熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2021年11月

2021年11月30日 | Weblog

内田百閒 『追懐の筆 百鬼園追悼文集』 中公文庫

内田がメディアに寄せた追悼文を集めたもの。誰かの依頼で書いたものなので、追悼する相手との面識があるとは限らない。本書で内田が追悼している相手は以下の通り。

 夏目漱石 師
 芥川龍之介 友人
 田山花袋 面識なし
 寺田寅彦 漱石門下
 鈴木三重吉 漱石門下
 太宰治 面識なし
 豊島与志雄 陸軍士官学校・法政大学同僚
 森田草平 漱石門下
 尾崎士郎 
 杉山元 面識なし 職務上の接触はあり
 三代目 柳家小さん 一観客として
 久米正雄 漱石門下
 宮城道雄 箏の師
 堀野寛 岡山時代の友人、妻の兄
 柴田豊 岡山時代の友人
 中野勝義 法政大学航空研究会 学生
 長野初 ドイツ語の個人授業の生徒
 片山敏彦 法政大学同僚 東大後輩

こうして並べてみると、師弟関係を軸にした弟弟関係とでも呼ぶべき横のつながりがあるように見える。もちろん、ここに収載された追悼文は文芸誌や新聞に掲載されたものなので、内田がそうしたところからの依頼を受けて書いたものだろう。それでも、宮城道雄や長野初の追悼文は故人への哀惜が溢れているように感じられ、生前の交流の暖かさのようなものが伝わってくる。いろいろな内田評があるが、根は優しい人だったと思う。

追悼文には俳句が添えられているものがある。内田の俳句も好きだ。

亀鳴くや夢は淋しき池の縁
亀鳴くや土手に赤松暮残り
(「亀鳴くや」『小説新潮』昭和二十六年四月)


入る月の波きれ雲に冴え返り
(「鶏蘇仏」『六高校友会誌』明治四十三年六月)

本書には「追悼句集」として俳句ばかり十句並べた章もあるが、文章の後に座った俳句の方が、文章も締まるし俳句も趣を増す気がする。

私が死んでも追悼とか追懐してくれる人はいないのだが、こういうものを読んでいると追悼文というのはいいものだと思う。自分で自分の追悼文を書いてみようか、などと思ってみたりもする。昨年から、旅行に出かけた時に旅先から自分宛に絵葉書を書いて投函しているのだが、これがなかなか楽しい。一泊一通を基本にしているので、今年も奈良と京都から都合3通出した。去年はまだ葉書に書く歌とか俳句を考えるのに四苦八苦していたが、今年はだいぶ手慣れてきた。

山田風太郎の『人間臨終図巻』で内田百閒のところを開いてみた。最後の作品となった随筆集『日没閉門』のことが書かれている。

 内田百閒が次第に痩せ衰え、起居も困難な状態になったのは、昭和四十二年春先からであった。最後の随筆集『日没閉門』は、夫人に背中から支えさせて書いたものである。
 かつて一劃もゆるがせにしなかった文字は、判読に苦しむほど乱れたものになった。
 そしてこの本の校正刷が出はじめたのは、昭和四十六年二月からであった。(山田風太郎『人間臨終図巻』徳間文庫 第四巻 217-218頁)

結局、見本が上がってきたのが死の翌日四月二十一日だったが、二十二日の出棺には間に合い、棺の中に収められた。この『日没閉門』を担当した編集者は新潮社の山高登だった。

自宅の門柱には、人を食ったように「日没閉門」と記した陶板が掛かっていた。山高さんはそれを最後の単行本のタイトルにした。「思い切って凝った造りにしましたが、わずかな時間差で間に合いませんでした」。(日本経済新聞夕刊「彼らの第4コーナー 内田百閒 下」2007年5月27日)

