熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2018年11月

2018年11月30日 | Weblog

司馬遼太郎『翔ぶが如く 第八巻~第十巻』文春文庫

物語は終盤。西南戦争の描写となるが、当然、司馬はそれを経験したわけではない。繰り返しになるが、これは小説だ。ただ、読んでいて、既視感を覚えるのは自分がこれまでにどこかで読んだり聞いたりした太平洋戦争の描写と重なるものがある所為ではないかと思う。私自身は戦争を経験していない。しかし、親や親戚のなかには兵士として出征したり、市井の民として空襲のなかを逃げ惑った経験がある、といった人が何人もいる。そういう人たちの話を聞くともなしに聞いて育った。聞けば興味を覚えることもあり自分から調べ物をしたようなこともある。そうして作られた自分のなかの戦争のイメージと本書の記述が妙に重なるのである。おそらく作者の司馬が学徒出陣で軍人として戦争を経験していることと濃厚に関係があるのだろう。特に薩軍の描写には自身の経験に拠るのではないかと思われる辛辣さを感じる。

戦争とか勝負事という、勝ち負けのある行為、勝ち負けという発想、というのは要するにデジタルだ。有無、0 or 1、ということである。デジタルの発想というのは数値化、理論化という点では言語や文化の違いを超越して伝達できるという点で有利である。故に所謂グローバル化にデジタルの発想は必須となる。本来的にデジタルなものを表現するのなら結構なことばかりだろうが、そうではないものを近似化したり、便宜的に様々な前提条件を与えてみたり、というような加工を施して「化」すると、理屈として聞いている分には面白がっているだけでよいのだが、生活にかかわるとなると思いもよらない結末に遭遇して当惑することになったりする。大政奉還以降の日本の歴史において、所謂近代化の過程というのはこうした当惑と迷走の累積という側面もあるのではないかと、本書を読みながら思った。

明治維新が何を「維新」したのか、ということを考えると、結局のところは上下関係という構造の大枠はそのままに、その中身の権力者を挿げ替えただけのように見える。廃刀令や廃藩置県といった施策で、それまでの権力者であった武士を葬り去ったものの、新たな支配階級である太政官が旧来の被支配階級を搾取するという構造はそのままであるように見えるのである。「年貢」が「税」になり、そこに兵役という用役負担を加え、五人組に象徴される相互監視による治安維持に代えて警察制度を導入するというような、施策上の変化はあるものの、自分の生活を「お上」に委ねるという精神の部分は急に変えることができる性質のものでもなく、今日に至るまで自分自身の思考よりも外部の権威に縋る姿勢にたいした変化はない、と思うのである。

西南戦争をはじめとする維新後の暴発がいずれも太政官に鎮静されてしまったのは、暴発の本質が維新の陣取り合戦でしかなく、太政官に対抗しうる新たな構造の提示ができなかったという側面もあろう。勿論、暴発不発の現実的原因は体制側と暴発側との物量と技量の格差というデジタルな話に落ち着かせることができる。しかし、その「数」を獲得できなかったのは、「数」を惹きつけるものが乏しかったということだ。

 

ローリー・リン・ドラモンド(著)、駒月雅子(訳)『あなたに不利な証拠として』ハヤカワ文庫

女性警察官を主人公にした短編小説集。作者も元警官だそうだ。普段はこういう本は読まないのだが、以前に読んだ山崎努の『柔らかな犀の角』で紹介されていて、Book Offで購入。

人を殺す、というとなんだか異常なことのように感じられるが、人というものに感情があって衝動があり、動機があって行動が起こるという当たり前の神経と身体のシステムのなかで当たり前に起こることだ。だから防衛のために武器を所持するのは当然と考えるのか、物騒なものは手元に置かないようにするべきと考えるのか。そこには人というものに対するその社会の考え方や信頼感の根源があるように思う。尤も、一般市民の武装を違法とするか合法とするか、ということを考えること自体が人に対する不信の表れとも言える。しかし、己を懐疑するのは理性のなせる業なので、そこまで問い始めると際限がなくなってしまう。

人を殺すことが特別なことではない、という前提に立ってしまうと、例えば本書のような作品は小説あるいは文学作品として成り立たなくなってしまう。たまたま本書の前に読了した『翔ぶが如く』では日本に警察制度が導入される事情について触れられていた。太政官という国家権力の下で統一国家というまとまりを維持しようとすれば、そこで暮らす人々の生活の隅々までその権力による統制が機能しなければならない。手段がどうあれ、集団を安定的に維持するには強制力による統制がなければならない、というのが歴史が示す現実ではないか。強制力を持って治安を維持しないことには、収拾がつかないのが人間というものらしい。つまり、文学とか日常の表層においては、人を殺すことは特別なことなのだが、実体としては放っておくと何をしでかすかわからないから強力な罰則を以て統制しないと維持できないのが人間の社会ということになる。とすると、表層と深層の間に何があるのだろうか。その乖離のなかでふわふわとしているのがフツーの人々ということなのだろうか。