熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2021年5月

2021年05月31日 | Weblog

『東京の編集者 山高登さんに話を聞く』 夏葉社

今となってはどのような経緯で知ったのかわからないのだが、去年『古くてあたらしい仕事』という本を読んだ。島田潤一郎という一人で出版社を経営している人が書いたものだが、これが大変面白かった。それで彼の経営する夏葉社が出版した本を何冊か買って読んだ。本の内容もさることながら、紙や装丁も含めた全体としての本の佇まいが良いものばかりだ。

一番気に入ったのは関口良雄の『昔日の客』だった。古書店を営む関口が仕事のことや作家のことを随筆にした作品だ。どれも自分との接点のない話だが、どれも面白かった。関口は1977年8月に結腸癌で亡くなった。享年59歳。今の自分と同年代だ。本書の「復刊に際して」に御子息の関口直人がこんなことを書いている。

亡くなる十日ぐらい前でした。真夜中に仕事から帰ると、父は眠れずに目を開けていました。足の裏を揉んであげると、気持ちよさそうな表情を浮かべながら静かに話してくれたのです。「どんなものでもいいから、お前は詩を書け。詩を書くことによって、お前の人生は豊かになる」、窓のカーテンが時折り緩やかに揺れ、月の光が差し込んでいました。(223頁)

自分が短歌とか俳句を詠みたいと漠然と思い、万葉集講座だの通信教育だのを受けていたのが2018年から2019年にかけてのこと。2019年からは「角川短歌」に投稿を始めてはみたものの、熱量としては一旦はそういうものから遠ざかりかけていた昨年にこの一節を目にして、残り少ない人生を多少なりともマシにしようという悪あがきのようなつもりで細々と短歌や俳句を詠み続け今に至っている。尤も、「詠む」というほど詠んではいないのだが。

マクラが長くなったが、山高登は『昔日の客』の復刊版に口絵と裏表紙の版画を提供している。木版画家になる前は新潮社に編集者として勤務していた。本書は夏葉社の島田が山高の話を聞き、まとめたものである。関口のことは本書にも出てくるが、山高は仕事で室生犀星の自宅に通っていた時に、室生宅の近所にあった関口の店に客として訪れたのが出会いの始まりだったそうだ。上林暁が脳溢血で倒れて阿佐ヶ谷の河北病院に運ばれた時、山高も関口も知らせを受けて病院に駆けつけ、そこで改めて互いの自己紹介をして、上林への想いについて4時間ほど語り合ったことで一気に距離が近づいたらしい。『昔日の客』の初版のほうの出版に際しては山高が編集を担当した。

自分に友達がいないから思うのかもしれないが、山高も関口も彼らの書いたものに登場する人たちも随分熱心に語り合うものなのだなぁと感心する。語ることもそうだが、時間が経つのを忘れて何かをしたという経験も私には無い。この先、そんな相手ができたり、そんなことに巡り合ったりするものだろうかと今は思うのだが、何事も終わってみるまではわからない。

 

三品輝起 『すべての雑貨』 夏葉社

これまでに読んだ夏葉社の本とは少しテイストが違う気がする。本書の著書は10年くらいして読み返したらかなり恥ずかしいと思うのではないだろうか。それでも、父親の話とレゴの話は面白かった。夏葉社の出版物でこれまでに読んだのは先日ここに書いた『東京の編集者』を含めて以下の6冊で本書が7冊目になる。出版する側と読む側は別の人間なので、出版するすべての本が双方にとって「何度も、読み返される本」というわけにはいかないだろうが、夏葉社の本を手にすると、本という存在の佇まいが大事にされているとの印象は強く感じられる。空疎なデータばかりが跋扈する時代だからこそ、同社の出版物を通じて、本を読むという行為が活字情報を拾うだけの浅薄なものではなく、書かれている内容と本というモノの存在感との全体像を味わうという贅沢なことなのだということが認識できる貴重な体験ができる。