私が本を手にするのは、普段の生活の中でちょっとした引っ掛かりを感じて、そこから辿り着いたものを選ぶ。読み始めてその作者のことが気になり、同じ作者の本を続けて読むこともあるが、そうこうしているうちに別の引っ掛かりも出てくるので、結果としてはデタラメに読むことになる。それなのに、ここで山高登が登場すると、ちゃんと繋がるところは繋がっているのだと気づいて不思議な心持ちになる。

山高登は夏葉社の本を続けて読んだ時期に出会った名前だ。珍しく私が本はいいなぁと思った関口良雄の『昔日の客』に木版の挿絵を寄せたのは、新潮社を退職して版画家として活動していた山高だ。夏葉社からは『東京の編集者 山高登さんに話を聞く』という本が出ている。島田潤一郎氏によるインタビューをまとめた本で、ここに収められた写真や山高の版画がとてもいい。ここにも内田百閒のことが書かれている。

 昭和三○年代半ばには新潮社の出版部には八○人くらいいましたが、百閒さんのような気難しい先生はだれも担当したがらなかったんです。人が大嫌いでね。
 世の中に人の来るこそうるさけれ
 とは云うもののお前ではなし
 世の中に人の来るこそうれしけれ
 とは云うもののお前ではなし
って玄関のところに貼ってあるんですよ。「日没閉門」なんて書いてある表札みたいなものも掲げてあって。
 でも、ぼくはひねた人が好きですし、百閒さんは中学校のときから読んできた作家でもありますから、担当させてほしいといったんです。
(『東京の編集者 山高登さんに話を聞く』夏葉社 77-78頁)

山高は内田の葬儀に当然参列し、出棺には棺を担いだそうだ。最後まで担当者だ。『東京の編集者』には出棺の時の写真が載せてある。先日、内田が暮らした場所を見に行ったので、その写真を見て、あそこか、とすぐにわかった。本を読んでいると、読んだ本の間でのつながりが不意に現れてきて面白い。意識はしていなくても、人生も同じなのかもしれない。生きていて嫌なことは山ほどあるけれど、わずかばかりの面白さを頼りに今日も生きている。

 

内田百閒 『東京日記 他六篇』 岩波文庫

何かの対談記事だったか講演だったかで俵万智が歌は順番が大事だと語っていたのを思い出した。30とか50のまとまった数の歌を投稿したり、連歌を詠んだり、歌集を編むときのことだ。順番を変えることで全体も個々の歌も変わったものになるというのである。

「朝三暮四」は「目前の違いにばかりこだわって、同じ結果となるのに気がつかないこと」の意で用いられる言葉だが、「朝に三つ、暮れに四つ」と「朝に四つ、暮れに三つ」では大違いということが生活の中にはある。

音楽のアルバムがレコード盤だった時分には、曲順はとても大事だった。それは今でも、例えばコンサートでの演奏順とかMCのタイミングといったものにも言えることだろう。ビートルズの『サージェントペパー』が名盤とされるのはあの曲順でしか成立しないアルバムであるからで、『レットイットビー』が「名曲」が並んでいても「名盤」にならないのは、、、こういう話はやめておこう。

内田百閒を小説から入るか随筆から入るかで、内田という作家に対するイメージは全く違ったものになる気がする。私はたまたま最初に手にしたのが『大貧帳』で、戦中戦後の日記、追悼文と続いた後に小説を読んだ。今だから随筆から読み始めても結果は然程違わないかもしれないが、若い頃だったら全然違ったものになったかもしれない。随筆や日記を読んで形成された自分の中の「内田百閒」があり、その上で小説を読むと、何となく、この人ならこういう作品を書くだろうと納得する。また、そういう所為でこういう作品が愉快に感じられる。

今、思い出したのが司馬遼太郎で、江戸から明治にかけての実在の人物を主人公に据えた一連の作品は若い頃にワクワクしながら読んだ。そして「日本人」というのは大したものだと思い、そこに自分を重ねてみたりもした。しかし、随分ポンコツになった今になって同じ作品群を読んだとしても、娯楽作品としか思えないだろう。個人を「ヒーロー」っぽく描くとどれほど検証を重ねた上での作品であったとしても漫画にしか見えない。ただただ嘘臭さが鼻を突くだけになってしまう。

