱い存在であるのは、前者が後者よりも絶対的な力をいっそう多くもっているからではなく、前者はもともと自分で自分の用をたすことができるのに、後者にはそれができないからだ。(上巻 145頁)

大人と子どもという言い方をしているが、全人的なものと断片化された人間の在り方と読み替えることもできるだろう。産業革命を待つまでもなく、社会が肥大化するなかで個人はその構成要素としての機能的側面を担うことを期待される存在となったのである。

社会にあっては、人間は必然的に他人の犠牲によって生活しているのだから、かれはその生活費を労働によって返さなければならない。これには例外はない。だから、働くことは社会的人間の欠くことのできない義務だ。金持ちでも貧乏人でも、強い者でも弱い者でも、遊んで暮らしている市民はみんな悪者だ。(上巻 452頁)

そうなると、教育とは人間をどのように教え育てることを意味するか、ということが自ずと規定される。

子どもに教える学問は一つしかない。それは人間の義務を教えることだ。(上巻 64頁)

また、社会を構成する人々は己の分を弁えるようにしないと、社会は収まりがつかない。

現実の世界には限界がある。想像の世界は無限だ。前者を大きくすることはできないのだから、後者を小さくすることにしよう。わたしたちをほんとうに不幸にする苦しみはすべて、この二つの世界の大きさのちがいから生まれるからだ。(上巻 136頁)

過度に自己を主張することは害悪なのである。自己主張は当然の権利ではなく、それが許されるのは限られた人だけだ。

いつでも人にわかってもらおうとするのは、これもまた一種の権力である。(上巻 120頁)

教育というのは、社会秩序の安寧のためにある、ということなのだろう。為政者の側からすれば、民衆は権力に従って権力の意図に沿うように動いてもらわないと都合が悪い。法令であろうが非公式な誘導であろうが、公権力の意図に合わせて社会が動かずに、権力とは何かということなのだ。例えばお上から「要請」があれば、その字義を云々するのではなく、民衆ひとりひとりが「要請」の背後にある意図までをも忖度して粛々と「要請」に従ってこそ社会が成り立つのである。

個人は社会の為にあれ、ということなのか。まず、個人は自分自身がどうありたいのかという意思がないと話にならない。

人はみな幸福でありたいと思っている。しかし、幸福になれるには、幸福とはどういうことであるかをまず知らなければなるまい。(上巻 402-403頁)

おそらく圧倒的大多数に強い意思はない。あればこんな世の中にはなっていない。生まれようと思って生まれたわけではないのだから、それは当然だろう。気がつけばここにいて、さぁ頑張れと言われたところで何をどうしろというのか。「幸福」といったところで、何不自由無い生活、というくらいしか思いつかない。「自由」「不自由」はその社会の中での相対的なことでしかなく、本当はどうありたいのか、なんてことを深く突き詰めて考えたところで、考えたつもりになっているだけというのが関の山だろう。人は経験を超えて発想はできないのだから。

幸福になるのは、幸福らしく見せかけるよりはるかにやさしいことなのだ。(中巻 400頁)

わたしたちは表面的なことで幸福を判断していることがあまりにも多い。どこよりも幸福のみあたらないところにそれがあると考えている。幸福がありえないところにそれをもとめている。陽気な気分は幸福のごくあいまいなしるしにすぎない。陽気な人は他人をだまし、自分でも気をまぎらそうとしている不幸な人にすぎないことが多い。人の集まったところでは微笑をたたえ、快活で、朗らかな様子をしている人は、ほとんどみんな、自分の家では陰気な顔でどなりちらしていて、召使いたちは主人が世間でふりまいている愛嬌のために苦しむことになるのだ。(中略)ほんとうに幸福な人間というものは、あまりしゃべらないし、ほとんど笑わない。かれは幸福をいわば自分の心のまわりに集中させる。騒々しい楽しみごと、はねっかえるような喜びは、嫌悪と倦怠を覆いかくしている。(中巻 57頁)

