熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2018年10月

2018年10月31日 | Weblog

司馬遼太郎『翔ぶが如く 第四巻~第七巻』文春文庫

人は経験を超えて発想できない。300年近い幕藩体制のなかで生きてきた人々が、その体制を崩してみたところで、改めて作り上げるのは結局のところ崩したはずの幕藩体制と然して変わらないものものであるような気がする。人に上下貴賤を付け、そのなかで無邪気に陣取り合戦をして勝ち組だの負け組だのと驕ってみたり卑下してみたりする。その土俵から一歩退いてみれば馬鹿馬鹿しいことでしかないのだが、土俵にあるとそれが世界の全てであるかのような気分になってしまう。人というのは哀しくも馬鹿馬鹿しい生き物だ。

最初に本書を読んだのがいつのことだったか記憶にないが、『菜の花の沖』が大学の入ゼミ試験の課題図書であったと記憶しているので、少なくとも大学2年のときには読んだはずだ。しかし、本書や『坂の上の雲』といった長編は社会人になってから手にしたような気がする。初めて読んだときにはそれなりに感心して読んだ、と思う。人生の黄昏時になって改めて読んでみると、なんだかしょうもない話のようにしか思えない。人の社会というものがそういうものでしかないということなのだろう。


なぜ吉野

2018年10月07日 | Weblog

大和八木駅前でレンタカーを借りて吉野へ行く。車を借りる一連の手続きのなかで、レンタカー事務所の人が吉野に行くなら天川村にも足を延ばすといいと勧めてくれたので、まずは天河大辨財天へ向かうことにした。

道は山の中へ山の中へと続くのだが、その割に交通量がほどほどにあって、山道を往く不安のようなものは感じさせない。そうこうするうちに天河大辨財天社に到着。境内の駐車場はそれほど大きくないが、難なく駐車できた。その後で、バスで団体客が乗り付けてきて、あっという間に駐車場は一杯になった。そういう神社なので、車がないと不便な立地の割には境内は賑やかだ。参拝する人が多いということで社の整備も行き届いている。伊勢神宮のように決まった周期で建て替えが行われるところもあるくらいだが、そもそも神社というのは毎年のように境内を新しいものにしたはずだ。その名残がお札やお守りのお焚き上げだろう。しかし、現実には老朽箇所の補修すらままならないところが多く、やむを得ず古い社を大事に使っているということなのだと理解している。天河大辨財天は鳥居も比較的新しく、社殿は1989年に立て替えたそうだ。縁起によれば7世紀に役行者が活動の拠点とし、空海がここで修行の後に高野山で真言宗を築いたとある。南北朝のときには、後村上天皇が一時期身を寄せ、その宮殿跡の石碑が境内を少し外れたところにある。

このあたりは霊場なので、ほんとうは車で来るようなところではないのだが、山道を対向車が来ないことを祈りながら慎重に運転する。1時間ほどで吉野だ。とりあえず金峰山寺近くの民営駐車場に車を置いて、昼ご飯の食べられそうなところを探す。葛の専門店があり、店の人が講釈をしながら葛餅とか葛切りを出している。予約制で、1時間半ほどの待ち時間で頂くことができるとのことだったので、予約をする。ちょうど近くの吉水神社にお参りするのによい時間。

吉水神社は吉野山を統率する修験宗の僧坊だった。後醍醐天皇の皇居だったことから明治の神仏分離で吉水神社と改められたという。祭神は後醍醐天皇、その忠臣であった楠木正成と吉水院宗信法印を合祀。南朝の皇居もそうだが、こんな山の中にどうして、と思うようなものがたくさんある。後醍醐天皇の後の時代では秀吉が花見にやって来たという千本桜を一目に見渡すことのできる絶景スポットとしても有名な場所だ。

ソメイヨシノが江戸時代に造られた品種であることは、以前に染井の近所で暮らしていたのでよく知っているが、桜を愛でるようになったのはいつからなのだろうか?例えば、俳句で「花」といえば桜を指すことが多いらしい。ソメイヨシノだけでなく園芸種としての桜が数多く造られたのが江戸時代だそうだ。あの花とこの花を交配してみよう、という発想の背景として、「あの花」も「この花」も当たり前に存在しているはずなので、少なくとも江戸時代以前に数多くの品種があって、桜の花を鑑賞する文化が存在していたと考えるべきだろう。桜は平安時代の国風文化勃興の中で人気が上昇したそうだが、それほどこの国で愛されるようになったのは何故だろう?