人との出会いも同じだろう。血縁というどうしようもないものは置いておくとして、知人友人との出会いには順の妙のようなものがある気がする。時間を巻き戻すことはできないので検証は無理だが、この順番で出会ったから助かったこともあれば、トンデモないことになってしまったこともあるだろうし、順番を変えても同じかなと思うようなこともあるだろう。しかし、考えてみれば、人との出会いとは自分の時間の使い方、生き方でもある。現実は一回こっきり。順番というものは変えられるようで変えられない。だから時々刻々真剣に生きなければならない、と今思った。同時に、手遅れだと悟った。

ところで本書のことだが、どの作品も誰にでもありそうな日常の、ちょっとしたところを膨らませたことで生じる奇異を描いている、とでも言ったら良いだろうか。人は誰でも少しオカシイのである。

 

内田百閒 『冥土・旅順入城式』 岩波文庫

『東京日記』の後に読んだので、どうということなく読了したが、いきなり本書を手にしていたら内田に対する印象は全く違ったものになったと思う。前にも書いたが、順番は大事だ。

奇譚ばかりなのだが、話の中身と長さのバランスが絶妙だと思う。奇譚ではあるが、誰にでもありそうなことを少しだけ奇怪な方に拡張した話とも言える。人が当たり前に持っている業が奇をもたらすのかもしれない。そうであるとすれば、フツーの生活というものは奇なるものと安らかなるものとの間のかなり危うい均衡の上に成り立っているということにもなる。

私にはわからないのだが、小説とは何なのだろう。『山高帽子』に登場する野口は明らかに芥川龍之介をモデルにしている。なぜそれがわかるかといえば、内田の『追懐の筆』の中に『山高帽子』とほぼ同じ記述があるからだ。もちろん、全ての創作に元ネタがあるわけではないだろうが、人は経験を超えて発想はできないと思う。時々刻々様々のことが生起する中で、創作の得意な人はその様々の中から常人の意表を突くような組み合わせや展開を創り出すことができる感性を持っているのだろう。

『件』は『変身』の百閒版のような話だ。内田はドイツ語の教師だったので、カフカの『変身』を読んでいたかもしれない。もちろんストーリーは違うが主人公が突然人ではないものに変わってしまうのは同じだ。突然、虫になる、身体が牛で顔が人という生き物になる、というと奇怪なようだが、突然、病に斃れる、事故に遭う、というのは当たり前にあることだ。昨日と同じ今日があって、今日と同じ明日がある、というのは決して「当然」のことではない。或る周期の組み合わせでこの世の物事が展開していくとするならば、突然の変異は確率としては小さいのかもしれない。しかし、確率というのは全体とか平均についてのことであって、個々に対してはあるかないか、起こるか起こらないかの二択だ。平均で自分のことを考えることに意味があるのだろうか。個人を平均で語って平気なのは保険の外交員くらいのものだろう。詭弁に騙されてはいけない。

『短夜』は異類譚。よく昔話に狸や狐が人に化ける、あるいは人を誑かすものがある。落語にもそういう話はたくさんある。或る噺家がそういう噺のマクラのなかで真面目な顔をして、「ほんとうは狐や狸は人に化けたんじゃないかと思うんですよ。でもね、人が横柄になって無茶ばかりするようになったから人を見限って、人に化けたり誑かしたりというようなことをやめてしまったんじゃないか、って時々思うんです」と語っていた。客席は微妙な雰囲気になったが、私はそれは本当なんじゃないかと思うのである。人は自己を序列の中に見出す。様々な尺度を考え出して大小優劣の序列を作って、その中に自分を位置付ける。それができないと不安に苛まれて落ち着いていられない。事実、社会の秩序は序列とセットにして成り立っている。そして、当然のように自分を、自分の属性を、序列の上の方に想定する。それが精神の安定には不可欠だ。狸や狐が人に化けたり誑かしたりするのはあってはならないことだ。なぜなら、生物の序列の中で、狸や狐は人間よりも劣位にあるとされているから。しかし、昔話の中ではそういうことがある。なぜだろう。