本書の中でたびたび登場するのだが、「人生を楽しむ」とはどういうことなのだろうか。ルソーが理想とする人間像は二十歳のエミールだ。

わたしのエミールを見ていただきたい。二十歳をすぎたエミールは、申し分なくできあがっている。精神も肉体も申し分なくつくられている。強壮で、健康で、活発で、器用で、頑丈で、豊かな感性、理性、善良さ、人間愛にあふれ、正しい品行、よい趣味をもち、美しいものを好み、よいことを行ない、残酷な情念の支配からまぬがれ、世論の束縛にとらえられないで、知恵の掟を守り、友情の声に従い、あらゆる有益な才能と、いくつかの人を喜ばせる才能をもち、富にはほとんど関心をもたず、自分の腕の末端に生活の手段をもち、どんなことがあっても、パンにことかく心配はない。(下巻 180頁)

本書は近代教育学の古典、などと呼ばれている。人間を育てることは「人間」とは何か、と言う前提がないといけない。つまり、教育を語ることは人間を語ること、世界観を語ること、哲学や宗教を語ることでもある。そう考えると「エミール」はルソーが考える「人間」そのものだ。結局のところ、ルソーの教育論も、世俗的な理想、良き市民、といった既成の人間観を超越するものではないように思われる。人は経験を超えて発想はできないのだし、何事においても完璧などということはあり得ないのだから、既成の人間観を超えるはずなどない。

たまに「教育の荒廃」というようなことを耳にする。発言している側がどういうつもりでそのような言葉を使っているのか知らないが、「荒廃」ということは、かつてそうではなかったということを示唆している。いわゆるイジメの問題に関連したところで語られるのだろうが、当事者意識のかけらも感じられない言葉だ。自分が経験した以上のことは知らないが、そこから推測するに、人間そのものが変化しないのに学校教育の現場に根本的な変化などあるわけがない。現状の社会を与件として、教育がいわゆるイジメを無くすことなどできるはずがない。学校という閉鎖空間の中で逃げ場がないから、かなりはっきりした現象として現れるだけのことで、根を同じくする現象は社会の至る所にあるだろう。教師は教育という産業に従事する賃労働者であって、そこに問題の責任を押し付けるのは公正とは言えまい。学習管理者は教育者と同義ではない。

ところで、人生は短いのだろうか。まぁ、今更どうでも良いのだが。

わたしたちはこの地上をなんという速さで過ぎていくことだろう。人生の最初の四分の一は人生の効用を知らないうちに過ぎてしまう。最後の四分の一はまた人生の楽しみが感じられなくなってから過ぎていく。はじめわたしたちはいかに生くべきかを知らない。やがてわたしたちは生きることができなくなる。さらに、この最初と最後の、なんの役にもたたない時期にはさまれた期間にも、わたしたちに残されている時の四分の三は、睡眠、労働、苦痛、拘束、あらゆる種類の苦しみのためについやされる。人生は短い。わずかな時しか生きられないからというよりも、そのわずかな時のあいだにも、わたしたちは人生を楽しむ時をほとんどもたないからだ。(中巻 5頁)

人生は短い、と人々は言っているが、わたしの見るところでは、人々は人生を短くしようと努力しているのだ。人生を利用することを知らないで、かれらは時がたちまちに過ぎ去ることを嘆いているが、わたしの見るところでは、時はかれらの意に反してあまりにもゆっくりと過ぎていくのだ。めざす目的のことばかり考えているかれらは、自分たちとその目的とをへだてている間隔を恨めしく思っている。ある者は明日になればと思い、ある者はひと月たてばと思い、またある者は、いまから十年たてば、と思っている。だれひとり今日を生きようとはしない。だれひとり現在に満足しないで、みんな現在の過ぎ去るのがひどく遅いと感じている。時はあまりにも速く流れていくと嘆くとき、かれらはうそをついているのだ。(下巻 155-156頁)

 

梯久美子 『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』 新潮文庫

梯久美子先生は「ほぼ日の学校」の万葉集講座の講師のお一人だ。この講座は10回の講義で構成されていたが、2回の補講が追加された。一回が岡野弘彦先生の回を控えての予習会。もう一回が、10回プラス予習会の講座を終えた後の標題の本についての梯先生の講義(2019年8月21日)だった。万葉集講座としての講義ということで、講座のなかで先生がテーマにされた『昭和万葉集』に関連するものとしての軍人の歌、さらにその関連としての本書という位置付けでの補講であったと記憶している。十分に興味深い内容だったのだが、肝心の本のほうは買ったまま積読状態だった。文庫にしては分厚くて、読むのを後回しにしてしまっていたが、『エミール』という文庫3巻本を読了した勢いで本書を読み始めた。これがスゴイ本なのである。さすがに一気にとはいかないが、それでもかなりの勢いで読み通してしまった。