『東京の編集者 山高登さんに話を聞く』
関口良雄『昔日の客』
吉田篤弘『神様のいる街』
永井宏『サンライト』
『庄野潤三の本 山の上の家』
山本善行・清水裕也『漱石全集を買った日』

しかし、本に書かれていることに装丁同様の質感が期待できるか、というのは別の問題だ。本書を通読してふたつのことに感心した。うだうだと文章を連ねることができるものだという著者に対する感心と、それを読み通した自分に対するものである。雑貨ということについては、以下の一節が全てを語っているように思う。

こういうインターネットに元来そなわっていた、人々が趣味趣向でつながり、擬似的に自己承認しあうシステムは、時代が変わってSNSなどにひきつがれたいまも、その本質をほとんど変えていない。大学時代をつうじて、仮想の世界で生まれたしくみは徐々に現実にもちこまれ、若者たちの生き方のルールをほんのすこしずつ書きかえていった。つまり、インターネットの支援をうけた現実世界は、せまい需要のサークルのなかで物をつくりだして、たがいに評価しあうゲームを、あらゆる分野で可能にしたのだ。私をふくめ、みなが表現者として立ちあがっていった。いわんや、それは自己表現としての雑貨のつくり手を大量に生み、その後の雑貨の爆発的な広がりを準備することになった。(91頁)

書き換えられたのは「若者たち」の生き方のルールだけではなく、現実世界丸ごとではないか。20年ほど前にベストセラーとなった赤瀬川原平の『老人力』にも似たような記述がある。

最近のパソコンとかインターネットとか、ああいう社会的な道具は非常にコセコセしていますね。作業の順番ばかり気にして、間違いのないようにとか、そういう神経ばかり使っている。あれは社会の道具だから仕方ないけど、人間の方は、ああはなりたくないですね。でも道具というのは人間に伝染るんです。(ちくま文庫 47頁)

論理的思考の落し穴ということを書いていたのだ。いまの世の中は脳社会とかいわれて、どんどん論理に覆われてきている。人々のそれぞれの感覚的思考が萎縮してしまって、安いから、得だから、便利だからというような論理だけでものごとが進み、好きとか嫌いは取るに足らぬものとして、どんどんゴミ箱に放り込まれている。たとえば法律というのは論理の最たるもので、それがまず人のおこないの第一に優先される。もちろん生活の上で法律とか論理的思考は必要で、論理あっての人間ということで人類はここまでやってきたのだけれど、好き嫌いがそれに押し潰されてしまったら、何のための人生なのかということになる。(文庫 86頁)

自分の脳が十分に発達していないから思うのかもしれないが、日々の仕事や世相を通じた印象として細かい間違いを気にする人が多くなったと感じる。しかも、存在そのものが間違いではないかという奴ほど、細かいことを論う。赤瀬川の方の「法律」はまさに昨今の「コンプライアンス」についてのものと読める。

ついでに近頃不思議に思うのは「コスパ」という概念。投入した労力やコストに対する見返りが多ければ多いほど良い、というしみったれた了見。分母を投入量、分子をその見返りとするなら、分母を限りなく少なくしてゼロにしたらコスパとやらは無限大になるのではないか。つまり、死んじまえ、ということ。

一旦は死んだものに改めて価値を与えたものが雑貨というものか。とすると、『すべての雑貨』の帯にある「雑貨化する社会」という言葉が妙にいきいきと見えてくる。他人様の書いた本を無駄に長いのなんのと、自分がうだうだと書いているのは矛盾の最たるものだ。そうか、私自身も雑貨なのだ。

 

高浜虚子 『俳句はかく解しかく味う』 岩波文庫

俳句とは何か、というところがはっきりしている。本書は次の文で締められている。

「芭蕉の文学」である俳句の解釈はこれを以て終りとする。—了—(185頁)