今回は訪れなかったがが吉野には宮滝遺跡がある。飛鳥時代の離宮である吉野宮があった場所とされ、後醍醐天皇よりもずっと昔から都人が行ったり来たりしていたらしい。都人の「都」は平城京以前のちょいちょい移転していた頃の時代からだ。吉野宮にまつわる歌は万葉集にいくつも収載されているくらいなので、おそらく今の風景とは違った色彩を帯びていただろう。やっぱり、そのあたりの感覚は車で来たのでは絶対にわからない。かといって、飛鳥あたりから歩いてくる気力も体力ももうない。尤も、わからなくて一向に差し支えないし、歩いてみたところで私如きには何も発想など湧かないだろう。

葛の専門店では、御主人が葛の説明から始める。客は説明を聞きながら葛餅や葛切りが出来上がるところを見物するのだが、主人は一方的に説明をするのではなく、ときどき葛にまつわる質問を我々に投げかけてくる。私を含め、他の客も沈黙してしまうのだが、妻にとっては当たり前のことばかりのようで、ホイホイと答えて主人のほうが言葉に詰まったりする。説明が終わり作業にとりかかると程無く葛切りと葛餅ができあがる。あたたかいうちに食べる。本来はそういうものらしい。砂糖を加えたりしていないのに、適度な甘さがあって、腹に素直に収まる印象だ。葛だけで必要な栄養が摂れるとは思えないが、自然に身体に取り込まれるような食事をしていると、健康には良い気がする。

金峯山寺は南大門が改修工事中。例の青くて大きな蔵王権現は原則秘仏なので拝むことは能わず。それでも、参拝できたことに安堵のような喜びのような感情が湧いてくる。神社仏閣というのは不思議なもので、知名度と参拝したときに感じるものとの間に相関がない。有名だからありがたいとは思わないし、たまたま通りかかってお参りしたのに、良いところに出会えたと嬉しくなることがある。ここの塔頭で脳天大神というところがある。お参りすると頭が良くなりそうな名前なので、境内の矢印に従って行ってみると果てしない階段を下りていくことになる。或る程度まで下りたところで帰りの登りが気になり始める。しかし、そこで引き返すと却って中途半端なことになるので覚悟を決めて階段を下り続ける。おそらく、この「覚悟を決める」というのは大事なことなのだろう。信心を試されているかのようだ。尤も、信心に関係なく「せっかくここまで来たのだから」というセコな気持ちで参詣することだってあるだろう。齢を重ねて体力気力が衰えると、信心よりも「せっかく」のほうが行動の動機として強くなったりする。

金峰山寺のお参りを終えて、車で吉野の山を下り始める。吉野神宮にも参詣する。ここは明治に創立された新しい神社だ。新しい神社仏閣というのは、どうしても取ってつけた感が否めない。あと数百年すれば、ここも有難みが出てくるのだろうか。

車を返却する時間まで余裕があったので、昨年行きそびれてしまった岡寺に参詣して奈良へ戻る。

夕食は東向商店街にあるクラフトビールの店に行く。イギリスのパブのような雰囲気で、外人客が多い。パブとは違って注文はフロア担当の店員にお願いする。ビールのお店で食事はおつまみ程度なのだが、料理はちゃんと旨い。