本書の収められている一つ一つの話に思うところはあるのだが、際限が無いのでこれくらいで止めておく。

 

内田百閒 『第一阿房列車』 新潮文庫

また内田百閒だ。この調子だと今年は内田で暮れる。以前、だいぶ若い頃、どこかの書店で立ち読みをした時には『阿房列車』をそれほど面白いとは思わなかった。今は自分が『阿房』執筆の頃の内田に近い年齢になったことと関係があるのかないのかわからないが、この本はいけないと思う。面白すぎる。人生の黄昏時を迎え、生きることに関する責任がほぼなくなった、何の役にも立っていない私如き境遇にある者にはこういう本を読んで笑い転げている特権があると確信している。無駄に齢を重ねた愚者だけに許される特権。書いている内田は作家先生なので、行く先々で周りの人々があれこれ世話を焼いてくれる。そこのところは書く側と読む側との間に越え難い深い溝がある。そんなことはどうでもいい。

旅行とか旅とか『阿房』の頃はたぶん今とは違う。人々の意識の中で「旅行」とか「旅」が占める位置が全然違っていたと思う。仕事や用事があっての移動を「旅行」とは呼ばない。旅行は時間と懐の余裕があってこそ楽しむことのできるものだ。その時間と懐具合は交通機関と交通も含めた社会インフラ、つまり世の中総体の経済力に依存する。たまに人生を旅に喩えるというようなことを書いたり言ったりする人がいるが、おめでたくて結構だ。そういう呑気な境遇におさまりたいものである。

1回目の阿房列車は1950年10月大阪への旅だった。本書の中に日時の記述は無いが、日本経済新聞の2007年5月13日付夕刊にある「彼らの第4コーナー 内田百閒 上」にそう書いてある。時に内田は61歳。不整脈の持病があるため内田は一人で長距離の移動はしなかった。阿房列車には旧知の国鉄職員で内田のファンでもある平山三郎氏が同行する。『阿房列車』はこの平山氏の存在抜きには成り立たない。人あるいは物語というものは、人と人との縁とか関係性を抜きにしては存在し得ないということがよくわかる。そして、今の自分に欠けているのがそういう縁だということも痛感させられる。もちろん、こうして社会生活を営んでいるのだから何がしかの縁はある。しかし、それは今にも切れそうな危うい縁ばかりだ。おそらく自分は孤独死するのだろう、と薄々感じている。尤も、今の世間の圧倒的大多数は似たようなものだろう。

本書を読みながら考えたこと、というよりも思いついたことはたくさんある。その切掛となった記述のいくつかを引用しておく。何を考えたかという事の詳細についてはそのうち別に書くかもしれない。

用事がないのに出かけるのだから、三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。私は五十になった時分から、これからは一等でなければ乗らないときめた。そうきめても、お金がなくて用事が出来れば止むを得ないから、三等に乗るかもしれない。しかしどっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。二等に乗っている人の顔附は嫌いである。(7頁)

その後、国鉄の優等列車の編成は普通車とグリーン車とに変更された。ざっくりと言えば、普通車が『阿房』の時代の三等車でグリーンが二等車だ。但し、当時の二等と三等との価格差は今の普通とグリーンよりも大きい。かなり平準化した上での等級差になった。何より「普通車」という言い方がいかにもな感じがする。戦後の民主化のなかで所謂「特権」的なるもの、そうしたものを想起させるものが廃止されたのである。近頃は「格差社会」などと喧伝する向きもあるが、いまだにJRの特急列車は普通とグリーン、たまにグランクラスとなっている。それだけ世の中に「民主化」が定着したということなのかどうかはわからないが、少なくとも、誰もがこうしてあたり構わず好き勝手なことを公衆通信回線に垂れ流していられるくらいに「民主的」な世界であることは確かだ。