俳句は「芭蕉の文学」らしい。では、「芭蕉の文学」とは何なのだろう、ということになる。しかし、そういうことは本職の人に任せて、自分の好きに詠んだらいいんじゃないの、と思う。

本書で取り上げられているのは197句(「正」を書きがら数えたが、正確かどうかわからない)。句の解釈は、「はぁ、そうですか」と思いながら読むよりほかにどうしようもないのだが、句の大きさというか、奥行きというか、そういう広がりが大事らしい、ということはわかる。数年前に受講した万葉集講座でも講師の岡野弘彦先生は「歌の大きさ」ということを重要なこととして語られていた。岡野先生は昭和、平成、令和の各天皇の歌の御指南役を務められ、講義の中では雅子皇后陛下のお歌を取り上げて、「大きい」と賞賛されていたことが印象に残っている。その時、先生はスラスラと皇后陛下の歌を紹介されたのだが、書き写すことができなかった。確か、琵琶湖の風景を詠まれたものだったと記憶している。

俳句も短歌同様に「大きい」ことが大事だそうだ。まず初っ端の句。

な折りそと折りてくれけり園の梅

太祇の句である。知らない人の庭に梅の花が咲いているのを見て、その枝を一本折ろうとしたら、家の人に見つかって怒られたけれど、結局、その家の人が折ってくれた、というのである。勝手に梅の花を盗ろうとした人と、その梅の木の持ち主が、梅花を愛でたいという互いの気持ちを了解しあって大円団となった、という。これを「大きい」と思うかどうかは、思う側の問題なのだが、梅の枝一本という物理的にはさほど大きくはないものを通じて、梅を愛でる心という不定形のものが通い合うことを描くというのは、なるほど「大きい」のかもしれない。

地理的な広がりも「大きさ」だ。蕪村の句。

みよし野やもろこしかけて冬木立

吉野山は唐土に通じている、と言われていたのだそうだ。文物の流れで言えば、奈良はシルクロードの終点とも言われる。その吉野から中国まで冬木立が続いている、という句。

また、人口に膾炙した漢詩を俳句に詠むことで、時空を超える大きさが表現されることもある。同じ蕪村の句で『唐詩選』にある「易水送別」を詠み込んだものが紹介されている。

易水にねぶか流るる寒さかな

この句についての虚子の解説に、なるほど、と思う。

川上には根深を洗う百姓などが沢山いて、その洗った根深の葉片が薄濁りのした水の中に青い色を見せて流れているのであろうというのである。蕪村の想像からいえば「あろう」であるのだが、それを実際その景色を見たように「ある」としておるところがこの句に力を与えておるのである。想像も断定もその人の心の内の現象として見れば畢竟同じ事である。(14頁)

よく「客観的」だの「事実」だのと言うのだが、人の体験や経験を通過したものに客観もクソもない。要はどのような文脈の中で取り上げるか、ということだろう。よく市場調査などと称してアンケートなどを取ったりするのだが、そういうものの結果で何かをすると大抵トンデモないことになる。データだの統計だのと闇雲に奉る風潮も感じるが、そのデータがどのように採集されたのかというところまで気にする人はあまりいないようだ。とりあえず「総務省の」、とか、「日銀の」、などといった出所のものは、少なくとも「隣のジジィの」集めたデータよりも信用される。実態よりも権威が物を言うのが世間というものだと思う。事実と意見を区別しないといけない、などと言うが、都合の良い「事実」を並べることで「意見」を表明することなど簡単なことだろう。

また、他に句で大事なことは調子だと言う。

この調子というものは大事なもので、言葉つきで人間の品格が隠されぬのと同じことで、句の調子で自然にその品位は極まるのである。(69頁)

たまたま今読んでいるルソーの『エミール』にも似たようなことが書いてある。

抑揚は話の生命である。それは話に感情と真実味をあたえる。抑揚はことばよりもいつわることが少ない。だからこそ上品に育てられた人々は抑揚をひじょうに恐れているのだろう。(岩波文庫 上巻 118頁)