本当のことは誰も知らない

2018年10月06日 | Weblog

台風25号が接近している所為なのか、宿の部屋から見える雲がなんだか凄い。幸い、雨のほうはたいしたこともないうちにJR奈良駅に着いた。関西本線に乗って郡山で下車。このときは雨は降っていなかったが、近鉄郡山駅への一本道を歩いていると薬園八幡のあたりで降り出した。けっこうな雨脚だ。薬園八幡にお参りをして、なおも雨降りしきるなかを近鉄の駅へ向かう。新紺屋町の信号を過ぎ、最初の細い路地に源九郎稲荷の参道を示す幟や看板が並んでいる。せっかくなので参道に入る。正面に門が見えたが、鉄の格子のような門は閉じられている。参道の看板や幟を掲げておいてそれはないだろうと思いつつ、門のほうに向かって歩いていくと門の左に神社が見えてきてほっとする。

芝居というものに疎いので「源九郎」だの「狐忠信」だのと言われても全くピンとこないのだが、『義経千本桜』という人形浄瑠璃とか歌舞伎の演目があって、そこに登場する「狐忠信」というのがこの源九郎稲荷の化身なのだそうだ。そんなわけで、芝居好きの人たちがここにお参りに来るのだそうだ。雨がひどくなったので、ここの宮司さんと思しき人に勧められるままに社務所兼住居の玄関の中に入れていただいて、いろいろ興味深いお話を伺った。旅行をしていて楽しいと思うのは、こうしてたまたま通りかかったり出会ったりした人から話を伺ったり、思いもよらぬことに感心したりする機会に恵まれることだ。30分ほど話し込んだあたりで陽がさしてきて、雨が上がった。源九郎稲荷を後にして近鉄郡山駅へ向かう。

近鉄で終点の橿原神宮前駅で下車。駅舎は立派だし、駅前のロータリーはよく手入れされていて、客待ちのタクシーの列もある。ところが、人影が殆どないのである。土曜の昼間、台風接近で不要不急の外出を避けている人が多いかもしれないという事情はあるだろう。ここまで乗ってきた電車にはそれなりの人の数があったが、みんなどこへ行ってしまったのだろう?

橿原神宮の『由緒略記』の「はじめに」には
橿原神宮は、九州高千穂から御東遷され、畝傍山の東南の麓、橿原宮にて即位された第一代神武天皇を、その建国の聖地でお祀り申し上げております。
とある。えらく古い話なのだが、橿原神宮の創建は明治23(1890)年と比較的新しい。「新しい」というのは私の主観だが、ウィキペディアを見たら、この年にはこんな人たちが生まれている。

古今亭志ん生は「昭和の名人」と呼ばれる噺家の一人だ。カーネル・サンダースは今でも街角で見かけるし、大野伴睦は東海道新幹線に岐阜羽島という誰が利用するのかよくわからない駅を設置せしめた功労者で、東山千恵子は名画「東京物語」で笠智衆と夫婦役をつとめていた。笠智衆は寅さんで柴又帝釈天の御前様だ。同世代の生身の人々を並べてみると、1890年創建というのは、そう古い話ではないと感じるのである。

昭和15(1940)年には拡張整備が行われ、現在の一の鳥居から続く森のような参道はこのときに造営されたものだそうだ。境内は整然としていて、確かに別世界のようである。手水舎で身を清め南神門をくぐると、社殿と背後の畝傍山との配置の妙に感心させられる。

境内に長坂稲荷があり、小さな参道に朱い鳥居が立ち並ぶ。どこぞに有象無象が群がる似たような御稲荷様があるが、こちらは人影少なく落ち着いたものだ。境内が賑わうというのは結構なことなのだろうが、参拝する立場からすれば、静かな境内のほうが有り難い気がする。

一旦宿に戻って一服して、興福寺へ向かう。通常なら東金堂前の特設舞台で奉納される塔影能だが、今日は台風25号が近畿地方に接近するという天気予報のため、既に設置の終わっていた特設舞台を片付けて文化会館で行われることになったとの掲示が出ている。台風接近ということよりも、本当のところは、この時期としてはかなり暑い30度を超える気温の所為ではないだろうか。日没後の開催とは言え、暑いなかでの野外能というのは演じる方も観る側も辛いものがある。空調のある屋内のほうが誰にとっても有り難いだろう。