梯先生といえば『散るぞ悲しき』だ。こちらは新聞に出ていた書評をきっかけに単行本で読んだ。クリント・イーストウッドが監督をした"Letters from Iwo Jima"(邦題『硫黄島からの手紙』)と"Flags of Our Fathers"(同『父親たちの星条旗』)も劇場で観た。映画が本と関係あるのかないのか知らないが、世の中にはどのようなことも起こりうるのだ、と思わせる映画であり、本だ。ノンフィクション作家というのは並大抵の仕事ではないと圧倒された。

『散るぞ悲しき』は硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道陸軍中将(戦死と認定され、特旨をもって陸軍大将に親任される)が最期を前に大本営へ打電した決別電報のなかで詠んだ歌の一節だ。

國の爲重き努を果たし得で矢彈盡き尽き果散るぞ悲しき
仇討たで野邊には朽ちじ吾は又七度生れて矛を執らむぞ
醜草の島に蔓る其の時の皇國の行手一途に思ふ

これらの歌が大本営発表により新聞に掲載された時には、第一首の最後の部分が修正されていた。

國の爲重き努を果たし得で矢彈盡き尽き果散るぞ口惜

梯先生はこの修正から栗林を、硫黄島を、戦争を、国家を説き起こすのである。その筆力もさることながら、『散るぞ悲しき』を執筆するために集めたであろう材料の収集力と取材力、構想力にはただただ感心して頭が下がる。

本書と関連する万葉集講座の補講で、梯先生は軍人の歌をマクラに説いた。山本五十六が亡くなる年、日本を離れる前に愛人である河合千代子に送った手紙の末尾に歌を付けたという。

凡ほろかに吾し思わばかくばかり妹が夢のみ夜毎に見むや

これは『万葉集』巻十一にある

凡ろかに我し思はばかくばかり難き御門を罷り出めやも

の本歌取りだそうだ。栗林だけでなく、軍人は最期を前に決別電報に歌を詠んだ。そういう公的なものだけではなく、愛人への手紙というようなものにも歌を添えるのが、おそらくある階層以上の人々の間の常識のようなものだったのだろう。そこに平文では表現できないこと、平文の行間のようなことを語ったはずだ。ということは、そうした人々について調べたり語ったりする現代の人間も当然に和歌や短歌についての嗜みがなければならない。ところが現実には短歌も俳句も今は一般常識とは言い難い状況だ。こんなことで「歴史」だの「文化」だのを語ることができるのだろうか。『散るぞ悲しき』を読んだ時、そういうことに全く縁のないままに長い年月を生きてしまった自分に対して危機感を覚えた。歴史は自分自身なのである。

ところで、海軍甲事件の後、当時の首相である東條英機の使いと称する者が河合千代子のもとを訪れて自決を迫った、という証言があるそうだ。それもまた日本という国家、歴史の何事かを語るものである。

『死の棘』の作者である島尾敏雄は海軍少尉で第十八震洋特攻隊指揮官として終戦を迎えた。梯先生は今度は『死の棘』を取り上げ、そこに描かれた作家の妻であるミホに焦点を当てて本書をまとめた。本書も『散るぞ悲しき』も何がスゴイかというと、行間から怒涛のごとくに溢れ出す取材の量と質だ。このような作品に巡り会えたことを幸せと呼ばずにどうする、と思う。

『死の棘』は夫(島尾)の不倫を知り心を病んでしまった妻(ミホ)を題材にした私小説で、1960年から1976年にかけて文芸誌に短篇小説として発表されたものが1977年に長編小説としてまとめられて発表された。1961年に芸術選奨、1977年に読売文学賞、1978年に日本文学大賞を受賞。1990年には映画化され、1990年のカンヌ国際映画祭で審査員グランプリを受賞、日本アカデミー賞主演男優賞(岸部一徳)・主演女優賞(松坂慶子)、日刊スポーツ映画大賞主演女優賞を受賞した。長編小説版は現在でも新潮文庫で刊行されている。