調子も抑揚も発話にまつわるものである。言葉というのは話してこそ通じる、ということだろう。歌も句も、普段の会話も、声に出して初めてその内容が相手に伝わるというのである。それはそうだろうと思うのだが、今、誰かと直接会話をすることに制限がかかっている。通信を介してのテキストや動画、音声などで直接会うことの代替ができる、ということになっている。本当に代替できているのだろうか。

 

『道の手帖 佐野眞一責任編集 宮本常一 旅する民俗学者』 河出書房新社

2005年初版発行だ。宮本が亡くなって24年が経過している。今はそこからさらに16年。いよいよ世の中は崩壊に向かっているとの思いを強くした。特に何か考えとか事情があって自分のプロフィール欄に「寿命あと10年」と書いたわけではないのだが、本当にそれくらいで終わるかもしれない。

宮本は伝承の収集をその世界観構築の原動力とした。書いたものというのは、当然のことながら、整理されたものだ。殊に時代を遡るほど、記録媒体である紙も筆記具も貴重なものとなる。そういう物を費やして記録に残すとすれば、そうした費用を負担できる者にとって都合の悪いことは残らない。歴史が創作とされるのは史料のそういう財としての側面を反映している。勿論、そうした記録は今を識る上で重要ではあるが、それだけでは人間のナマの世界は窺い知れない。だから、書かれたものの行間を読む学問として文学が成り立つのであり、民族学や民俗学が必要なのである。ナマの人間がわからずに政治も経済もクソもない。

歴史や文学から抜け落ちているのは人口として圧倒的多数を占める常民の暮らしだ。フツーの人々が何を考え、何を思い、どのように行動したのか。そういうものは史料には残らないが民話や伝承、そうしたものに基づいた習俗を通じて連綿と今につながる。「遠野物語」も「今昔物語」も「平家物語」も、今は書物となって流通しているが、元は口承だ。語られたものと文字に起こされたものが同じはずはない。語りにあって活字にないものは何なのか。あるいは、活字にあって語りにはなかったものもあるだろう。その隙間を埋めるのが人の生活そのものではないか。

ところが、その常民の暮らしを見出さなければならないはずの学問の方が伝承に迫ることができずにいる。本書に収められている宮本と谷川健一の対談「現代民俗学の課題」の中で宮本は次のように述べている。

また聞きの話というのは、うすっぺらな話になりますね。最近、われわれの回りのフォークロアの資料の中には、今はなくなっているものを聞き出した本当の体験というものは少ないでしょう。かつてあったというのを、親やじいさんから聞いてとかね。また聞きのまた聞きなわけです。(中略)伝承といっても、耳から聞くだけが伝承ではないでしょう。行為や技術も伝承でしょう。むしろその方が本物の伝承と言えますね。(155頁)

フィールドワークとはどんなものかということはたしかに分かるけれど、それではフィールドワークによって何が分かるかというのは別問題なのですね。独自の発見がなくて、人のやったあとをなぞっている感じですね。現在フィールドワークというのは、発見の学問にはなっていないのではないかと思いますね。(156頁)
現在の民俗学は、宙に浮いて、いくらいろんなものを集めてみても復元にはならない。復元できなきゃ学問にはならない。(160頁)

また、伝承を収集することの困難について、宮本は水上勉との対談「日本の原点」の中でこんなふうに語っている。

非常に問題になると思うことは、やっぱりいろりのなくなったことね。これは日本人の性格を変えてしまうんじゃないかと思う。(中略)戦前いなかを歩いていると、ほとんどランプだったのですが、いろりのある家じゃランプも使わない、いろりの火だけなんです。話を聞いていましょう。ノートを持っていって鉛筆で書く。三日もやっているうちに目やにがひどく出ちゃって、どうしようもないようになる。そういうときに、話をしてくれる年寄りも、聞いているこっちも、何の境もなくなるんですわ。(中略)ところがこのごろ話を聞きに行くと、がっかりする。「テレビを見にゃならん。テレビがすんでからにしてくれ」それは同じように、自分らの命を燃え続けさせるものが消え始めているんじゃないかという感じがするのです。(171-172頁)