『大貧帳』に借金のことが縷縷記されていたが、阿房列車も費用は借金で賄っている。尤も、貸す方は返済への期待があればこそ貸すのである。それくらいの作家なのだが、それでも借銭のやり取りは愉快だ。

色色と空想の上に心を馳せて気を遣ったが、まだ旅費の見当がついていない。いい折を見て、心当たりに当たってみた。
「大阪へ行って来ようと思うのですが」
「それはそれは」
「それに就いてです」
「急な御用ですか」
「用事はありませんけれど、行って来ようと思うのですが」
「御逗留ですか」
「いや、すぐ帰ります。事によったら著いた晩の夜行ですぐに帰って来ます」
「事によったらと仰ると」
「旅費の都合です。お金が十分なら帰って来ます。足りなそうなら一晩ぐらい泊まってもいいです」
「解りませんな」
「いや、それでよく解っているのです。慎重な考慮の結果ですから」
「ほう」
「それで、お金を貸して下さいませんか」
(13-14頁)

1950年と言えば敗戦から5年しか経っていない。愉快なエッセイだが、戦争の残影のようなものは散見できる。

れそれからからは毎晩、お膳の後で汽車の時刻表を眺めて夜を更かした。眺めると云うより読み耽るのである。ヒマラヤ山それから系が新しく改正になったのをくれたので、急行列車等の時間の工夫が大体戦前の鉄道全盛当時に近くなって居り、くしゃくしゃに詰まった時刻時刻の数字を見ているだけで感興が尽きない。こまかい数字にじっと見入った儘で午前三時を過ぎ、あわてて寝た晩もある。(17頁)

私は支那蕎麦に余り馴染みはない。しかし山系君の好物である。だから旅は道連れの仁義からおつき合いする。先年彼の地から帰って来た者に、本場の支那蕎麦はどうだと尋ねた。あちらにこんな物はありません。支那蕎麦の本場は新橋の烏森の辺りでしょうと云った。山系君も兵隊で行って、北京を知っている。そちらが本場でないとすれば、帰って来てからラアメンを啜って曾遊を忍ぶと云うのも筋違いである。(250頁)

やはり平和、平穏に勝るものはないと思う。もちろん私自身は戦争とかそれに類することの経験はない。特にどうというほどのこともない59年を過ごした。ここ直近で感染症騒動もあったが、流行病というのはいつの時代にもあることだ。そういうことを勘案しても、やはりどうというほどのことではない。ありがたい時代を生きることができた。と過去形で書くと、まるですぐにも死ぬような風だが、もう死んだも同然なので、やはりありがたい。

うだうだと長くなったついでに、内田の魅力が存分に表出していると思った箇所を引用して本稿を終わる。「区間阿房列車」で東京から御殿場線経由で沼津へ向かう途中、国府津で御殿場線に乗り損なう場面だ。