『死の棘』を読んだのは2009年のことだ。小説どころか本を読むということ自体が生活の中で習慣になっていない。それなのにこの作品を手にしたのは、仲間内で話題になったからだ。そことは別のブログに書いた。

「Bの会」というのは大学を出て最初の勤め先である某証券会社の同期で、血液型がBの奴の集まりだ。こんな会を結成しなくても、証券会社というところはBだらけでBを強調する意味は無い。尤も「会」といっても中核になるのは4人で、私以外の3人が西船橋にあった独身寮の住人、私を含む3人が債券本部の所属、というつながりだ。会の幹事役を自発的にやっている三ツ石君が、私のこのnoteの何かの記事に「サポート」をしてくれた。中途半端な金額だったのでそれほど嬉しくもなかった。

みついしくん、そういうことをするときには、ドーンとやらないとダメなんだぜ。オレの笑顔が見たいだろ。マスクで見えないけど。ドーンとこないと笑えないなぁ。

おそらく、島尾の家庭には笑顔がなかっただろう。『死の棘』はほぼ全編実話なのだそうだ。島尾は子供の頃から最期に近い日まで几帳面に日記をつけていた。彼の小説はその日記に基づくものが多いらしい。つまり、自身の生活を活字にして商品にしていたとも言える。あるいは、売れる商品にするべく生活を営んでいたのかもしれない。他人の不幸は面白い。不幸な生活は良質な商材になる。小説家や詩人といった人々のなかに「無頼派」とか「破天荒」などと呼ばれるような生活を送った人がいたりするが、生活自体が創作という人もあるのだろう。

時代背景も無視できない。島尾とミホが出会ったのは1944年12月、奄美群島のなかにある加計呂麻島である。島尾は1944年11月に第十八震洋隊の隊長として島にやってきた。このときミホは押角国民学校の教師だった。震洋は爆弾を抱えたモーターボートで、敵艦船に体当たりする特攻兵器だ。震洋の搭乗員であるということは死が任務であるようなものだ。見出し写真は八丈島にあった第十六震洋隊基地跡を見下ろす崖の上にある碑だ。特攻のために開発された兵器は震洋に限らずお粗末で、そういうものが出撃しなければならない状況が現出するということは日本が滅亡するということを意味する。今、自分がここでこうして生活しているということは、そうした兵器が実戦には殆ど使われなかったということでもある。しかし、当時の当事者はどのような心境で出撃命令を待っていただろうか。そのあたりのことは経験が無いので何も言えないが、兵隊であることも、空襲があることも、諸々不自由であることも、「そういうもの」だと思ってしまえば案外淡々と受け入れてしまうのが人間というものなのかもしれない。身の危険が目前に迫っていても「自分だけは大丈夫」と感じるのは不都合な現実を無視することで自己保存を図る防衛本能であるような気がする。

死ぬつもりで生きていたのに、突然その「死」が遠ざかってしまった。そこでどうするかというのもその人の了見を示すものだろう。敗戦と荒廃と混乱の中を人々は生きた。闇物資を拒絶して餓死した裁判官がいた。闇物資で財を成した人もいた。外地からの引き揚げも凄惨を極めたらしい。森繁久彌は満洲からの引き揚げのことを繰り返し書いている(『全著作 森繁久彌コレクション1 自伝』藤原書店 2019年11月10日 初版第1刷発行)。もちろん、それは彼の眼を通した話であって、書かれていること全てが事実というわけではないかもしれない。しかし、平和な時代で60年近く特段の不自由もなく過ごした自分にとってすら、彼の話に説得力を覚える。良い悪いの話ではない。人は結局のところ生き物なのである。生き物は生きるためにどうするかということを最優先に考えるからこそ、生き物なのである。

小説家がどう生きるか、というのは難問だ。心ある人の注目を集め、しかも語り継がれる作品を創造できるのは天才だけだと思う。ものを書いて生計を立てるだけなら天才でなくともできるかもしれない。それでも、島尾敏雄もミホもフツーの人が驚愕するくらいのことをして、「小説家」とか「作家」と呼ばれるようになった。この先、語り継がれるかどうかはわからないが、少なくとも現時点では本書のような世間の耳目を集めるドキュメンタリー作品を生み出す存在ではある。