すべてが荒れてき始めていますわね。人間は手をかけるから愛情を持つので、手をかけなきゃ愛情を持ちませんわね。(173頁)

グローバル化だとかなんだとか言って、物事をデジタルで測るようになる。数字というのはわかりやすいから、それがもともと何を意味していたかということとは関係なく、独り歩きをする。また、わかりやすいからそれを安易に追い求める。結果として、数字の多寡だけにこだわるようになる。どれだけ稼いだか、どれほど儲けたか、ということがその人や組織そのものの価値であるかのようになる。そうなると猫も杓子も数字を追う。どんな手段を使ってでも追う。勢い、効率が追求される。いかに手をかけずに大きな数字を得るか、ということが大事になる。そんな世の中で面倒なことは忌避されるのが当然だ。愛情、何それ? そのうち家族も死語になるか。人は個として存在するのが当たり前になりつつある。個人ではなく、ただの個。もはや人ではないのである。

 

新潟県立歴史博物館監修 『見るだけで楽しめる! まじないの文化史 日本の呪術を読み解く』 河出書房新社

先日読んだ『季刊民族学』176号に金沢大学客員研究員である鳥谷武史氏の「日本の生活に息づく宗教 モノとまじないのかたち」という記事が掲載されていた。最近、たまたま立ち寄った書店で標記の本が目についた。これは2016年4月23日から同年6月5日にかけて新潟県立歴史博物館で開催された「おふだにねがいを 呪符」という展覧会の図録を書籍化したものだ。図録が好評で完売したので、書籍化して販売したということらしい。本書の発行は昨年5月30日、例の感染症の世界的流行で世の中全体にあたふたしていた真っ只中だ。

「まじない」と「のろい」が同じ漢字「呪」であることを知らなかった。しかし、すぐに了解できた。昔、確か20数年前、仕事で3ヶ月に一回くらいの頻度で目黒にある会社にお邪魔していた。その会社はアルコタワーに入居していたので、目黒駅から行人坂を通っていく。坂の途中に寺があり、坂に面したところに小さなお堂があって、絵馬や護摩木を奉納できるようになっていた。無地の絵馬と護摩木があって、自分で料金箱に所定の金額を納めて奉納する仕組みだ。ある日、約束の時間まで余裕があったので、時間つぶしに、奉納された絵馬や護摩木を眺めていた。参拝客の多い大きな神社仏閣と違って、そこはあまり願い事の為に参詣するような寺ではない。それほど多くはない絵馬や護摩木があったのだが、その中に「◯◯◯◯と結婚できますように」とマジックで書かれた絵馬と護摩木が大量にあった。「◯◯◯◯」は男性の名前で、願い事の主は女性の名前だ。その絵馬と護摩木を数えはしなかったのだが、かなりの数だった。これなどは「まじない」のようでもあり「のろい」のようでもある。ふたりがどのような関係だったのか知る由もないのだが、願う側からすれば「まじない」であることが、願われる側にとっては「のろい」であったりすることもある。同じことの両面なのだから、同じ漢字を当てることに何の不思議もない。ところで、◯◯◯◯氏は無事でおられるだろうか。

そんな話はさておき、妙な感染症で世間があたふたしていることもあってか厄病退治のまじないのことが目につく気がする。『民族学』の記事もそういうもののひとつだ。鳥谷氏は記事の中でこのように書いている。

世界はいままさにウイルスの猛威にさらされているが、まじないは昔から防疫手段としてもちいられてきた。たとえば、民家の軒先に「蘇民将来子孫」と書かれた呪符が下げられていることがある。これは、かつて疫病神である牛頭天王を家に迎え入れ、もてなした蘇民将来という人物の子孫と自称することで疫病の災禍から逃れるためのまじないとされる。このような、軒先に配置して災厄を避ける護符にはさまざまなものがあり、門守と総称される。(『季刊民族学 No.176』84頁)