 歩廊の上に、今著いた汽車から降りた人が散らばっている。箒を持った駅員に、御殿場線の乗り換えは、あれかと山系が尋ねた。山系が指差した線路の向こうの歩廊に、五六輛連結の短かい列車が停まっている。
「乗り換えですか。早く早く、この列車は遅れて著いたけれど、あっちのは、それを待っていないから、すぐ出ますから早く早く」と駅員が云った。
 そんな馬鹿な事があるものかと思いながら、むっとして歩き出した。
 ヒマラヤ山が気を揉んで、走りましょうかと云うから、いやだと云った。
 抱えている外套を持ってやろうと云ったけれど、いいと云って渡さなかった。私を身軽にして、どたどたしているおやじを、少しでも早く連れて行きたいと云うつもりなのは解っているが、接続する列車が、前の遅れた分を無視して発車すると云う法があるものかと考えているので、ヒマラヤ山系の焦燥に同じない。それで山系はあきらめて、私を同じ歩調で歩いている。
 しかし、私だって、遅れてもいいつもりで、ふらりふらり行っているわけではない。走り出すのはいやな事だが、出来るだけ足を早めて歩廊を急いだ。歩廊の突き当りに地下道へ這入る階段がある。降りかけると、後から走って来て、私達を追い越す人もあった。
 地下道を通り、向こうの歩廊に出る階段を五六段上がった所で、もう一寸でその歩廊に出ると云う所で、頭の上あたりにいた機関車が、ぼうっと云う、汽船の汽笛の様な調子で、発車の汽笛を鳴らした。
「あっ、発車する」と思ったら、階段の途中で一層むっとした。
 その音を聞いて、あわてて階段の残りを駆け登るのはいやである。人がまだその歩廊へ行き著かない内に、発車の汽笛を鳴らしたのが気に食わない。勝手に出ろとは思わない。乗り遅れては困るのだが、向こうが悪いのだから、こちらに不利であっても、向こうの間違った処置に迎合するわけには行き兼ねる。
 歩廊に出たら、その列車は動き出している。まだ徐行だが、歩廊の縁をすうと辷っている。階段を上がり切った所の前は荷物車だけれどもデッキがある。乗れば乗れない事もないが、荷物車に乗らなければならない因縁もないし、何よりも動き出している汽車に乗ってはいけない。乗ろうと考えてもいけない。昔からそう云う風に鉄道なり駅なりから、しつけられている。山系は曖昧だったが、私が乗ろうとしないので、あきらめた様である。
 動き出しているけれど、余り速くはならない。その時階段を駆け上がって来た男が、私達の後を走り抜けて、中程の車のデッキに飛びついた。自分の事を忘れて、見ていてはらはらした。前部の方では、その男と同時に階段を上がって来たらしい女の人を、助役と駅務掛と二人がかりで、動き出しているデッキに押し上げた。そこへ又一人、上がって来たのか、前からいてうろうろしていたのか知らないが、まだ乗らずにいるのを、その時はもう男だか女だか解らなかったが、助役が荷物車のデッキに押し上げた。
 気がついて見ると、機関車から機関士らしいのが半身乗り出して、こっちを見ている。歩廊の様子を見、助役の相図を待って、徐行を続けているらしい。列車の最後部の歩廊に起っていた駅員がこっちを向き、機関車の近くにいたもう一人の助役がそっちを見て、それから半身乗り出している機関士に相図したら、機関士が身体を引っ込めて、目の前にのろのろしていた列車が急に速く走り出した。
 最後部が行ってしまったので、私共の前が豁然と明るく広くなった。何となく目がぱちぱちする様な気持である。考えて見ると、面白くない。考えて見なくても面白くないにきまっているのだが、こう云う目に遭うと、後でその事を一応反芻して見た上でないと、自分の不愉快に纏まりがつかない。
「仕方ない」と私が云った。「ベンチにでも掛けようか」
 だれもいない歩廊の中程にあるベンチに二人で腰を下ろした。
「前の列車の、もっと前部の車に乗っていたら、間に合ったのですね」とヒマラヤ山が云った。
 それはそうだけれど、そんな事で間に合いたくない。だれが間に合ってやるものかと云う気持である。
 暫くだまっていた。股の間に立てたステッキに頤を乗せて、向うの何でもない所を見つめて考えた。段段に不愉快がはっきりして来る。
「行って、そう云ってこようか」
 ベンチから起ち上がって、歩廊の端に近い所にある駅長事務室へ歩いて行った。一緒に来た山系に向かって、私が云った。
「何か云う事があるなら、今頃になって、少し気が抜けてから云いに行くよりは、さっき汽車が本当に動き出して、歩廊を離れかけた時、あの時はまだ助役が二人共そこに起っていたのだから、そこで、なぜ汽車を出したかと云えばよかったのだけれどね」
 そうすれば、後から駅長事務室へ出頭して文句を云うより、どれだけ適切だったか知れない。それは前からわかっているのだが、しかし私には第一に戦闘的精神が欠如している。腹が立つ時には立つのだが、それを人に向かってぶつけると云う気魄に乏しい。次に、そうでありながら、又こんな事も考える。こちらに理があって相手に迫る場合、相手をのっぴきならぬ条件に置いて責めるのは、君子の、或いは紳士の為す可き事でない。兎に角自分を優位に置いて考える事の出来る側の為す可き事でない。為すをいさぎよしとせざる所である。だから私はそうしなかったと考える。今の事で云えば、私と山系と二人の乗客を歩廊に残して、汽車が動き出した時、まだその場を立ち去らない二人の助役をつかまえて面詰すれば、こちらの云う事に理のある限り、先方には逃げ道がない。逃げ道をなくしておいて責めては可哀想だと云う優越感がある。同時に、逃げ道がないから歯向かって来たら厄介だと云う警戒心も働く。口論や喧嘩で歯向かわれても、
「そうでしたか、相済見ません、一寸お待ち下さい」と助役が云って、機関車に相図し、動き出している汽車を停めて、「さあどうぞお召し下さい」と云う事になれば、「御手数でした」と澄まして乗れるものではない。そんな羽目になったら、理がありながら、こちらの敗北である。(85-89頁)