塔影能の後は、今年も香音で晩御飯をいただく。興福寺からの距離とか料理の内容とか諸々が我々夫婦にはちょうどよいのである。年に一度しか訪れないのに厚かましい願いとは承知しつつも、この店はいつまでも続いて欲しい。

 


奈良 今度こそ正倉院

2018年10月05日 | Weblog

今年も興福寺の塔影能を観に来た。今年は正倉院を見ようと思い、仕事を休んで平日にやってきた。正倉院は内部を見ることはできない。外から建物を眺めるだけだ。それほど興味があったわけではなかったのだが、近くを通りかかるのが週末ばかりで見ることのできないことが過去3年4回連続するに及んで、眺めてみたいという気持ちが高まった。それで今回は奈良に着いて、宿に荷物を預けてまず正倉院を訪れた。尤も、動線の関係で途中で戒壇院に立ち寄り、続いてたまたま勧進所内の惣持院で特別公開されていた僧形八幡神坐像と公慶堂で公開されていた公慶上人像を拝観する。戒壇院は必ず参詣するのだが、勧進所の門が開いているところに遭遇するのは初めてだ。さらにたまたま僧形八幡神坐像へ向かう宮司の団体にも遭遇する。寺なので合掌するのかと思ったら、僧形ではあっても八幡神だからなのか、立場上そうせざるを得ないのか、二礼二拍手一礼だった。

正倉院は思っていたよりも大きい。校倉造の建物は規模の大きな寺社の境内にはたまにあるのだが、そんな生易しいものではなかった。現在は収蔵品が別の場所に移されて内部は空らしいのだが、一見したところは十分現役の収蔵庫として機能しそうな雰囲気を漂わせていた。倉庫といっても単に文物を収蔵するだけでなく、行事などの必要に応じてそれらの出し入れがあったはずだ。つまり、内部は整理整頓が行き届いていたはずなので、その整いかたや収蔵品の出し入れの仕組みも是非観てみたいと思う。現存するのは一棟だが、これが数棟並んでいたらしい。となると、収蔵品の管理もかなり大がかりな仕組みがあったと思われる。搬送装置類や在庫管理システムがどのようなものであったのだろうか?

盆に妻の実家に帰省した折、敷地の一画にある工場の内部を眺めていたら天井近くの隅に木製の滑車があるの気付き、下してもらって見せてもらった。久しく使われていないので、どれほどの耐荷重があるのかわからないとのことだった。正倉院が現役であった時代の物流も、物の材質こそ今とは違え、仕組みとか考え方は案外同じようなものだったのかもしれない。今なら樹脂や金属でできた機器類がどのような材質でどのような工夫で造られているのか。今なら電動モーターで動かす装置がどのような動力で稼働していたのか。今ならコンピューターで管理されているようなことが、どのような方法で管理されていたのか。

この後、二月堂、法華堂(三月堂)、三昧堂(四月堂)とお参りする。二月堂とその周辺は3月にお水取りで訪れた。お水取りの井戸のある建物に飾られた注連縄はすっかり干乾びてしまっていたが、そのことがお水取りという行事の尊さを示しているとも言える。先日、国立劇場で人形浄瑠璃文楽「南都二月堂 良弁杉由来」を観たこともあり、改めて良弁杉の前に立って見上げてみる。二月堂の回廊に上がりお参りをして、四月堂に上がってご本尊の十一面観音を拝む。この観音様は二月堂から移されたそうだが、二月堂の前は桃尾寺のご本尊だったという。同寺の廃寺で二月堂に移されたのだそうだ。四月堂の旧ご本尊は千手観音だが、こちらは東大寺ミュージアムにおられる。