このnoteの見出し画像の写真は2017年8月に広島県福山市鞆の浦で撮影したものだ。立派な蘇民将来の護符、柊の小枝を刺した鰯の頭、茅の輪、文字が判読できないが梵字の記されたお札が玄関の軒先に掲げてある。彼の地にはこういう家がかなりあった。鞆の浦にある沼名前神社は明治時代に渡守神社と鞆祇園宮を合祀して改称したものである。祇園宮のほうは創建不詳で、つまりそれくらい古い。地元では祇園宮の呼び名である「祇園さん」が合祀後の沼名前神社にも引き継がれている。「祇園」といえば京都の祇園祭が有名だが、京都の八坂神社はここから分祀されたものだという話もある。但し、その京都の八坂神社の創祀には鞆の浦の祇園宮のことは書かれていない。

祇園祭もそうだが、夏は疫病祓の行事が各地で行われる。祇園祭の前身とされる御霊会は平安時代初期、貞観年間に疫病が流行したことに際して疫病神や死者の霊を鎮める為に行われたものである。祇園祭のとき、家々の軒先には厄除粽が吊るされる。そこにも「蘇民将来之子孫也」と書かれたお札が付いている。蘇民将来の子孫、と名乗ると病気にならないらしいのである。蘇民将来については標記の本から引用する。

蘇民将来に関する最も古い記述は、卜部兼方著の『釈日本紀』に引用された備後国風土記逸文である。その内容というのは、ある時、蘇民将来という名の兄弟のもとに旅の途中で一夜の宿を求めた神(武塔の神)に対し、裕福であるにもかかわらず泊めなかった弟の将来は家族もろとも滅ぼされ、貧しいながらも宿を提供した兄の蘇民将来は助けられ、弟のもとに嫁いでいた娘も、神の言う通り茅の輪を腰につけていたことによって難を逃れた。そしてこの神は自らを速須佐雄の神と名乗り、後の世に疫病があれば、蘇民将来の子孫といって茅の輪を腰に付ければこれを免れると言ったという伝説である。(60-61頁)

蘇民将来はフツーの人だが、そこに関わる神様がいるらしい。「速須佐雄」はスサノヲ、あるいは素戔嗚に通じることは直感的にわかる。スサノヲとなると日本の神話の基本に関わることで、多種多様な分野の多種多様な人々が多種多様な論説を展開している。全く自分の興味の外のことだったのだが、たまたま2015年にDIC川村美術館で開催された「スサノヲの到来」という展覧会を見て、カオスのようなスサノヲ話を目の当たりにして驚いてしまった。この展覧会の図録も図録というより論説集で、そこに寄せられた文章の量と熱さに圧倒された。スサノヲのことはまた別の機会に書くかもしれない。

昨年来の感染症騒動で既に緊急事態宣言が3回も発出されているが、「緊急」というのは滅多にないことを指す言葉であって、年に何度もあることを「緊急」とは言わない。勿論、発出する側はその都度「これっきり」と思って発出するのだろうが、その「緊急」に際し市井の人々が行わなければならないことが結局のところ「外に出ない」ということしか伝わってこない。感染症で、病原のウイルスが特定され、それに対するワクチンが製造され、その接種をする、ということは明瞭だ。しかし現実の生活の場面では、発生から一年以上経過して、「家にいなさい」と言われるだけで他に何の手立ても打たれていない。これで科学だの医学だのと、それがあたかも世の中の問題解決の切り札であるような物言いをされると、なんだか苦笑が漏れてしまう。感染症対策で各地の祇園祭や各種夏祓が中止されているが、肝心の人間はそうしたまじないに望みを託していた頃とあまり変わっていないようだ。