この引用部分の後半に、私は深く感心した。

 

内田百閒 『第二阿房列車』 新潮文庫

ざっくりと『第一』の二、三年後のようだ。やはり国鉄現役職員の平山氏が同道しているが、職務だったのだろうか。本文の中でチラリと「休暇を取って」と書いてあるが、本当だろうか。こういう仕事なら私もしてみたい。そういう余計なことが気になる質だ。

気のせいかもしれないが、『第一』に比べると、本書の方が紀行文風な第一印象がある。そもそも『阿房列車』は「小説新潮」の連載で、それがある程度まとまったところで三笠書房から単行本として順次刊行され、さらにそれがこの新潮文庫版で現在流通しているのである。だから、連載が進むに従ってスタイルに多少の変化が生じるのは当然で、その変化をある程度の期間で区切っているので『第一』と『第二』の印象が変わることに何の不思議もない。また、読む側も『第一』を読んだ上で、何がしかの先入観を持って『第二』を手にするので、たとえ書き手の側に心境の変化がなくても、違った受け取り方をすることにやはり何の不思議もない。さらに、時間の経過とともに国鉄の列車の方も変化する。蒸気機関車による牽引だったのが電気機関車になるとか、編成が変わるとか、それだけでも乗る側の印象はだいぶ違う。

ついでに言えば、機関車が牽引する場合、殊に蒸気機関車が牽引する場合、出発した時の初速がかなりゆっくりだ。いきなり60km/hとか80km/hとかにはならず、しかも、例えば東海道本線なら東京を出れば新橋、品川、と比較的短い距離で次の駅に停車するので、乗る側の気持ちが旅モードというか、勝手な盛り上がりというか、今の新幹線での移動とはちょっと違う気がするのである。

少なくとも、駅の雰囲気は当時と今とでは全く違うはずだ。『第二』の表紙のカバーは駅のホームにある水場で内田が鏡を見ながら頭に手をやっている写真だ。かなり大きな流し台だが、私が中学生くらいまでは、東京とか上野のような長距離列車のターミナル駅にはこういう大きな水場があった。蒸気機関車が旅客列車を牽引していた時代は、煤で顔や身体が汚れるので、ホームに水場が必要だったのである。もちろん、私が中学生の頃には既に蒸気機関車は引退して随分経過していたが、ホームの設備には名残があった。あと、けっこう最近まで赤帽と呼ばれる荷物運びの人たちがいた。私自身は利用したことはないが、幾許かの手数料を支払って手荷物を運んでもらい、身軽に駅構内を移動できるようにするのである。そんなこんなで駅とか鉄道まわりの風景が『阿房列車』と今とではだいぶ違うことは、やはり頭に入れた上で読まないといけないと思う。駅の風景の変化は旅とか旅行にまつわる意識の変化と無縁ではない。今の鉄道風景しか思い浮かべることができないままに本書を読み進めるというのは、勿体無いというか、寂しいというか、貧しいことのように思うのである。