今日は新薬師寺に参詣するつもりで、東大寺から南へ向かうが、間にある春日大社を素通りするというのもなんなので、参拝する。春日大社の起こりは鹿島神宮、香取神宮、枚岡神社から神様を勧請して祀ったことに拠るのだそうだ。関東で生まれ育った身としては、日本の起源のような大和の地の由緒ある神社が鹿島とか香取とか当時としては最果ての地から神を呼んでくるという話でありがたいと思われるのか不思議ではある。実は、今年の5月の連休に鹿島神宮と香取神宮に参拝してきた。香取神宮裏手には小さな古墳がいくつかあり、古い土地であることはわかるのだが、そういうところを参拝したり歩き回ったところで何かを点頭できるほどの知性も感性も残念ながら持ち合わせていない。今度は枚岡神社に行ってみることにする。

二之鳥居のすぐ外側から中の禰宜道へ入り、道標に従っていくと新薬師寺に出る。途中、不空院の前を通るが、今は一般公開はされていないようだ。

新薬師寺は薬師寺とはちがってこじんまりとしたところだ。門前で住宅の建設工事が行われている。門の真ん前に一般の住宅が建てられてしまうほどに、こじんまりとしている。創建当初は大きかったらしい。南都十大寺に数えられるほどの規模だったという。それが落雷による火災、台風による倒壊などで荒廃したのだそうだ。現在の本堂は創建時に境内の隅のほうにあった仏堂だ。あっさりとした構造で、内部には本尊の薬師如来坐像とそれを円形に取り囲む十二神将像だけ。仏像を密集させるように安置する寺も少なくないが、仏教では数がものをいうとはいえ、参拝するものを圧倒するかのような了見はいただけない。こういう静かな間、仏と対面対談するかのような空間でこそ心ある人は何事かを感じ取るのではないか。よい寺よい仏に出会えたと嬉しい気分になる。

新薬師寺南門に隣接するように鏡神社がある。夕方で、社務所を閉めているところだった。特に述べることはない。

不空院の前の道を通って市街を目指す。ほうじ茶の良い香りのする家がある。門のところに看板が出ていて販売をしているらしい。門をくぐると玄関が開いたままになっている。中に声をかけると家の人がでてきてお茶の説明をしてくれた。一包いただく。この家は今はほうじ茶の販売だけだが、もとは茶粥屋を営んでいたのだそうだ。奈良の茶粥といえば名物のようなもので、宿でも朝食は茶粥というところを見かけるしそういうところに泊まったこともある。どういう縁起があって茶粥なのか知らないが、やさしい味わいで、私は好きだ。

春日大社の緑地の縁の道を歩いていくと志賀直哉旧居の前に出た。最終入館時間ぎりぎりだったが入れていただいた。志賀直哉といえば白樺派、白樺派は民藝の柳宗悦にも通じる。9月には鹿児島での民藝夏期学校で白樺派についての講演を聴いた。こういうことも巡り合わせなので、ここは素通りできないのである。今の人気作家と呼ばれる人たちがどのような生活をされているか全く知らないが、志賀直哉旧居は大きい。台所が大きく、人の出入りが多いのを当然としていたことがわかる。創作というのは大勢の人と交わることで可能になる行為なのだろう。

奈良公園の南辺から浮見堂、青葉茶屋、江戸三、を眺めながら三条通に出る。ここから宿を目指して行こうと思ったが、一旦宿に戻るよりも、夕食を済ませてから戻ろうということになる。本当は、明日、塔影能の後に行くつもりだった竹の館を「下見」ということで今日行くことにする。三条通からやすらぎの道へ折れ、南へ南へ。市街の結構主要な通りだと思うのだが、街灯が片側にしかなく、全体に暗い。その夜道の暗いことに少し驚くが、新潟出身の妻に言わせれば東京が「異常」なのだそうだ。

竹の館はその名の通り内装に竹が多用されている。天井、壁、飾り柱、カウンター、どこも飴色になった竹だ。嬉しいことに天上が高い。適当におでんと冷酒を注文する。その土地の印象をおおきく左右するのは、そこで食べたものであると思う。毎年飽きもせずにこうして奈良を訪れるのは、食べるものにハズレが無いということも大きな理由だろう。