『死の棘』で、妻(ミホ)は夫(島尾)の日記を読んで、そこに書かれていた愛人のことを知って発狂したことになっている。ミホが島尾の日記を読む経緯はそこからはわからない。この話だけを聞くと、自分の信じていた世界が崩壊した衝撃で精神に障害を起こしたかのように見える。しかし、事はそんな単純では無いのである。

まず、日記の問題。「日記」というと極めて私的なもののような響きがある。私的は隠匿することではない。世に溢れているブログやSNSの類の中には日記のようなものも無数にある。思いを文字に起こすという行為には、そこに読者を想定している。島尾は日記を自分だけのものとは考えていなかった。日記は開いた状態で机の上に置かれていることが多く、ミホは当然のようにそれを読んでいた。そればかりではなく、時にミホは島尾の日記に書き込みをしている。あるとき日記を読んで愛人の存在を知った、のではなく、それ以前から夫に愛人がいることを認識していたはずだ。また、島尾もミホが読む前提で日記に情事のことを書いて、それを開いて置いていたのである。

『死の棘』は短編として発表され、17年の時を費やして長編小説にまとめられた。その原稿を清書したのはミホだった。島尾がミホの狂気を観察しているかのような文章だが、そこにはミホによる推敲が入り、ミホの意見で修正が施された箇所が幾らもあるそうだ。本書『狂うひと』の文庫版の帯に「狂っていたのは妻か夫か」という文字が踊っている。ミホが発狂して精神病院に入院したのは事実だし、夫の日記に書かれていた女性が島尾宅に訪ねてきて居合わせたミホと取っ組み合いになったのも事実。当事者であれば世間に公表するのを躊躇うようなことを島尾もミホも「作品」として当たり前に発表し、いくつかの文学賞を受賞して、いくつものインタビューに応対し、それが事実に基づいていることを隠そうともしていない。小説家であるということ、作家として個人名で社会に居場所を持つということは、これほど覚悟のいることなのかと唖然としてしまった。

覚悟のある主人公夫婦はそれでいいとして、作品の中で重要な役割を持たされてしまった島尾の情事の相手の人はどうだったのだろう。繰り返しになるが、『死の棘』は短編として不定期にいくつかの文芸誌に発表されている。事実に基づいた話なので、ミホの発狂のきっかけになった人も実在する(ミホと取っ組み合いになっている)。その人も文芸とか自分でものを書くことに関心を持っていた。当然に自分と関係のある人たちの作品には目を通す。短編の『死の棘』も当然読んだ。そして『死の棘』の中での自分と思しき「あいつ」の取り上げられ方に衝撃を受け、長編の発表前に自殺したそうだ。

この夫婦は一体何なんだ、と思わないでもない。しかし、程度の差こそあれ、我々は誰もが狂気を抱えているのではないだろうか。誰しも「わたし」という意識や認識がある。その「わたし」の境界ははっきりとしたものではなくて、その時々の「わたし」以外のものとの関係性の中でなんとなく感じられるようなものだろう。よく「自分らしく」なんて言葉を見聞きするが、あれは一体何なのだろうと思う。そんなはっきりとした「自分」があるとしたら、おそらくそれは病気だ。時々刻々変化する環境の中で自他の関係性をうまいこと調整しながら生きてこそ健康な存在として世間に受け容れられるのである。優柔不断で世渡りができるなら、そのほうが平穏だ。ミホは確たる「わたし」に拘ったがために「狂った」のではないか。本書で梯先生はこう書いている。

ミホの発作は、文学仲間の女性との情事を知るという形でミホに訪れた「戦後」に対する拒否反応でもあった。戦時下での命がけの恋の続きのつもりで結婚生活を始めたミホだったが、戦後の島尾はそんな妻を置き去りにして文学にのめり込んだ。ミホだけがひとり戦時下の時間にとどまっていたのだ。(611頁)