そういう意味では、見出写真に電車というのも、ちょっとナンだとは思う。しかし、機関車牽引の列車にはなかなかお目にかかることのできない時代になってしまったのだから仕方がない。ちなみに、この写真は信越本線柏崎駅に停車中の115系。右に越後線のE129系が見えている。撮影日は2019年8月10日。現在は信越本線の主力はE129系だ。妻の実家に出かける時、東京から新幹線で長岡に行き、信越本線に乗り換えて柏崎駅で下車する。他に、越後湯沢で上越線経由でほくほく線に入り、犀潟で信越本線に乗り換えて柏崎というルートもあるし、新幹線で燕三条まで行って弥彦線に乗り換え、さらに吉田で越後線に乗り換えて柏崎というルートもある。乗り換えの便とか全体の所要時間から最も一般的な経路は長岡乗り換え信越本線なのだが、信越本線の方が以前に比べると本数が減り、列車の編成が短くなった。それで、以前に比べると少しずつ不便になっている。

国鉄が赤字になったのは東海道新幹線が開業した昭和39年のことらしい。それが累積して民営化を招き、民営化によって不採算路線が次々に廃止され、今日に至っている。分割民営化後の旧国鉄の鉄道会社のうち東日本、東海、西日本、九州は株式の公開を果たしたが、北海道、四国、貨物の上場は無理だろう。北海道と四国は会社の存続そのものが困難な状況にあると思う。かつて鉄道網は軍事とも関連して日本国内の津々浦々まで張り巡らされ、国家が直接管理運営した。鉄道省という役所があり、戦後も日本国有鉄道として水道光熱と同様の社会基盤を担った。しかし、それは国家が成長というベクトルで運営されていた時代のことであり、少子高齢化で国内至る所に「限界集落」と呼ばれる消滅方向のベクトルを有した地域を抱える時代には、それまでとは違った鉄道のあり方が模索される。人口が減るのに鉄道を維持することはできない。国の管理下にあれば、人口が減らない工夫も含めて鉄道の維持開発が行われるべきだが、民間企業なら会社の存続が基本で、そのために不採算路線を廃止することに何の不合理もない。ましてや株式を公開し多くの利害関係者を抱えるとなると、会社は利益を計上して株主に配当や株価上昇というリターンをもたらす経営責任を負う。むしろ積極的に不採算路線を整理しなければならない。同じことは他の民営化事業にも言えることであって鉄道だけの話ではない。いわば、公益事業の民営化は国家の終活の一環でもある。

終活といえば、生きるとはどういうことなのか、奇しくも感染症の世界的かつ爆発的流行は人類に問いかけたと見ることもできようが、結局は感染がどうのワクチンがどうの予防がどうのと目先だけの薄っぺらな議論に終始して、むしろ人間抜きで物事を進める方向へ踏み出したかのような印象がある。ソーシャルディスタンスとか、リモートナントカとか、人間同士が膝突き合わせることなく事が済んでしまう状況がたくさんあることが判明した。結局、我々の今の暮らしはそういう暮らしなのである。目に見えないウイルスさんたちが人間の孤独と浅はかさを教えてくれた格好だ。

生身の人間同士の交流なくして「人間」とは何なのか。人と人との「間」がないから単に「人」だ。「人」は「ヒト」、つまり単に生き物、畜生と同じ。そういう言い方をすると畜生には失礼だ。そういう意図ではなくて、人もそれ以外の生き物も皆結局は同じであって、生物進化の頂点が「人間」だ、という思い上がりが木っ端微塵に打ち砕かれた、と言いたかっただけだ。人間もフツーの生き物だったというだけのことだ。

結局、本書の中身については何も書かなかったが、『第三』を読んだ後にまとめて何か書くかもしれない。