ミホは加計呂麻島の長の娘として、つまり「カナ(加那)」=姫として我儘いっぱいに何不自由なく育てられた。一時期、東京にいる実父の下で暮らしたものの、そのことは封印し、養父母を両親として自我を形成した。本書には奄美の近世史にも言及があり、そのことで思うこともあるのだが、それは別の機会に譲る。ミホの自我に関わる奄美や加計呂麻島の風土風俗は、本書に登場する評者が異口同音に語るように、原初的なクニを思わせるものだったのだろう。東京での数年間を無いことにしてしまえば、自己世界と現実世界は矛盾なく重なっていた。そこに現れた「隊長さま」は、その世界観に調和している限りにおいて、存在が許容されるのである。

それが、奄美世界と相容れない、敗戦直後で余裕の無い日本と、自分に対して否定的な島尾の家族や親族、そこで自分を積極的に守護しようとしない島尾、という動かしようのない現実に直面するのである。そうした中で、自分をモデルにしたことが明らかで、なおかつその人物が蔑まれているような短編小説や、夫の情事を描いた小説の清書をする。島の姫のような立場から、生活のためとは言いながらも、何が本当なのかわからないような日々を送ることになったのである。どんな思いで毎日を過ごしたのだろう。

ミホの狂気は「病」なのか、その人の個性のうちなのか。物事を自分のイメージのなかの「あるべき」姿に収めようとしゃかりきになると、おそらく精神と身体の少なくとも片方に異変を生じる気がする。しかし、収めないことには自分なりの理解ができない。つまり、生きていられない。自分にとっての「あるべき」にどこまで拘るかは、程度の話であって、そこに正常と異常を分ける明確な境界などない。本書を読む限り、島尾もミホも娘のマヤも、あまり自分がそうなりたいとは思えないような最期を迎えている。この家族は極端な事例であるとしても、文学作品は「病」がないと成り立たないかのような印象を個人的な偏見として私は抱いている。そういう所為もあって、あまり私小説には手が伸びない。

ふと、10年前の今時分に映画館で観たイタリア映画を思い出した。『人生、ここにあり!(原題:SI PUO FARE!)』2008年制作の作品でイタリアでの公開が2009年、日本での劇場公開は2011年7月だ。原題の意味は「やればできるさ!」だそうだ。『死の棘』同様、実話に基づく作品である。イタリアでは1978年に精神病院の閉鎖病棟が廃止され、それまで入院していた患者を一般社会に戻した。戻れる人もいるだろうが、そうでない人もいる。戻れない人は協同組合という形で設立された組織に所属して、それぞれの能力に応じた形で労働に従事するのだという。その協同組合の一つがこの作品の舞台だ。

精神病院廃止という考え方の基本は、どの人間にも正気と狂気はあるのだから、社会は狂気も受け容れなければならない、ということだ。治療技術としては、患者が社会参加を通して心を解放していくというもの。たいへんな論争の末に精神病院廃止の法律が成立し、今日に至っている。イタリアにも、精神病は治ることはないのだから投薬で症状を安定させるのが最善という考えはある。現実は暗中模索だが、今のところ協同組合方式は定着しているそうだ。

今、手元にこの映画のプログラムがある。その中にイタリア語通訳の田丸公美子の文章がある。本作の本質を手短にまとめている。(本作プログラム 6-7頁)

イタリア人は当たり前のように言う。「イタリアで天才が生まれるのは、みんなどこかいかれているからさ。まあ、言ってみれば、国が巨大が精神病院みたいなものなんだ。隔離する必要はない」。他の人と違う個性を尊重する国民らしい感想だ。新体制推進のスローガンは、「よく見れば、みんなどこかアブノーマル」(Da vicino nessuno e normale)。「普通」という概念そのものに疑問を投げかける深い言葉だ。

映画は、次のような言葉がスクリーンに出て終わった。
"Oggi in Italia esistono oltre 2.500 cooperative sociali che danno lavoro a quasi 30.000 soci diversamente abili. (今、イタリアには2500以上の協同組合があり、ほぼ3万人に及ぶ異なる能力を持つ組合員に働く場を提供しています)"

"Malati mentali disabili (能力がない精神障害者)"の代わりに"soci diversamente abili (異なる能力を持つ組合員)"を見たとき、私は感動でしばし席を立てなかった。

こちらも「病」の話なのだが、観た後に自分の精神が強くなったような気がするのである。